第33回
『楽平家オンラインサロン』
2023年5月10日(水)
20:00〜
多様化する日本でアイデンティティーに悩む人を理解する
映画『WHOLE/ホール』より。
川添ビイラル提供
<無断転載ご遠慮ください>
話の内容とプロフィル
≪内容≫

社会のグローバル化が進むにつれ、国際結婚は増加傾向にあり、現在の日本社会でも両親のどちらかが外国にルーツを持つ家庭で生まれ育つ、ミックスルーツの子供たちが増えています。少しずつダイバーシティー(多様性)の理解は広がっていますが、メディアで取り上げられるポジティブな印象のハーフタレントやアスリートとは裏腹に、ミックスルーツとして日本で過ごす中で、自らのアイデンティティやルーツに悩む人々も存在します。差別的な扱いや、偏見、マイクロアグレッションが今もまだ存在する中、様々なバックグラウンドやアイデンティティを持つ人を理解するには何が必要なのか。オーストラリア国立大学の講師、高橋ゆりさんと対談しながら、皆様と一緒に考えたいと思います。

(川添ビイラル)


≪プロフィル≫

川添ビイラル

兵庫県神戸市出身。ビジュアルアーツ専門学校放送映画学科を卒業。卒業制作『波と共に』(2016) が、なら国際映画祭NARA-waveと第38回ぴあフィルムフェスティバルに入選し、2016年5月に開催された第69回カンヌ国際映画祭ショートフィルムコーナーに選出される。

卒業後、現場通訳や助監督としてキャリアをスタートし、世界的に有名な映画監督の元で映画制作の仕事に従事する。 日本で過ごすハーフの青年の葛藤を描いた物語『WHOLE/ホール』(2019) が第14回大阪アジアン映画祭インディー・フォーラム部門にてスペシャル・メンションを受賞し、北米最大の日本映画祭JAPANCUTS 2019へ正式出品される。

現在は東京と大阪を拠点とするフリーランスディレクターとして活躍しつつ、初長編映画を準備中。

川添ビイラル: https://www.bilalkawazoe.com/
映画『WHOLE/ホール』:https://www.whole-movie.com/


≪川添ビイラルさんとの対談に向けて≫

高橋ゆり

日本社会に暮らすミックスルーツの人々の悩み、憤り、悲しさに可笑しさ、そして寂しさ。川添ビイラルさん監督の劇映画『WHOLE/ホール』はそうした思いが率直に伝わってくる作品です。繊細な美の世界とともに時に現実味ある映像は、官民挙げて国際化を謳う日本の国で置き去りにされているこの問題に目を向けさせます。川添さんと共に日本におけるミックスルーツの現状や過去、またオーストラリアにおける移民やミックスルーツ子女への教育との比較などを語り合うのを楽しみにしています。みんなが人間らしく生きられる社会を目指しながら。

(プロフィール)
1998年からオーストラリア在住。2000年から2016年までシドニー大学で日本語教育を担当する一方、近代ミャンマー文学、思想史の研究を続けた。シドニー大学歴史学科修士号及びアジア学博士号取得。2016年よりオーストラリア国立大学ミャンマー(ビルマ)語学科講師。1990年代からビルマ古典歌謡の歌手としても活躍中。


【楽平家オンラインサロン 第33回報告】
楽平家オンラインサロン 第33回(2023年5月10日)は、川添ビイラル監督の作品『WHOLE/ホール』(2019年)を巡り「多様化する日本において、アイデンティティに悩む人を理解する」をテーマとし、ビルマ古典歌謡の歌手でオーストラリア国立大学ミャンマー(ビルマ)語学科講師の高橋ゆりさんの司会による、川添さんとの対談でした。

まず冒頭で高橋さんより、
  • 日本は国際化が叫ばれ、何十年も「日本も地域社会も国際化しなければならない」といわれている。
  • だんだん多様化する日本の生活の中で交流も増え、片親が日本以外の国で生まれ来日した方々の下に生まれる子供たちも沢山いる日本。
  • しかし、私達がミックスルーツについてどれだけ理解しているか。今、日本で生きるミックスルーツの子供達も大勢いるが、日本社会でミックスルーツとして生きるということはどういうことなのか。どれだけ分かり合っているのか。
と今回の対談の主旨の説明があり、川添ビイラルさんの経歴(「プロフィール」欄参照)を紹介されました。川添さんは、現在、長編映画の脚本を執筆中とのことです。

高橋さんが、同映画からの写真の青空、白い雲と空のイメージが、とても印象的な作品と感想を述べられました。
  • 白い、真昼の月であること。綺麗であるが頼りなげ、悩む人のよろめきを表現するような感じ。満月に近づくのか。象徴的なシーンが印象的な映画。
  • 日本と違う国出身の父親を持ちミックスルーツを持つ、二人の青年が登場。二人の日本社会への対し方、日本社会から受ける彼らの悩み、それぞれ違う。複雑さが感じられる。
  • もっとも重要な点は、日本に生きるミックスルーツの方、例えば芸能人やスポーツ選手等の活躍や悩み、家庭環境等のドキュメンタリーは鑑賞する機会が以前からあったが、同作品は劇映画、フィクションであること。とても珍しく、恐らく初めてではないか。

ご自身の本作品へのご興味はこの3点から始まったと説明され、以下の問いを提示されました。

  • この映画で描かれたミックスルーツの方達の問題、それは結局、日本社会における差別問題に我々はどう向き合うかという問題であるが、その解決の糸口はあるのかどうか。

川添さんより改めて自己紹介があり、お二人の対談となりました。

»
高橋:芸術的な美しさ、フィクションと思えないリアル感に引き込まれました。どうしてドキュメンタリーではなくフィクションで撮ろうとしたのでしょう。

川添:この映画を作るきっかけは、実際に映画にも出演している弟が、「ミックスルーツの方々の葛藤だったりアイデンティティに焦点を当てた映画を撮りたい」と相談してきたことからです。二人で話し合い、「確かにドキュメンタリー映画は何度か観たことがあるが、劇映画がないよね。では、私達で作るしかない。」という話になり、「この映画を撮ろう」という使命感が芽生え劇映画を撮影することにしました。

高橋:弟の川添ウスマンさんが俳優として出演されていますね。サンディ・海さんと川添ウスマンさんという、現実にミックスルーツを持つお二人の演技は、フィクションの夢・抽象性もありながら、リアルです。ウスマンさんは日本に生まれ育つ中での葛藤、悩み、怒りが色々あったのでしょうか。

川添:弟はそういう自分のアイデンティティについて悩み色々考える中、「脚本を書きたい」という思いで私に相談してきたと思います。彼が脚本を書き、自分の経験をベースに第1稿を書きましたので、それが原点といえば原点です。

高橋:ご兄弟は兵庫県神戸のお生まれ・お育ちです。神戸というと国際都市のイメージがありますが、実際にご自身の体験を振り返るとどうでしょうか。私の母も神戸生まれで行ったことがあります。昭和の始めに彼女の両親に連れられて台湾に行き、その後は現在の韓国で数年暮らし、当時の満州国大連から戦争になる前に日本に戻ってきました。母は神戸のことは覚えていないと思いますが、時々、私も旅行しました。私は東京世田谷区出身です。昔、世田谷区は農村地帯でした。かつての農村地帯が住宅街になった場所であり、いわゆる国際的でない場所で育ちました。神戸というと国際的な環境で、ある意味ミックスルーツの方や外国人の方と日常的に接することが多いのではないでしょうか。

川添:確かに、よくそのように言われることもあります。外国人の方々が住んでいる地域だと思いますが、最近、東京に引っ越したのですが、どちらかというと東京の方が色々なバックグラウンドの方々、ミックスルーツや外国人の方々が多い印象です。確かに、神戸もそのような場所だが、東京と比べてみるとそうでもないのかと最近は思います。

