第5回『楽平家オンラインサロン』
バルト海に生まれビルマに死す:
僧侶カール・テニッソン(1883-1962)の生涯

2020年12月9日(水)
20:00〜
カール・テニッソン(1883~1962)(井上岳彦提供)
<無断転載ご遠慮ください>
バルト海に生まれビルマに死す:
僧侶カール・テニッソン(1883-1962)の生涯
こんにちは、井上岳彦と申します。今回は、ロシア帝国・ソ連のヨーロッパ系で初めて出家した人物が、最終的にビルマ(以下、当時の国名として、ビルマを使用します) で息を引き取るまでの来歴について、紹介したいと思っています。

カール・テニッソンは、1873年、バルト海を望む、現在のエストニア南部に生まれました。エストニア語を第一言語、ロシア語を第二言語としており、民族的にはエストニア人だと考えられますが、第一次世界大戦後に独立したラトヴィアで国籍を得て、ラトヴィア風にカルリス・テニッソンスと名乗るようになりました。また、法名をヴェンダ・ヴァヒンドラと言い、1920年代にはマハトマ・ヴェンダ・ヴァヒンドラという名で著作活動をおこないました。

テニッソンの経歴は、同時代人によって、さまざまに、時に伝説的に書かれ、また、彼自身によっても後年何度も書き換えられたため、情報が非常に錯綜しています。いずれにしても、テニッソンは1911年から1916年にかけて「神智学者」を名乗り、バルト地方で、精力的に仏教に関する著作を発表するようになりました。ロシア帝国の東洋学者やチベット僧アグワン・ドルジエフらの尽力によって、サンクトペテルブルグでチベット仏教寺院の建立が開始されたのが、1909年のことでした。この頃、テニッソンも、チベット仏教ゲルク派で得度した、と言われています。

1931年からは、弟子のフリードリッヒ・ルスチク(アシン・アーナンダ)を伴って、活動の拠点をアジアに移し、中国、シャム(タイ)、ビルマで活動しました。1962年に、ビルマで永眠しました。

私は、ミャンマー専門家ではありませんし、(いつか行ってみたいと思っていますが)ミャンマーに行ったこともありませんが、エストニア人研究者マイト・タルツさんとともに、この興味深い人物について、調査してきました。しかし、テニッソンがビルマでどのような活動をしていたのか、まだ分からないことばかりです。皆さんと意見を交換し、今後の研究のヒントをいただければと考えております。よろしくお願いいたします。

井上岳彦

【楽平家オンラインサロン 第5回報告】
バルト海で生まれ、ビルマで亡くなった僧侶の物語
~ 知られざる日本との関わりも明らかに ~
「バルト海に生まれビルマに死す:僧侶カール・テニッソンの生涯」と題する楽平家オンラインサロンが12月9日、開催された。これは、19世紀末にロシア帝国・ソ連のヨーロッパ系で初めて出家し、ビルマ(当時)で亡くなったカール・テニッソン(ヴェンド・ヴァヒンドラ)の来歴を知ろうと企画されたもの。当日は、ロシアの仏教文化に詳しい井上岳彦さんがテニッソンにまつわる写真やさまざまな記録をもとに研究の成果を紹介し、60人弱が接続した。
講演する井上岳彦さん
欧州唯一の仏教国、カルムイク共和国
井上さんは、ロシア連邦の一つであるカルムイク共和国の歴史や、ロシアにおける仏教文化の研究者だ。北海道大学を卒業後、ロシア連邦カルムイク共和国にあるカルムイク国立大学やモスクワ国立大学、サンクトペテルブルグ国立大学などで学び、東北大学やルートヴィヒ・マクシミリアン大学などに在籍した後、2018年より大阪教育大学の特任講師を務めている。
カルムイク共和国(講演資料より)
井上さんが研究しているカルムイク共和国は、カスピ海の北西に位置する小国だ。日本の近畿と中国地方を合わせたよりやや大きく、カスピ海側には砂漠が、内陸側には草原が広がる。人口は約30万人で、首都エリスタにはパゴダ(仏塔)が建つ欧州唯一の仏教国だ。
欧州唯一の仏教国と言われているカルムイク共和国(講演資料より)
カルムイクの人々は、チベット仏教を信仰するモンゴル系遊牧民たちの子孫で、17世紀初頭にジュンガル盆地(現在の中国・新疆ウイグル自治区北西部)から現在の地にやって来たと言われている。
カルムイクの先祖はモンゴル系遊牧民だと言われている(講演資料より)
日本人にはあまり馴染みがないように思われるカルムイクだが、ヨーロッパに近いという地理的な理由からロシアの人々との混血が進み、ロシア史上、重要な位置づけにあるという。その例として、井上さんはカルムイクにゆかりがあり、歴史の表舞台で活躍した人物を2人挙げた。

