バルト海に生まれビルマに死す:
僧侶カール・テニッソン(1883-1962)の生涯
こんにちは、井上岳彦と申します。今回は、ロシア帝国・ソ連のヨーロッパ系で初めて出家した人物が、最終的にビルマ(以下、当時の国名として、ビルマを使用します) で息を引き取るまでの来歴について、紹介したいと思っています。
カール・テニッソンは、1873年、バルト海を望む、現在のエストニア南部に生まれました。エストニア語を第一言語、ロシア語を第二言語としており、民族的にはエストニア人だと考えられますが、第一次世界大戦後に独立したラトヴィアで国籍を得て、ラトヴィア風にカルリス・テニッソンスと名乗るようになりました。また、法名をヴェンダ・ヴァヒンドラと言い、1920年代にはマハトマ・ヴェンダ・ヴァヒンドラという名で著作活動をおこないました。
テニッソンの経歴は、同時代人によって、さまざまに、時に伝説的に書かれ、また、彼自身によっても後年何度も書き換えられたため、情報が非常に錯綜しています。いずれにしても、テニッソンは1911年から1916年にかけて「神智学者」を名乗り、バルト地方で、精力的に仏教に関する著作を発表するようになりました。ロシア帝国の東洋学者やチベット僧アグワン・ドルジエフらの尽力によって、サンクトペテルブルグでチベット仏教寺院の建立が開始されたのが、1909年のことでした。この頃、テニッソンも、チベット仏教ゲルク派で得度した、と言われています。
1931年からは、弟子のフリードリッヒ・ルスチク(アシン・アーナンダ)を伴って、活動の拠点をアジアに移し、中国、シャム(タイ)、ビルマで活動しました。1962年に、ビルマで永眠しました。
私は、ミャンマー専門家ではありませんし、(いつか行ってみたいと思っていますが)ミャンマーに行ったこともありませんが、エストニア人研究者マイト・タルツさんとともに、この興味深い人物について、調査してきました。しかし、テニッソンがビルマでどのような活動をしていたのか、まだ分からないことばかりです。皆さんと意見を交換し、今後の研究のヒントをいただければと考えております。よろしくお願いいたします。
井上岳彦