高橋:確かに、東京は大きい都市ですから、区・地域によって色々と違うのでしょう。私は1991年に東京を離れてミャンマーで3年、東京で1年仕事をした後、オーストラリアで28年暮らしています。時々東京に戻りますが、確かに東京には色々な外国の方が行き来しています。コロナも終息したということで、賑わいも戻ってくるでしょう。ただ、東京も広いので、日常的にミックスルーツや外国人の方々と接する場所とそうでない場所の差は大きいと思います。東京から来た近しい人に「最近、東京でミックスルーツや外国の方を見たり接するチャンスは増えてきましたか。」と聞いてみたところ、「東京でもなかなかない」という答えでした。東京においても地域差があり、全国で見てもある意味少数者であるから、ミックスルーツの方々の苦しみは、少数者の方達の考え・体験・感情を非少数者が理解できるか、ということにも関わっているのではないでしょうか。
川添:高橋先生が書いてくださった《川添ビイラルさんとの対談に向けて》の文章中の「忘れられた問題(置き去りにされているこの問題)」というような表現に近いと思います。ミックスルーツの方々の葛藤について考えたことがない方が多いです。自身も制作した映画を観てもらったところ、同様の感想が多かったです。「こういう呼び方や接し方が、相手を傷つけることだったとは知らなかった。」という感想があり、逆に良いきっかけになるのかなと思いました。何故なら私達ミックスルーツの人々が経験していることは、日本以外のバックグラウンドを持っている方や在日の方々や障害を持った方々、LGBTQの方々といった、日本で生きるマイノリティの方々も同じような経験をしていると思うので、私の映画や私が伝えたかったメッセージや話を通じて、「他のマイノリティの方々も同じような経験をしているのではないか。」と考えるきっかけになれば良いな、そういうことをできるだけ皆で一緒に考えられたら良いなといつも思っています。

僕から高橋先生への質問ですが、高橋先生の東京からミャンマー、オーストラリアに行った動き・経験は珍しいことと思います。その中で、逆にご自身のアイデンティティを考えることはありましたか。

高橋:考えることはありました。「えっ?」と思うことがありました。元々日本語教育の仕事に入り、その関係でミャンマー人の方々に日本語を教えるチャンスがありミャンマー語を勉強するようになり、その縁でミャンマーに行き、またそこでお世話になった方々の縁で「次の仕事がオーストラリアにあるけれどどう?」と言われオーストラリアに来て夫に会い、結局定住するようになりました。得た仕事が日本語教育でしたので、日本のことは絶対に忘れてはならない訳です。日本のことを忘れたり情報のアップデートが出来ていないと、日本語教育、特に大学で教える場合は仕事にならないため、日本で何が起こっているか、またそれについて自分がどう思うか、色々とフォローしてきたつもりです。またこちらでミャンマー出身者の大きなコミュニティがシドニーにあるのでその方々と身近に接し、むしろ現実的にはお休みの日には日本の方よりミャンマーの方と会うことの方が多いです。

自身のアイデンティティについて「えっ?」と思ったことですが、ある時日本の叔母に電話をかけました。「叔母さんどうですか」と聞くと「ゆりちゃんは外国に行ってしまったから、外国人になってしまったのね。」と言われ、びっくりしました。私は「いえ、外国に行っても日本にいても『高橋ゆり』ですけれども」と言ったら叔母は黙ってしまいました。それから、外国に住む日本人が日本に帰ると眼差しが厳しいと感じることがあります。日本的な態度が失われているとか、日本的な価値観が損なわれているのではないかと疑るような視線を感じます。

川添:常識だったり日本で言う「空気を読む」ことも、やはり日本で生まれ育ったからこそ身についているというか、海外だとそこが少し違ったりします。

髙橋:そう。それから日本の社会もどんどん変わっていきます。でもそこは日本にいらっしゃる方々にも気が付いている方も気が付いていない方もいらっしゃると思いますが、例えば「忖度」という言葉は、私が日本を離れた30年前は国語辞典にはあるでしょうがだれも「忖度」なんて言っていなかったし「忖度を実践している」という人はいませんでしたが、気が付くと、日本語教育の仕事をしていて、なるべく日本のマナーや移り変わりもなるべくフォローしているつもりでしたが、はっと気が付くと日本からいらっしゃる方々は、以前の日本以上に忖度していることに気が付きびっくりしました。

日本語教育はシドニー大学で2000年から2016年まで16年間教えていましたが、その間に日本の大学からも日本語教育者や日本研究者の方々がいらっしゃいました。シドニーの交通機関はバスも電車も結構ゆるいというか、遅れることがあります。日本の大学からいらしたお客様の先生達に「すみませんね」「バスが遅れてなかなか大変だと思います」「シドニーバス公社、もっと行政がしっかりしてくれなければ」などと言ったら、日本からいらした先生が「流石、先進国ですね」と仰った。「日本ではだれも行政や政府を批判しません」と言われて、「あれ、この程度は昭和時代には床屋談義だったのに」と、私も今の日本の常識とだんだんずれてきている部分があるのかなと気づかされました。

川添:その話で思ったのは、例えば先生のように色々な国に住んでいる方についてです。「バイカルチュラル」という言葉があります。一つの文化だけではなく二つや三つの文化で生まれ育った方。または「バイレイシャル」。日本人だけでなく他のバックグラウンドも持っている方、そういう方々は例えば英語も日本語も喋れる方だと、先生も多分同じようなことだと思いますが、ミャンマー語を喋る時に少しパーソナリティが変わると聞いたことがあります。喋り方だったり仕草だったり。オーストラリアに住んでいる時とか日本に住んでいる時も、少しアイデンティティの変化ではないが、スイッチングのようなものがあるのかと思います。例えば、日本では電車やバスが時間通りに来るのが普通です。でも違う国、例えばカナダに行くと、最初は時間通りに来るのが普通と思っている自分があると思うが、「まあ、カナダだから仕方がないよね」となると思います。スイッチングが出来るということは、少しアイデンティティに似ているなと思いました。

高橋:本当に、アイデンティティの定義はなかなか難しいですね。外国に住んだから外国人になるとか、日本に来て日本に住んでいるのだから日本人になりましょうというのもおかしいと思うのですが。オーストラリアは移民国家で、政府が計画して何万人という規模の移民を受け入れている国で、一概に日本と比べるのはとても難しいです。アイデンティティ、それからに家庭で使う言葉の問題は本当にバラエティに富んでいます。日本語のクラスでは英語を私達の媒体語として日本語を勉強し、1~2年経つと上達します。家で何語で話すのかと尋ねると、イタリア語、ポーランド語、中国語、広東語、と色々あります。英語だけ話す家庭もありますが、オーストラリアは英語の国ではなくマルチリンガルな国でもあるな、と実感します。学生は、オーストラリア人としてふるまい、時にはポーランド・コミュニティの一員としてふるまいます。一つのアイデンティティより複数のアイデンティティへのスイッチ、またはミックス・融合が起こっていると思います。日本でもそういう方達はミックスルーツの方も含め増えていると思います。川添さんと弟さんについてもう少し伺いたいです。神戸でお生まれになって、学校や、失礼ですがお父様お母様はどちらの国からいらっしゃいましたか。

川添:母が日本人で鹿児島出身です。父はインド出身ですが、国籍はパキスタンです。よく自分でも初めての自己紹介をする時に、笑いを取るために「お母さんもお父さんも『濃い』から、こういう濃い顔なんだよ」と言って笑いを取っています。二人とも田舎の出身で、出会って私がいます。

高橋:日本とインドという話を聞いて、明治時代の日本とインドのカップルを思いだしました。中村屋という新宿の有名なレストラン・お菓子屋さん、今もあります。日本人は誰でもカレーライスを食べているが、日本の美味しいカレーは中村屋から始まったという話です。中村屋がカレーを出すようになったのは、ラス・ビハリ・ボース、反イギリス運動をしていた革命家がきっかけだそうです。当時はインドもパキスタンもミャンマーもバングラデシュもみな大英帝国の中にあって、ラス・ビハリ・ボースはイギリスに対する抵抗運動をして警察に逮捕されたりしていたところ日本に亡命し、理解ある日本人にかくまってもらいました。日本のイギリス大使館も「ボースはどこだ」「かくまっている日本人は誰だ」と追う中、中村屋の娘さんと結婚し、インドには戻らず日本に帰化しましたが、彼が日本の中村屋の有名なカレーの普及に貢献したそうです。
川添:映画にしたいような内容。