その一人が、1917年のロシア革命で反革命側の白軍を率いたラーヴル・G・コルニーロフだ。カリスマ的なリーダーとして知られる彼の母親は、カルムイクの出身だったという。
ラーヴル・G・コルニーロフ(講演資料より)
もう一人、1922年のソビエト連邦の成立に深く関与したウラジーミル・I・レーニンにも、この国の血が流れている。1924年に死去するまで初代最高指導者を務め、日本人にもよく知られている彼の父方の祖母はカルムイク人だった。
ウラジーミル・I・レーニン(講演資料より)
そんなカルムイク共和国とミャンマーとの関係について、井上さんは「詳細は把握していない」とした上で、「2016年6月13日にミャンマーから高僧シタグ・サヤドー(アシン・ニャニサラ)がこの地を訪れ、中央僧院に立ち寄った時に遭遇した」というエピソードを写真とともに紹介した。井上さんによると、「ヨーロッパ唯一の仏教国」を標榜するカルムイクは、ロシアの首都モスクワから空路で1時間半という地理的な近さもあって、ロシアをはじめ、ヨーロッパの各国から仏教徒や仏教に関心のある人々が集まってくるという。高僧がミャンマーからそんなカルムイクを訪ねるということは、ロシアやヨーロッパ諸国の人々にも象徴的な意味合いがあると言えよう。
東洋学の拠点ロシアで仏教に開眼
続いて井上さんは、ロシア帝国からソ連邦時代にヨーロッパで初めて出家したカール・テニッソンについて取り上げた。井上さんは「彼自身が後年に何度も記録を書き換えているため、情報が錯綜して正確に分からない部分も多い」とした上で、エストニア人研究者のマイト・タルツさんとの共同研究の内容を基に、その異色な経歴について次のように紹介した。
カール・テニッソンの生涯はいまだ多くの謎に包まれている(講演資料より)
テニッソンは、1883年にリーフラント北部のペルツァマー村(現在のエストニア南部)で生まれた。父親の職業は分かっていないが、実家はキリスト教プロテスタントの一派であるルター派で、民族的にはエストニア人だと見られるという。

1892年、東洋学の研究拠点の最高峰であったサンクトペテルブルク大学に入学し、哲学を専攻したテニッソンは、多くの学者や探検家、アジア系のエリートたちと親交を深めたと自伝に書き残している。ロシア帝国の皇太子(当時)だったニコライ2世のアジア旅行にも同行した側近のエスベル・E・ウストムスキー公とも交流があったと言われている。
テニッソンと親しくしていたカルムイク人貴族のダヴィド・トゥンドゥトフ(講演資料より)
その上で井上さんは、「テニッソンがチベットに関心を寄せるようになったのは、カルムィク人貴族ダヴィド・トゥンドゥトフとの出会いがきっかけだったのではないか」との見方を示した。トゥンドゥトフは、1891年にカルムイク人の間で約135年ぶりにチベット巡礼を復活させた人物だという。その後、1893年にバイカル湖周辺のシベリアに住んでいたブリヤート人に仏教を学んだテニッソンは、1900年から5年かけてシベリアやモンゴル、中国を回るなど、急速に仏教への傾倒を深めていった。