高橋:そう。新しい解釈を加えて。結局、ボースさんは中村屋のお婿さんにはならずに帰化して防須という苗字で日本に定住しました。女の子と男の子がいて、男の子は昭和前半ですから、日本の軍国青年として育ちました。彼がお父さんのインドのアイデンティティをどう理解したのかはわからないですが、日本に帰化したインド人のボースさんの息子は日本の軍国青年として育ち、日本帝国陸軍の戦車隊の隊員になって沖縄でアメリカと戦って戦死しました。ボースが戦前の日本に何を、何が良いと思ったのか。ナイルレストランという店がありますが、そこもボースさんと交流のあったお店です。ナイルさんがボースのことを思い出して本を書いていると思います。

ちょっと話がずれましたが、大英帝国のインドと日本とは戦前から深い関わりがあって、そこに関わった方々はどういうアイデンティティや国家観、自分の国それから理想的な世界をどのように考えていたのかと思います。

川添:話を聞いていて、少し自分の父を思い出しました。父はインドで生まれ、戦争の後、パキスタンとインドが分かれる時にパキスタンに移り、そこで国籍が変わりパキスタン人になりましたが、今でも「私は本当はインド人だ」とずっと言っています。自分の中でしっかりとアイデンティティを手放さないというか。「自分はインド人」ということを、日本での時間の方が長くなった今でも言っていることを思い出しました。

高橋:ミックスルーツの方達の悩み又は喜びをもっと知ろうというのが、今回のこのイベントの一つの趣旨ですが、ミックスルーツの問題を考えると、その父親・母親の問題もあります。問題というよりも、結婚に踏み切ったり一緒に住んだり家庭を持つこと、特に日本の社会においては色々な苦しみがあったのではないかと思います。川添さんのご両親、例えば日本側の親戚の反対又はパキスタン側のご親戚からの反対はあったのでしょうか。

川添:父からよく聞かされましたが、母側が大反対でした。父が鹿児島まで行き私の祖母に会いに行った時、直ぐに「帰れ」と言われそのまま帰ったという話を聞きました。ものすごい大反対をされました。逆に、今はそのような話は少ないのかなと思ったりしますが、まさに先生の仰る通り、子供だけではありません。ミックスルーツの子供たちの親も、同じ経験をしたことがないことが多いと思います。日本人と違う国の方だと、その子供がどういう悩みを持ち葛藤しているか、理解したくてもどう理解すればよいのかわからないということもあります。よく私がミックスの方々と出会い話す時、「自分の親とそのような話をしたことがない」もしくは「話しても理解してくれない」ということが多いです。両親にしても理解し難いし子供にしても理解してもらえないから話し難いということがあるため、子供だけの問題・葛藤ではありません。

高橋:川添さんと弟さんは、小学校とか神戸の地域でいじめられたりミックスルーツであるがゆえに「どうしてこういう思いをしなければならないのか」という差別体験は色々ありましたか。

川添:私と弟は、中学校までインターナショナルスクールで英語で教育を受けたので、どちらかというとそのような経験はしませんでした。しかしその後、日本の高校や社会で仕事をするようになり、初めて区別される経験をしましたので、どちらかというと「逆パターン」です。小学生の時から日本の小学校に行っている子供たちだと小学校で初めてそのような経験をする子供も多いと思うが、我々は逆。それまでの経験・接し方とは違う接し方をされて、カルチャーショックという言葉ではないかもしれないがすごくびっくりしました。大人になってからも、警察官に呼び止められたり色々経験しました。

高橋:心無い言葉で忘れられないとか。例えば映画の中で弟さんが演じる誠くんと、誠くんが出会ったもう一人のミックスルーツの青年の春樹くん、二人がラーメン屋さんにいると「お、外国人がいる。」「納豆は食べられる?食べられますか?」とか。何だか外国人は納豆が食べられないと頭から言っているような。あの場面を見てちょっとぎょっとしたのは、私は日本語教育の仕事をしていると、日本語教育が言葉の押し付けだけではなく文化、ステレオタイプの文化の押し付けになっていないかと。

最近の日本語教育は、だんだん変わってきています。日本語・日本の文化を教えるというのは、特に日本の高度経済成長期には日本の経済成長に過剰な自信をもって、日本語を教える・日本の文化を教える=その通りにしてもらいたい、という日本語教育があって、その当時の教科書には「あなたは納豆が食べられますか」とか例文や練習問題に出ていて、「何なんだこれは?」と思ったりしました。流石に、最近は、日本語教育の教材にはなくなってきていると思うし、特にオーストラリアで日本語教育をする場合、マルチカルチュラル、多文化主義の国なので、むしろ異文化・言語がもっと多文化・異文化共生、ともに生きられるように、その理解増進のための日本語教育という風に、だんだん外国人への日本語教育のスタンスも変わってきて、それはよいと思います。外国での日本語教育だけでなく、日本国内で海外からいらした方と接する時にもそんなスタンスの日本語教育がどんどん必要になってくると思います。

川添:どんどん増えて行って欲しいです。子供にはフィルターがありません。もちろん残酷なことを言ってしまうこともあるが、ピュアなので、子供の時からこの世界には色々な人がいて、様々なバックグラウンドがありルーツがあるということを知ることはすごく大切なことです。もっとそういう機会が増えると良いし、増えていっているのかなと思います。

高橋:だんだん変わりつつあるが、もっと異文化を構えずに子供の時から色々な国、民族がいるということ、そして皆お互い人間なのだということ。もし自分が彼・彼女だったら、というような考え方ができるようになれば良いですね。オーストラリアは実はものすごい人種差別の国だった。White Australian Policy(白豪主義政策)で。1901年から1973年まで70年以上も法律に保証された人種差別をやっていた国でしたが、色々な理由があって時代の変化と共に、1973年から移民してくる場合人種に制限はつけない、同時に白豪主義ではなく次は多文化主義という言葉が使われだしました。もちろん、いわゆる「白人以外の人はいらないよ」とする人々も10%ほど統計ではいますが、90%の人はそれに反対していないと取れます。もちろん、多数決が絶対ではありませんが、オーストラリアで私は自分が日本から来た故に、アジア人の容貌故に嫌な思いをしたことはこの30年ありません。もちろん、幸いだったと思います。こちらでは幼稚園から「皆人間なのだ」と、肌の色が違っても、人によっては服装が違う、ムスリムの女性なら子供の時から、ある程度の年齢になったらいつも長袖を着るとか、とにかく、人はみな同じではないということを幼稚園の時から教えます。学校教育があるのとないのとでは違うのかなと思います。テレビでももちろんくだらない番組はあるけれども、なるべく海外の映画には字幕を付けテレビでも観られるようにしたり。
川添:先生の周りでは、アジアの方々も差別的な言葉を言われたりする、ということはあまり聞かないですか。

高橋:私の周りでは身近にそれほどひどい例は聞いたことはないですが、オーストラリアは広いので、街や地域、コミュニティによって変わってくるでしょうが、少なくとも幼稚園・小学校から「人間は同じではないのだから、仲良くしましょう。違いを認め合いましょう。」という教育を、恐らく昔はしていなかったけれども今はしている。それが必要です。

川添:そうですね。

高橋:「人間は同じではない」と言えば、身体に障害を持った人もいればLGBTの方に対する理解というのも、この30年オーストラリアを見ていて変わってきたと思います。

川添:どちらかというと、日本よりも進んでいるイメージがあります。

高橋:まだまだ問題はありますが、寛容に受け入れることが確実に進んでいると思います。

川添:そういうバックグラウンドの方が、自分達のアイデンティティで悩むということがあると思います。僕が理解できることでもないかもしれませんが、教育と関係があると思います。子供には教育が大切ですが、大人になってから知ることがとても大切なのだなと思います。何かのきっかけを通して、誰かのこと・バックグラウンド・アイデンティティを知るということがすごく大切です。僕もこの映画の撮影が自分の周りのマイノリティの方々のことを考えるきっかけになったので、彼らのことを知ることは大事だと、今でも感じます。

高橋:『WHOLE/ホール』制作について伺います。ミックスルーツをテーマにした映画を撮ると伝えた時の、日本人の俳優・スタッフの方々の反応は如何でしたか。

川添:私と弟と同じだと思いますが、スタッフも誰もがこの映画が色々な劇場で上映されるようになるとは思っていなかったと思います。勿論、大事な作品で真剣に制作したのですが、ここまで広がるとは思っていませんでした。多分スタッフの皆様も同様に思っていたと思います。一度、上映後に私と弟、何人かのスタッフが一緒にエレベーターに乗っていたら、知らない方がパッと私達の方を見て、「あ、日本語が上手ですね」と言ったんですね。後で、スタッフの方が「やっぱり、本当に起こることなんだ!」と言ったんです。つまり、スタッフにとっても知らなかった世界というか。私達がこういう経験をしているということを、共に映画を作っていたスタッフの方々が、現実にそのような場面を目の当たりにして「ああ、(川添さんや弟さんが)実際にこの映画のシーンで見せたことって、実際に起こっているリアリティなんだと知りびっくりした」と言っていました。彼らが知らない私達の経験・世界、またその逆もあるのだろうと思います。

高橋:スタッフの方達もびっくりなさったという、そういうところからでしょうか。この映画には、フィクションの夢や創造性を観る楽しみもありますが、非常にリアル感がありますね。

川添:いわゆるハーフとかミックスルーツの方は結構テレビでコマーシャルやドラマに出演しているので、何というか華やかな世界にいるような存在の人々というイメージが強く、それはステレオタイプとして存在していると思います。ですから逆に私と撮影監督の武井俊幸さんはこの映画を作る際、「ドキュメンタリーっぽくリアリティ感のあるように撮ろう」という視点でそのような撮影方法を選びました。

高橋:なるほど。もう一つ、拝見しながら考えたのは言葉の問題です。ミックスルーツの方々、そしてそのご両親、外国から来た親御さん等。例えば英語にするか日本語にするか、またはバイリンガルになるようにするのか。ミックスルーツの方々の悩みの一つには、言語の選択というような言語の悩みがあるのではと思いましたが、如何でしょうか。

川添:日本語しか喋れないのに、英語が話せる前提で話しかけられたり接されたりする、そのような悩みは結構多く聞きますね。それから、言語ではありませんが、「ラベル」です。例えば、私達がこの映画を作った時、「絶対に(いわゆるハーフと呼ばれる方々に対し)『ミックスルーツ』という呼称を使ってください。」というメッセージを込めた訳ではなく、また「WHOLE/ホール」という新しい言葉、ラベルを使いたいという訳でもなかったのですね。ミックスルーツの方々に対しては、色々なラベル、呼び方があると思います。他のマイノリティの方々も同じような経験があると思いますが、それは私達が決めることではない。その人が「私はこう呼ばれたい」という思いがあると思います。ですから、その思いを尊重するというか。他者にラベリングされると、アイデンティティに悩むことがあります。そこは非常にデリケートに扱うべきです。マイクロアグレッションにつながる可能性をはらみます。相手を知ることがとても大事です。どういう思いでいるのか、どう呼ばれたいのか、どう見られたいのか考えるということは、すなわち相手に寄り添うことであり大切だと思います。

高橋:案外、相手の立場になって考えること、もし私が映画の中の彼だったなら。例えば、誠は、「俺は日本人や」というけれど、あのラーメン屋の他のお客は彼を日本人として見ていなかったし、なかなか受け止められない訳ですよね。

川添:そうですね。

高橋:日本語教育をしていると日本国内もオーストラリアにおいても言えることですが、ミックスルーツの子供の片親は日本人でお父さんはオーストラリアとは限らず色々な違う国から来ています。

川添:オーストラリアでは、「ハーフ」のような言葉があるのですか。例えば、オーストラリアの方と日本の方だったり、オーストラリアとインドネシアとか違う国の方の子供という、呼び方は存在しますか。

高橋:「ハーフブラッド(half blood)」とか。

川添:「ハーフブラッド」というのはよく聞く言葉ですか。

高橋:そうですね。時々聞きますけれども、わざわざ口にしないと思います。お父さんがインドネシア人でお母さんがフィリピン人で、とかね。相手を知る、相手の身になって考える訓練を、私達も日常的にしていかなければならないと思います。『WHOLE/ホール』がだんだん各地で上映されるようになって、オーストラリアではシドニー大学とオーストラリア国立大学で上映されました。今日は私が今、ビルマ語を教えているオーストラリア国立大学の同僚で、同大学での映画上映会を企画し上映した同僚が二人来ています。福野さんと吉田さんに何故『WHOLE/ホール』を知ったのか、どうして同大学のキャンパスで上映したいと思ったのか、お二人に聞き、他の皆さんからの質問等を受けるのは如何でしょうか。

川添:はい、お願いいたします。
福野さんと吉田さんが入る>

高橋:あの上映会の開催に至る経緯、開催への反応はどうでしたか。

福野:『WHOLE/ホール』を上映させていただくことになったきっかけは、オーストラリアの全国規模の継承語ネットワークです。日本語をヘリテージランゲージ(heritage language=継承語)として持っている子供達を教育する先生方のネットワークが、ニューサウスウェールズ大学等シドニーを基盤として全国規模で展開されていて、同ネットワークのFacebook等でシドニー大学で『WHOLE/ホール』が上映されることを知りました。私自身も研究・教育に関わっていることから、見なければと思い拝見しました。シドニーにいる日本語教育や継承語・ミックスヘリテージに関する研究をなさる方やミックスヘリテージを持つ学生など大勢の観衆が集まる中で上映され、「ハーフ」「ミックスルーツ」を持つ子供として日本で育った方がパネリストとして参加する、映画とパネルディスカッション形式で開催されていました。オーストラリア国立大学でも数週間後に『イマージア』という多文化をセレブレートする(謳う)フェスティバルを開催するが何か企画はないかと問われ、大学批判ではないが「日本人だったら着物着てきて」「折り紙して」等ある種のステレオタイプを増長するよりも、チャレンジする形で、日本は着物や折り紙だけではなく多様性があり、それをセレブレートすることと多様性に関するチャレンジ(困難)を認識することが大切だと思い、敢えて作品を上映させていただきました。

川添:ありがとうございました。

高橋:それで、反応はどうでしたか。

吉田:上映会には、オーストラリア人やアメリカ人の学生が来ました。アメリカ人の学生が、オーストラリアに小さい頃に来たが、英語にアクセント(なまり)があるため、同級生となかなか馴染めなかったり、「おまえ、アメリカ人だろう」と言われたり、そういう思いはしたと話していた。でも同じ英語が話せる英語話者なので、それほど言葉で困ったりいじめられることはなかったそうです。でも、話し出すと目立つので、今でもすぐに「アメリカ人だろう」と言われるそうです。見かけが同じ白人でも、英語という同じ言語を話していても、アクセントや考え方の違いで目立ってしまうことがあるのだなと思いました。

高橋:言葉の問題は、日本語と外国語または英語や日本語の中でも、今はそれほどでもないのでしょうか。私が若い頃は、日本人の間でも方言でいじめられる人がすごく多かったですね。

吉田:私も関西出身なので、そういう経験はよくありますね。また、映画の反応に関しては、同僚で3人のハーフのお子さんがいらっしゃいますが、その子供達はオーストラリアではそれほど嫌な思いはしておらず、日本に帰る時もちやほやされるのを楽しんでいる、とのことでした。ビイラルさんにお尋ねしたいのですが、日本では白人とのハーフはモデルやタレント等もてはやされていますが、その他、アジア人や黒人とのハーフの場合、差別は多いのでしょうか。