そんなテニッソンは、ブリヤート人の高僧、アグワン・ドルジエフの仲介で1905年にダライ・ラマ13世に謁見し、翌1906年には活仏でモンゴル君主のジェブツンダンバ・ホトクト8世(ボクド・ハーン)に面会したと自伝に書き残しているという。1907年頃からは自身も仏教を説くようになり、手応えのあった故郷エストニアやラトビアの人々に向け布教活動にも取り組んだ。
ロシアからアジアへ
1909年、当時の首都サンクトペテルブルクにチベット仏教寺院が建立されることが決まった。建設を主導したのは、前出の僧侶ドルジエフで、セルゲイ・オルデンブルクら国内の東洋学者も協力したという。費用は主にダライ・ラマ13世やジェブツンダンバ8世からの寄付と、ロシア帝国に住む仏教徒の浄財によってまかなわれ、1913年にグンゼチョイネイ寺が完成した。 そんなテニッソンは、ブリヤート人の高僧、アグワン・ドルジエフの仲介で1905年にダライ・ラマ13世に謁見し、翌1906年には活仏でモンゴル君主のジェブツンダンバ・ホトクト8世(ボクド・ハーン)に面会したと自伝に書き残しているという。1907年頃からは自身も仏教を説くようになり、手応えのあった故郷エストニアやラトビアの人々に向け布教活動にも取り組んだ。
サンクトペテルブルク、グンゼチョイネイ寺(講演資料より)
同じ頃、テニッソンはチベット仏教の4大宗派の一つで最大勢力のゲルク派で得度し、ヴェンド・ヴァヒンドラという法名を得た。1911年からは古代の宗教的かつ哲学的な叡智を探求する「神智学者」を名乗るようになり、仏教に関する著作を精力的に発表したり、神智学協会の創設者の一人であるヘンリー・S・オルコットの著書『仏教問答』をエストニア語に翻訳したりしながら、仏教の教義をバルト社会に伝えた。
テニッソンは神智学者を名乗り、仏教の教義をバルト社会に伝えていた(講演資料より)
その一方で、テニッソンは1914年にグンゼチョイネイ寺の専任僧侶に選出され、1920年からは財務管理も任されるなど、僧侶としての活動にも熱心に取り組んだ。井上さんによると、この時期、テニッソンは次第にバルト社会におけるキリスト教以前の信仰と仏教の共通性について関心を抱くようになり、しばしば不老不死や超人的な話を口にするようになっていたという。井上さんは、「そんなテニッソンのことを周囲の人々はあがめたり崇拝したりする者もいれば、いぶかしむ者もいたようだ」と述べた上で、彼が高層階から飛び降りても怪我一つなかったという逸話が残っていることを紹介した。
1913年に発行された雑誌に掲載されたテニッソンの挿絵
(出典:"Kilk," No. 9, 1913, S.16)(講演資料より)
その後、1917年にロシア革命が勃発したため、故郷に戻ってタルトゥやリガなどの街で布教を始めたテニッソン。しかし、エストニアが次第に仏教の布教に難色を示すようになったため、布教に寛容だったラトヴィアに移り、1922年に市民権を取得。ラトヴィア風にカルリス・テニッソンスと名乗るようになった。

1930年夏、何度目かの転機が訪れた。フリードリッヒ・ルスティヒとの出会いだ。ルスティヒは、バルト・ドイツ人で宝石商を営んでいた父親と、ラトヴィア人の母親の間に生まれた。当時、バルト・ドイツ人は、ロシア帝国の支配下にあっても、政治、経済、文化など、社会のあらゆる場面でエリートとして活躍していた。