川添:私と弟がこの映画を作る時に色々とリサーチしました。自分達の経験・話だけではなく他のミックスルーツの方々の経験をしっかりとこの映画に入れたいという思いがあったので、本を読んだりドキュメンタリーを観たり、周りのミックスルーツの方々にお話しを伺ったりしました。皆とは言わないが、やはり白人とのミックスの方の方がちやほやされる割合が高いかとちょっと感じました。どちらかというと黒人と日本人のミックスの方の方が、肌のことを言われた経験を持つ方々が何名かいたので、そういうことはあると思いますが、だからと言って、白人と日本人のハーフの方が葛藤しなかったり嫌なことを言われないという訳でもないのだな、ということはリサーチをする中ですごく思いました。

高橋:チャットに質問があります。陳天璽さんは昨年10月に本サロンで、無国籍で日本に生きる方々の非常に貴重なお話をしてくださいました。

:本日のお話は、「縦」と「横」でどう見えてくるのだろう、と思いました。まず、「横」ですが、同じ社会の中で見た目でハーフだと分かる方達と見えないハーフの方達で抱えている問題が違うのかなと思うんですね。ビイラルさん達が作られたのは見えるハーフの方々とその経験だが、私の姪や甥や息子は見えてこないハーフもしくはダブルです。彼らはどんなことを思うのだろうかと思いました。次に、「縦」の比較です。私自身の家族で考えると、私の両親はチャイニーズで、台湾を経由して日本に来ました。子供が生まれて家族になりましたが、姉達は台湾で生まれ、私は日本で生まれました。私の場合、両親から「あなたはチャイニーズだ」と言われてきました。ビイラルさんのお父さんのように、両親は台湾ではなくチャイニーズというアイデンティティを強く持っていますが、兄や姉は台湾で生まれています。私自身はチャイニーズ・台湾・日本もですが無国籍ですのでアイデンティティを模索したことがあるのですが、自分の下の世代の息子になると民族的にも国籍もダブルだったりするので、本日のお話は「縦」と「横」の両方など色々考えさせられました。ビイラルさんが仰るように、ホールになるといいなと思いました。ビイラルさんはどのように思われますか。そして映画では何を伝えたかったのか、伺いたいです。

川添:ネタバレにならないように話しますと、この映画の最後の部分は当初、私達が脚本を書いていた時に答えを出していたのですね。アイデンティティ・クライシスを経験している人達のためというよりも、どうしたらこのような悩みがなくなるかという問題への答えを考えていましたが、「それは私達が出すものではないよね」と話し合ってわかりました。「これが答えです」「こうする/こう考えると良いじゃないですか」というようなことを映画に入れるのは間違っていると思いました。また、色々なバックグラウンドの人がいるじゃないですか。仰るように、見た目はハーフではなく日本人に見える人達もいるので。色々なバックグラウンドがあって、色々なアイデンティティ・悩み方があるので、一つの答えではないというのが、私達が辿り着きたかった場所だったんですね。ホールというのは、やはり全体じゃないですか。

月というシンボルを使っているのですが、月というのは空を見上げるとたまに半月だったり満月だったりするじゃないですか。ただ実は、月はいつも丸い。いつもホールじゃないですか。そういうメッセージが込められていまして、「あなたは一人の人間、例えばアイデンティティが一つや二つもしくはもっとあったり、バックグラウンドやルーツももっと沢山あったとしても、それが一つのホールですよ」という思いが込められている。言葉では説明していませんが、映画を通して感じてもらえたらな、という思いがすごくあったので、そういうメッセージを込めています。

:素敵ですね。今のお話とチャットに上がっている書き込みとつながるので、紹介します。「映画を拝見して、春樹の抱えるモヤモヤ感や鬱屈とした感情などがリアルでした。"ハーフ"がテーマの映画なのにタイトルが「Whole」というのが逆説的で私は好きでした。これは当初から設定していましたか?」「ラスト、春樹が電車内の乗客と友人の女性をみつめるカットが余韻と示唆に富んでいてとても好きでした!これの狙いも伺いたいです。」

川添:『WHOLE/ホール』というタイトルは、いつもホールではなかったんですね。最初はずっと『ハーフ』というタイトルでしたが、「私達が伝えたいことはそうではないよね」というのがずっと思っていたことなので、この映画を作る中で見つけた答えというか、見つけたタイトルでした。ですから、途中で『WHOLE/ホール』に変わりました。

最後のシーン、ちょっと撮影の話にもなってしまいますが、撮るのが大変でした。3時間位しかなかったので。色々なエキストラさんを電車内に座らせて、それを見る春樹というシーンがあるのですが、春樹はどちらかというと、自己チューというか、自分のことしか考えられていない人物で、そのシーンで初めて自分の周りにいる人たちを見る。その人たちがどういう人なのか、どういう人生を生きているのか。自分以外の人たちのことを考える・思うシーンをという狙いで撮りました。

:ありがとうございます。もう一つ、「私の娘はスペインとのミックスですが、中学までよかったですが高校生になって特に電車で英語で話しかけられたり外人さんと呼ばれてたりしています。もう慣れたと言ってますが。特にミッション校の中高一貫女子校でのクラスの人たちが心が狭い。表向きは多様化とかSDGsとか言いながら外したがってました。中国韓国とのミックスはまだよかったかもですが、身近の違いに閉鎖的かと思います。気をつけて選ばないと難しい国かと思います。高校を卒業して楽になりました。巷ではまだまだなんだなと思ってます。」というコメントですが、ビイラルさんの経験に近い経験をされているようですね。

川添:今日は高橋先生と、多様性や日本がだんだんそれを受け入れているというか前に進んでいるんじゃないか、というような話をしたと思いますが、ご指摘の通り、まだまだというところが一杯あると思うんですね。僕も最近、渋谷の高校でこの映画を上映してQ&Aで生徒達の話を聞きました。多様性を勉強するクラスで、生徒に寄り添ってそのような話ができる環境を作っている素敵な先生で、良い環境だなと思ったのですが、その中でも中高生たちも思うことがあったり、アイデンティティに対する悩みって、タイミングが違うんですよね。人それぞれで。子供の時に経験しても大人になって楽になったという人もいればその逆の人もいたり。私もこの映画を作って色々な人と話をして思ったことですが、確かにまだまだですし。大人になって楽になったからといって、「ああ、じゃあ君は大丈夫だ」というような考えも違うのかな、理解が必要なのかなと思う。理解だけじゃなく、人にやさしくすること、寄り添うことも必要だと思います。

:別のコメントです。「私の夫もしばしば、街中では日常的に不快な思いをすることがあるようです。(『ようです』というのは、もう私に逐一話さなくなっただけで、実際はあるということです)。日本で生まれ育った日本人女性としては、女性であるがゆえの偏見や差別に遭いながら生きてきた立場として、共感するところがあります。一方で、今回話されたようなことを、とっさに言ったり思ったりしてしまうことも正直、あります。日本語は話せるのかしら、例えば納豆のような食べ物は食べられるのかしら、など…でもそれはなぜそう言うのか、どういう意図で言うのかも組み上げて…両方の立場からして、偏見やそれにともなう戸惑いや不快を生む可能性のある言動に対して、どのようにアプローチすればよいか、建設的に探っていきたいと思います。」

川添:女性として偏見とか差別とか、というのは興味深く思います。僕も、最近思うことがありまして。私の妻の周りのお友達が結婚して子供が出来たり、妻の姉に3人目の子供が出来たりして考えるのが、女性が子供を産んだ後のマタニティ・ハラスメント。男性は経験することがないので、それも要理解の一つだな、って。私達、社会にいる男性が理解すること。女性同士のハラスメントも聞いたことがありますが、お互いが理解しなければならないと思います。今日は「相手を知ろう」という話をしているんですが、「知ること」って決して簡単なことではないと思うんですね。相手の立場から物事を考えるってすごく難しいことというか、意識しないといけない。意識しないとできないことだと思います。相手のことを意識するというのは大切なことだと思います。相手の立場とか思いですね。それは、ミックスルーツや女性だけでなくすべての人が少しでもそれが出来れば、もっと良い社会になるのかなと思います。

高橋:コメントの中で、お嬢さんが学校で嫌な思いをされてたというのは心が痛みます。オーストラリアが良いとか見本にすべきとは全然言いませんが、やはり人間みな違う、でも皆同じ人間なのだ、という教育は幼稚園から始めなければならないですが、どうやって始めるか。やはり先生が変わらないといけない。先生がそれをまず解っていなければいけないと思うんですね。私の弟は中学校の時には、かなりの人数を教室に押し込める男子校に通っていましたが、いじめにあったんですね。それがあまりにひどいいじめだったので、父が高校の先生に「うちの息子は不当にいじめられている扱いを学生間で受けている」と抗議したら、先生が「うーん、でも、彼は違うんですよね。他の人と」と。「じゃあ、他の人と違ったらいけないの?」という話で。30年も前の話ですけれども、子供・学生の教育で皆と同じように行動しろ、皆と同じようにしなきゃいけないというだけの教育では、日本はもう持たなくなってきている。子供・学生は個人個人違うんだ、ということを教育者・教育に関わる方も心していかなければいけないのかな、と私も色々な学生と接していて思います。学校の先生も変わらなきゃいけないと切に思います。

『WHOLE/ホール』は本当に良い映画で、vimeoで誰でもアクセスしてご覧になれますので、一度観た方はもう一度観てください。そしてまだの方は是非ご覧ください。結論はどうも自分で考えなければいけないようですので、どうぞ観て考えていただきたいと思います。終わらせていただきます。

川添:ありがとうございました。

高橋:ありがとうございました。
(坪井ひろ子)

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Sara Tsuboi-Friedman
When I first learned about this seminar and the movie "WHOLE", I was very excited to see what would come of it, as I had grown up in Japan as a person of mixed roots, one thing I hadn't seen was a non-documentary type film about people like me. To give a little about myself. I am a Japanese and American nationalist, born in Tokyo and moved to a small town called Odawara during my elementary years, and finally moved to Switzerland in 2021, where I currently reside. As much as I can recall, I remember being taken back by the sheer differences of living as a person of mixed roots, in Tokyo versus Odawara. Only a 30 minute difference by a Shinkansen, but a completely different world in comparison. While living in Tokyo I attended a Japanese kindergarten, with other mixed roots children, and as a family, we had multiple contacts and close friends with other families who were from other countries. While in Odawara, I always used to think I was the only kid with mixed roots in the whole town. Either way in both places I've experienced and seen many different forms of racism across my life, which was another reason for me to watch this seminar and film.

For those of you who haven't watched the film "Whole" I highly recommend you do so. As someone who has spent an embarrassing number of hours lying in bed and going through countless movies and tv shows in her life, I must say, this one really stuck out. To give a quick review, I know it's a cliche but my most important comment I have to make of this film is that I felt happy and heard. As much as many people try to "understand" what it's like to be seen and treated a certain way, in reality you will never fully understand any situation unless you have experienced it first-hand. As briefly mentioned earlier, most representation I would see of people with mixed roots (such as myself ), would either be in the form of a documentary or a glorified tv sensation. Models or athletes would be a very common example. Personally speaking, I feel the Japanese film scene has had a spot that needed to be filled by a movie like this.

While growing up, I often felt isolated and overlooked, just to name a few, because of my American nationality. Most microaggressions I faced in my school years were more fascination, and to put it bluntly, being treated like a museum exhibition. Often being asked to recite something in English or being handed a text in English and being asked to read it aloud for the sheer uncommonness of it.

The movie explores the journey of becoming "whole", of two (in many ways) very similar characters of mixed roots. At first, I was rather confused by the title, and couldn't properly find a grasp for the naming behind the movie, but my interpretation would be this. Being a person with mixed roots, they are most commonly labelled as "half", and personally I've had people use multiple different names to refer to my mixed roots. My most memorable labels were, "mixed juice" or simply being called "half" rather than my name, and often had my American last name badmouthed.

Having the title be "WHOLE", seemed more like putting pride into having multiple roots, nationalities and cultures, and I felt that made this film stand out from other films and documentaries that only shared a one-sided view of how people with mixed roots are treated. I remember having watched a documentary that interviewed people with mixed roots and their experiences with living in Japan. I believe I felt rather put on the spot when I saw the film. Since the movie only featured people with very similar experiences, I felt the experiences that I have had and my internal conflicts that arose due to them seemed to be invalidated by the documentary. On the contrary, when I finished watching "WHOLE" I felt a strong sense of familiarity with the two characters. I would say, my tangible experiences throughout my life and how I felt about them were more similar to the character Haruki, but having a fictional film so vividly and in my opinion accurately poetry the way people with mixed roots are treated and their conflicts with them, were astonishing.

The movie shows both Haruki and Makoto, facing similar types of microaggression but having two different reactions to them. This, I found particularly hooking. Both characters seem to have trouble with their self-identity, for Haruki the sense of confusion as to which of his culture to embrace, and for Makato the word denial comes to mind. In reality, I think people should be able to pursue both or whatever part of their roots and culture they choose to identify with. But the issue being, as Professor Chen commented, there are many different types of people with mixed roots. Some being more seemingly "half" and others less. For myself, most people I've met either assumed from the beginning that I had other roots than Japan and would be asked "are you half?" or people who wouldn't question my ethnicity at first, and later on in some form or another would end up asking or commenting on something that would push the stereotypical idea of being "half" or "gaijin" on myself.

One scene in the movie that particularly stirred up some emotion for me was when Haruki and Makoto first met in the restaurant. Both very quickly being identified as "gaijin". Personally, I take pride in both my Japanese and American roots and found the two character's responses to the "gaijin" comment quite enticing. One fully embracing their Japanese roots, and the other seeming more conflicted by which or both roots to pursue. This scene also made me curious as to what Mr Kawazoe's personal experience with microaggression was, in his younger years. But either way, I found this scene to be a perfect way to highlight a very common remark, made towards people with multiple backgrounds and how they are perceived.

In addition to the above, another aspect of the movie that struck out was both Haruki's and Makoto's approach to racially sensitive comments, and forms of microaggression. My surface-level interpretation would be that Haruki feels the need to react to every comment he receives. While Makoto seems to be more accepting of reality, except for the scene in the restaurant. The way both characters were depicted in the sense of how they perceive microaggression was particularly interesting to me. For me, up until my middle years of junior high school, I would classify myself to be more similar to Haruki's character. I would always counter any comment that was made to me, whether it came from students, teachers or even adults I'd met. An example I would like to bring up would be my job. I had gotten a job in a tourist-based riding club, right around the time when Covid-19 first struck. The work mostly consisted of having conversations with the customers during their riding course. I quickly understood that even without me providing any prior facts about myself, most customers would always comment, "oh your 'half' right?", and label me as a "gaijin". What mostly shocked me about working there was how the staff had also commented to the customers about my mixed roots and on occasion had me say aloud some sentences, again, simply for the uncommonness of it. Over time I realized that even with every comment I would make to people who were racially insensitive, that it would never change and by my last year of junior high school I would find my behavior towards microaggression more similar to Makoto's.

All in all, my final thoughts of the movie when it ended were simply that I wished it was a full movie over two hours.

For the seminar, Professor Takahashi's comment on needing the school environment to properly educate children from a young age to be aware and accepting of other people's culture and ethnicity, I would say in particular stood out the most. Yes, the teachers must be educated and prepared to teach students on this topic. However, the reality is that children's first source of any information is their parents. Not only were a lot of my majority of microaggressions from my teachers, but also my peer students' parents. Often getting comments such as, "I wished I had a 'half' child like you, they're always so cute".

The question of how to begin improving conditions for people with mixed roots, is rather an impossible task. Although the idea of having teachers and parents be more educated so their children can learn from them is a start, it is still a complicated topic. As briefly mentioned during the seminar, the concept of humankind being the same is one thing, yet recently I've noticed more and more people avoiding the topic of my mixed roots and other cultures completely in order to try and not make a racial comment. As also mentioned in the Q&A, some people seem to almost ignore a person's mixed roots or their non-Japanese culture entirely so as to not offend them. Personally speaking, I find that it's not about being aware of other ethnicities and cultures because we are all human, but rather acknowledging, learning, and taking an interest in what makes a person unique. And in this case their mixed roots culture.