成人したルスティヒは、エストニアの都市ナルヴァでピアノ奏者として活動していたが、テニッソンに出会って数カ月後の1930年11月に出家。アシン・アーナンダと名乗るようになったという。2人は翌年、アジアに拠点を移し、中国やシャム(現在のタイ)、そしてビルマ(現在のミャンマー)などを回って活動を始めた。
第4回世界仏教徒会議の様子(講演資料より)
その後、テニッソンが1956年にネパールのカトマンドゥで開かれた第4回世界仏教徒会議にラトヴィア代表のヴェンダ・ヴァヒンドラとして参加し、かつてシベリアで仏教の教えを請うたブリヤート人僧侶に再会したのをはじめ、師弟がそれぞれ世界仏教徒会議に2度ずつ参加したことが分かっているという。テニッソンは1962年、72歳の時にビルマで永眠した。
師匠亡き後の弟子ルスティヒ
井上さんの講演に続き、テニッソンにゆかりのある参加者からも話題提供が行われた。

その一人、1960年代にヤンゴン大学でビルマ語を学んでいたという奥平龍二さんは、「当時からアシン・アーナンダ僧(ルスティヒ)は学内でよく知られていた」と発言。残念ながら直接会う機会はなかったが、大学の講義で古典から現代までいろいろな詩が取り上げられたため、アシン・アーナンダが監修と英訳を手掛けた「古典詩集」(出版年不記載、全40 ページ)と「現代詩集」(1968年、全40ページ)を入手し、独習していたと話した。さらに、その2冊を画面越しに見せながら、「今も手元に置いて、時折、参照している」と語った。

続いて、田村克己さんも、テニッソンと、彼の弟子のルスティヒについて、インターネットで公開されているエストニア人研究者の学会発表を紹介した。

この研究によると、2人はアジアに拠点を移してからも、上座部仏教の僧侶にはあまり見られないあごひげを伸ばして剃らなかったり、歌舞音曲から距離を置くという戒律を無視したルスティヒがビルマの古典音楽を西洋風にピアノで編曲したりするなど、見た目も言動も周囲になじんでいなかったという。しかし、1962年に師匠のテニッソンが亡くなると、弟子のルスティヒはひげを剃り、ピアノも一切弾かなくなったという。「まるで呪縛から解放されて憑き物が落ちたように、心身ともに上座部仏教に近づいていったように思われる」と、田村さんは話した。
フリードリッヒ・ルスティヒ(アシン・アーナンダ)(講演資料より)
そんな田村さんは、1977年に初めて当時のビルマを訪れた際、スーレー・パゴダ近くにあるキリスト教バプティスト派の教会でミサに参列し、アシン・アーナンダ僧からキリスト教と仏教の連帯について説法を受けたという。その時の思い出について、田村さんは「ミサのリーダーと一緒に歌を歌い、自著の英文小冊子を手渡してくれた師の姿が忘れられない」と振り返った。

また、「2人はパリ経由でタイに移り、長く滞在して地元英字紙のバンコクポストなどで政治的発言を繰り返していた。しかし、ソ連のスパイではないかと嫌疑をかけられ、1949年にビルマに追放された」とした上で、「実際に彼らが諜報活動を行っていたかどうかは明らかになっていない」と指摘。また、ルスティヒが軍事政権下のビルマで外国人立ち入り禁止地域を含めて全土を自由に移動できる軍事パスを与えられていたことに触れ、「共産主義者ではなかったのではないか」との見方を示した。

これに対し、井上さんは「祖国ラトヴィアを離れて長期にわたり海外に滞在するということは、ビザ更新も含めさまざまな手続きが求められたに違いない。その意味で、2人はやはり何らかの役割を負っていたのではないか」と指摘した。