To begin concluding, above all else I am happy to see this topic being brought up in a movie but also in a seminar. Even with the importance of this topic, I find it most often ignored and given less attention than it deserves. Not only is dealing with microaggression difficult on its own, but I see for many, it also leads to somewhat of an identity crisis. I found that this seminar was an excellent opportunity to see other people's views and their different experiences of being in Japan. As a comment to Mr Kawazoe, it was truly fantastic to be able to see a lot of my life (in terms of having mixed roots) in a fictional film, and really allowed me to feel understood. Now living in Switzerland I feel has given me a new perspective. I am certain that if I had still lived in Japan, this film would have had a significant effect on how I perceive myself. Although the neverending task of confronting the racial issues that too many face in Japan, it is a step forward in the right direction. I hope, in the future, there will be more and more opportunities to discuss and address this issue, with anybody but also more people my own age. The importance of the impact of any aggression does differ from age groups. Finally, to even begin solving this or any other issue, it begins with communication. Working to listen to other perspectives. So I hope there will be another seminar on this topic in the near future.
※坪井サラ(日本語訳)は、「アンドモア」に掲載されています。
Sara Tsuboi-Friedman
(記事執筆:坪井ひろ子、坪井サラ)
<無断転載ご遠慮ください>
アンドモア
◎映画『WHOLE/ホール』は、2022年前半に劇場での上映 が終わり、今はVimeoオンデマンドなどにて配信しています。
https://vimeo.com/ondemand/wholefilm

・2022年後半からは、各地の大学などでの「映画会」で上映さ れています(以下参照)。
https://www.facebook.com/filmwhole?ref=bookmarks

・オーストラリアの大学での上映については、上記FaceBoo k中の関連記事、
ならびに、以下の"Nikkei Australia"の記事をご覧ください。
https://www.nikkeiaustralia.com/aoife-wilkinson-mi...

・2023年昨7月3日付の『朝日新聞』の「天声人語」で、映画 『WHOLE/ホール』と川添ビイラルさんが取り上げられていま す。以下(添付)の「ハーフではなく」の記事です。

◎高橋ゆりさんからの「当日のテーマに関するオーストラリア発の情報」など

・1972年、オーストラリアで白豪主義 (White Australia Policy) が撤廃され、それ以降は移民に人種制限は明文化されないことになりました。そのわずか数年後には多文化主義 (Multi-culturalism) がオーストラリアの新しい指針と目されるようになりましたが、そうした変化する豪州社会の中で生きてきた方々の意見の一部が理解できるリンクです。
https://globe.asahi.com/article/14440017

(以下、一部内容紹介)
ハーフが特別でないオーストラリア、昔は違った先輩たちが語る差別体験:朝日新聞GLOBE+
「ハーフィー」の国 オーストラリアで考えた(後編)オーストラリア(豪州)には、日系の「ハーフ」の若者や子どもたちが、たくさんいる。日豪の統計 をもとに考えると、数万人もいるようだ。若い彼らに会ってみると、アイデンティティーについては揺れ...

・ミックスルーツの人々への理解を深めることとは、人権についての理解を深めることなくして成り立ちません。こちらは Australian Human Rights Commission (オーストラリア人権委員会) のウェブサイトに出ている、オーストラリアで何らかの差別を受けた場合、苦情申し立てを行うためのガイドラインです。63種類の言語で紹介されています。こちらは日本語版です。
https://humanrights.gov.au/sites/default/files/mak...


・東京新宿の「中村屋」:「中村屋の歴史に深く関わる創業者ゆか りの人々についてご紹介します。
*ラス・ビハリ・ボース│創業者ゆかりの人々│新宿中村屋
https://www.nakamuraya.co.jp/pavilion/founder/peop...

◎「報告」記事担当、坪井ひろ子さんから

2021年当時、国連文化権担当特別報告者Prof. Karima Bennounceによるcultural mixing, syncretism, mixed cultural identitiesについての最終報告書作成にあたり、協働さ せていただく中、丁度公開のタイミングであった『WHOLE/ ホール』が気になっていたところ、報告書完成後に国連総会提出関 連サイドイベントで同作品を紹介させていただくため川添ビイラル様に初めて連絡を差し上げました。報告書作業中は社会学者の下地ローレンス吉孝様にもお声掛けしてご協力いただきました。
・A/76/178: Cultural mixing and cultural rights - Report of the Special Rapporteur in the field of cultural rights, Karima Bennoune
概要;文化的混交と文化的権利
(国連総会への最終報告書の中で、特別報告者は、人権を尊重する文化的混合とシンクレティズムの認知を拡大し、混合した文化的アイデンティティの尊重を求める)
https://www.ohchr.org/en/documents/thematic-report...

・Mixing cultures is a human right, UN expert says
(文化の混交は人権であると国連の専門家は指摘する)
https://www.ohchr.org/en/press-releases/2021/10/mi...

・以下が報告書リンクです。
https://undocs.org/en/A/76/178

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◎坪井サラさんの「報告」(Original Text 英語)の日本語訳
坪井サラ(日本語訳)

第33回楽平家サロンで映画「WHOLE/ホール」についての対談があると知ったとき、どういう内容になるのかとても興味を持ちました。日本で生まれ育った私は、多様なルーツを持ちますが、私のような者についてのドキュメンタリーではないタイプの映画を観たことはありませんでした。私自身のことを少しお話します。私は東京で生まれ、小学校入学前に小田原という小さな町に移り住み、2021年にスイスに移住し、日本とアメリカのルーツを持っています。東京と小田原で、ルーツが混在する人間として生活することのあまりの違いに驚かされたことを今でも鮮明に覚えています。新幹線で30分の距離なのに、まったく違う世界。東京に住んでいた時は、日本の幼稚園に通っていて、他のミックスルーツの子供たちと一緒に過ごしました。小田原にいた頃は、町中でミックスルーツの人は自分だけだと思っていました。近所や学校など、見える限り、ミックスルーツの人がほとんどいなかったからです。いずれにせよ、日本のどこに行っても、私は今までの人生を通して様々な形の人種差別を経験し、見てきました。

まだ映画『WHOLE/ホール』をご覧になったことのない方には、ぜひご覧になることをお勧めします。寝転がってダラダラと数え切れないほどの映画やテレビ番組を見てきた私にとって、この映画は本当に印象的でした。手短に感想を述べると、陳腐な表現であることは承知していますが、この映画に対する私の最も伝えたいことは、私がこの映画を観て幸せな気分になり、耳を傾けてもらえたと感じたということです。多くの人が、ある種の見られ方や扱われ方をされることがどのようなことなのかを「理解」しようとしても、現実には、どんな状況も実際に経験しない限り、完全に理解することはできません。先ほども少し触れましたが、(私のような)ミックスルーツを持つ人々の表象(representation)の多くは、ドキュメンタリーか美化されたテレビのセンセーション的な表現という形でしょう。モデルやスポーツ選手などはその典型です。個人的に言えば、日本の映画シーンには『WHOLE/ホール』のような映画によって埋められるべきスポットがあったと感じています。

私は幼少期、アメリカ人という国籍のために、孤立感を感じたり、見過ごされたりしました。私が小中学生時代に直面したほとんどのマイクロアグレッションは、ナイーブな好奇心からくるもので、はっきり言ってしまえば、博物館の展示物のように扱われることでした。生徒から「これ読んでみて」「何か英語で言ってみてよ」と英語を使うよう求められたり、英語の文章を渡されて読むよう求められたりすることがよくありました。

この映画は、ルーツが混在する2人の(いろいろな意味で)よく似た人物の「全体(WHOLE)」になるための旅を描いています。最初、私はタイトルに戸惑い、映画の背後にあるネーミングの意図を正しく把握することができませんでしたが、私の解釈はこうです。ミックスルーツを持つ人は、一般的に「ハーフ」と呼ばれます。私に貼られた最も記憶に残っているレッテルは、自分の名前ではなく「ミックスジュース」や単に「 ハーフ」 と呼ばれることでした。アメリカ名を馬鹿にされることもよくありました。

タイトルを 『WHOLE/ホール』としたことで、複数の国籍、エスニシティ、バックグラウンドや文化を持つことに誇りを持つことができ、ミックスルーツを持つ人々がどのように扱われているかを一方的に伝えるだけの他の映画やドキュメンタリーとは一線を画していると感じました。以前、ミックスルーツの人たちの日本での生活についてインタビューしたドキュメンタリーを観たことがあります。似たような経験しかしていない人たちばかりが登場するので、自分が経験してきたことや、それによって生じた内的葛藤が、ドキュメンタリーによって無効化されているような気がしたのです。逆に、『WHOLE/ホール』を見終わった時、2人の登場人物に強い親近感を覚えました。私の人生における具体的な経験やそれに対する思いは、春樹という登場人物に近いと言えるのですが、フィクションの映画で、今の日本でミックスルーツの人々がどのように扱われ、どのような葛藤を抱えているのかを、これほど鮮明に、そして的確に詠いあげていることに驚かされました。

この映画では、春樹と誠の2人が、同じようなタイプのマイクロアグレッションに直面しながらも、それに対する2つの異なる反応を示しています。この点が特に心に残りました。どちらのキャラクターも自己同一性に悩んでいるようで、春樹は自分の文化のどちらを受け入れるべきか迷っている感じ、誠は否定という言葉が浮かびます。現実には、人は自分のルーツや文化などについて、その両方または複数、あるいはどのような部分を追求することもできるはずだと思います。しかし問題は、陳先生がコメントしたように、ルーツが混在する人々にはさまざまなタイプがいるということです。より 「ハーフ」に見える人もいれば、そうでない人もいます。私の場合は、ほとんどの人が最初から日本以外のルーツを持っていると思い込んで、「ハーフなの?」と聞かれたり、最初は私の日本人性を疑わなかった人が、後になって何らかの形で 「ハーフ」や 「外人 」というステレオタイプ的な考えを押し付けるようなことを言うのを聞いたり、コメントされたりするようになりました。

映画の中で特に感情を揺さぶられたのは、春樹と誠が初めてレストランで出会ったシーンです。二人ともすぐにレストランのお客には「外人」であることが判明しました。個人的には、私は日本とアメリカの両方のルーツに誇りを持っているので、「外人」という発言に対する2人のキャラクターの反応がとても魅力的でした。一人は日本のルーツを完全に受け入れ、もう一人はどちらのルーツを追求するか、あるいは両方のルーツを追求するかで葛藤しているように見えます。このシーンは、川添監督が若いころ、個人的にマイクロアグレッションに遭遇した経験がどのようなものだったのか、私にも興味を抱かせました。しかし、いずれにせよ、このシーンは、日本での複数の背景を持つ人々に対するごく一般的な発言とその受け止め方を浮き彫りにする完璧な方法だと思いました。

上記に加え、この映画で印象的だったもう一つの側面は、人種差別的な発言やマイクロアグレッションの形態に対する春樹と誠のアプローチでした。私の表面的な解釈では、春樹は受けたコメントすべてに反応する必要性を感じているように思います。一方、誠はレストランでのシーンを除いて、現実をもっと受け入れているように見えます。マイクロアグレッションをどう受け止めるかという意味での両キャラクターの描き方は、私にとって特に興味深いものでした。私自身、中学1年生までは春樹の性格に近かったと思いました。学校の生徒や先生、あるいは初対面の大人から言われたことであっても、私はいつも反論していました。例えば、仕事場でもです。ある観光乗馬クラブで手伝い始めたのは、ちょうどコロナ感染症が発生した頃。仕事の内容は、乗馬コース中にお客さんと会話をすることが中心でした。私が事前に個人的なことを話さなくても、ほとんどのお客さんが「ああ、『ハーフ』なんだね。」と言い、私に「外人」のレッテルを貼ってくることは日常的ですぐに感じ取ることができました。その中で一番ショックだったのは、スタッフがお客さんを喜ばせるために私のルーツが混在していることをお客さんに話したり、時には私に「これ英語で何て言うの?」などと言わせたたりしていたことです。成長するとともに、人種差別に無頓着な人たちに対して、私がどんなコメントをしても、その人たちの考え方や理想は変わらないということに気づき、中学3年生の頃には、マイクロアグレッションに対する私の行動や考え方は誠と似ている感じだったことに気づきました。

全体的な感想として、映画を観終わった時、この作品が2時間以上の長さだったら良かったかもと思いました。

サロンでは、高橋先生の子どもたちが他の人の文化や民族性を認識し、受け入れることができるよう、学校環境が小さい頃からきちんと教育する必要がある、というコメントが特に印象に残りました。たしかに、教師はこのテーマについて生徒に教えるための教育を受け、準備しなければなりません。しかし現実には、子どもたちが最初に情報を得るのは両親からです。マイクロアグレッションの多くは、教師からだけでなく、同級生の親からも受けました。「あなたのような 『ハーフ 』の子供がいればよかったのに。いつもかわいいし」と言われることもしばしば。

ルーツが混在する人たちの状況を改善するにはどうすればいいのか、という問題の解決は、むしろ不可能なことです。先生や親にもっと教育を受けてもらい、子どもたちが先生や親から学べるようにするという取り組みは手始めではありますが、それでも複雑なテーマです。サロンの中でも少し触れられましたが、人類は同じであるという考え方があるにもかかわらず、人種差別的な発言や態度を避けるために、人のルーツや異文化の話題を完全に避ける人が最近増えていると感じます。Q&Aにもあったように、相手を不快にさせないために、ミックスルーツや日本以外の文化やエスニシティなどを持つ人のアイデンティティをほとんど無視する人もいるようです。個人的には、意識するだけではなく、その人の個性として、この場合はミックスルーツや文化などを認め、学び、興味を持って尊重することが大切だと思います。

終わりに、何よりも、このトピックが映画とサロンで取り上げられたことを嬉しく思います。日本では、このトピックが重要であるにもかかわらず無視され、議論に値するほど注目されていないことがほとんどだと思います。マイクロアグレッションに対処することは、それ自体が難しいだけではなく、多くの人にとって、アイデンティティの危機にもつながることもあると思います。このサロンは、他の人たちの見解やさまざまな経験を知る素晴らしい機会となりました。川添監督へのコメントですが、フィクションの中に自分の人生(ルーツが混在しているという意味で)の多くを見ることができ、理解されたと感じることができたのは本当に貴重な経験をさせていただきありがとうございました。現在、スイスに住んでみて、新たな視点を得ることができたと感じています。もし私がまだ日本に住んでいたら、この映画は私自身の捉え方に大きなインパクトを与えたに違いありません。日本では多くの人が直面している人種問題に向き合うことは永遠の課題ですが、この映画によって正しい方向へ一歩前進したと思います。今後、この問題について、誰とでも、また同年代の人たちとも、もっともっと話し合い、取り組む機会が増えることを願っています。どのようなアグレッションや攻撃も、その影響の重大性は年齢層によっても異なります。最後に、この問題やその他の問題を解決するには、まずコミュニケーションと問題が起こっているという事実の認知から始まると思います。まずは、他の視点に耳を傾けることからです。これからも、このテーマで色々な対話の機会が作られることを願っています。
坪井サラ
(日本語訳)
これからの「楽平家オンラインサロン」
8月の「楽平家オンラインサロン」は、30日(水)午後8時から 、ベトナム、ラオスに続く「インドシナ・シリーズ」の3回目、 カンボジアの話です。昨年度、22年ぶりに家族・ 世帯に関する再調査をされた高橋美和さんが、この間で変わらなか ったカンボジアの家族の特徴と、大きな変化があった部分を語って いかれます。
9月からは、ミャンマー最初の統一王朝バガンのことなど、『ビル マ/ミャンマーの 原点を知る』シリーズ全3回を予定しています。なお、開催日時は 、いつものように各月の第2水曜日午後8時からです。
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