続いて、原田正美さんが、「一般の仏教史は上座部仏教が中心で、近現代にどんな交流があったか記録に残されていないことが多い。2人の生涯が明らかになることで、当時の全体像が書き換えられる可能性もあり、興味深い」と話した。
~
全体を振り返り、その他の参加者から「ロシア革命をどのように乗り越えたか」「フルシチョフのアジア外交について」「上座部と神智学の折り合いは?」「大乗仏教系のチベット仏教と、上座部仏教系のビルマでは違いも大きかったのでは」といった質問が寄せられた。これに対し、井上さんは、「ロシア革命によって宗教は廃止すべきものとされ、1920年代半ばより弾圧が始まった。仏教は当初、哲学とみなされて一定の活動が許されていたが、1930年代中旬より弾圧されるようになった」「スターリンは時に応じて宗教を保護したが、フルシチョフは再び宗教者に厳しい態度を取った。冷戦時代は宗教者を通じてアジア地域に革命を輸出しようと多くの僧侶が派遣されていた」「仏教徒の間では、チベット仏教か上座部仏教かによらず交流が見られる。そうした立場によらない動きは当時からあったのではないか」などと答えていた。
(記事執筆:玉懸 光枝)
<無断転載ご遠慮ください>
アンドモア
井上岳彦さんの論考「新仏教聖地建設の夢:カルムィク人の仏教復興と民族文化復興のあいだ」(杉本良男・松尾瑞穂編『聖地のポリティクス―ユーラシアユーラシア地域大国の比較から』2019年、風響社、第7章)は、現在のカルムィクの仏教について書かれています。

  1. はじめに
  2. ロシアの仏教信仰の歴史
  3. カルムィク人仏教教団の「仏教復興」
  4. 仏教聖地と民族文化のあいだ
  5. おわりに

「報告」記事にある、ミャンマーの高僧シタグ・サヤドーの訪問について、当時の現地紙のニュースは、次の通りです。
http://savetibet.ru/2016/06/29/myanmar-monks.html

井上岳彦さんによると、シタグ・サヤドーは、訪問で反イスラーム的な主張を繰り返しました。カルムィクはキリスト教徒、ムスリムに囲まれたマイノリティであり、共和国の内部にも多くのムスリムを抱えているため、カルムィクの仏教界のトップは各宗教との融和を前面に強く押し出しています。シタグ・サヤドーの主張は、カルムィク仏教界の考えにそぐわないため、例えば、中央寺院のホームページではシタグ・サヤドーの訪問のページが以前はあったのですが、削除されています。
同じく、「報告」記事にある、アジアに拠点を移してからのテニッソンと弟子のルスティヒについて、エストニア人研究者の学会発表の記事は、以下をご覧ください。
Tracing an Estonian Buddhist in Burma: Reverend Friedrich Lustig (1912-1989) by Karin Dean

奥平龍二さんからの追加情報は、以下をご覧ください。
この中で質問されている項目については、井上さんから改めて以下のお答えをいただきました。
奥平先生のご質問についてですが、

1)アシン・アーナンダ(ルスティヒ)は民族的にはバルト・ドイツ人です。テニッソンはエストニア人だと考えられます。生まれはどちらもロシア帝国臣民で、1922年にテニッソンがラトヴィア国籍を取得します。アシン・アーナンダも、のちにラトヴィア国籍を取ったと思われますが、いつなのか正確なところは分かりません。1931年12月以来死ぬまで、彼らはバルト地域に戻っていないようです。

2)受戒、パーリ語・ビルマ語については研究不足で、どうしていたのか分かりません。まだ始めたばかりの研究なので、今後明らかにしていきたいと思います。
また、奥平さんのおっしゃる、ビルマ古典詩の英訳本は、今もAmazonで入手可能です。
以下の2冊の情報をご覧ください。

原田正美さんからの追加情報は、以下をご覧ください。
次回からの「楽平家オンラインサロン」
次回の「楽平家オンラインサロン」は、1月11日(月、休日)で 、「新年特別プログラム」として、午後1時から2時間半です。
米国カリフォルニアのオークランド近郊から、現地在住のミャンマ ー人僧侶と結んで、ミャンマーの瞑想の解説と実践です。
実践していただくのは、「慈愛の瞑想(ミッター・バーワナー)」 です。

2月は、10日(水)午後8時から9時30分まで、億栄美さんが 、赤十字や人道支援について、わかりやすくお話しされます。
そして、あわせて14年間に及ぶ、「ミャンマーの日々」を振り返 ります。

ご期待ください!
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