撮影者:小島敬裕
撮影の年月:2022年8月
撮影場所:北部シャン州
≪無断転載ご遠慮ください≫

第30回
『楽平家オンラインサロン』
2023年2月8日(水)
20:00〜
北部シャン州における仏教と
地域社会の関わり
話の内容とプロフィル
≪内容≫

黄金に輝くパゴダの国として知られるミャンマーでは、国民の多くが仏教を信仰しています。しかしミャンマーの上座部仏教は、日本の大乗仏教と似て非なるものです。本発表ではまず、東南アジア大陸部を中心に信仰されている上座部仏教と地域社会の関係について概説し、次にミャンマーの仏教実践に見られる特徴をお話しします。そして最後に、2022年8月から9月にかけてミャンマーを再訪した際の経験に基づき、様々な生活上の困難に直面した仏教徒たちがどのように対処しているのかについて、北部シャン州の事例を紹介するとともに、その背景を考察します。


≪プロフィル≫

小島敬裕

最初にミャンマーを訪れたのは、1991年、北海道大学文学部中国文学科の学部生時代のことでした。中国国境付近の村外れに建つパゴダや、寺院に止住する僧侶の姿が印象的だったのを今でも憶えています。それ以降、ミャンマーを何度も旅行するうちに生活したいと思うようになり、1999年に日本語教師としてヤンゴンに赴任しました。さらに上座部仏教に対する関心を深め、ヤンゴン外国語大学に留学中、二度の一時出家を経験しています。2003年、33歳の時に帰国して京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科に入学し、その後は研究のため、ミャンマーや中国の雲南を中心にフィールドワークを行ってきました。2016年からは津田塾大学学芸学部国際関係学科の教員として、教育・研究を続けています。
【楽平家オンラインサロン 第30回報告】
小島敬裕さん
(スクリーンショットより)
※本文中の画像は、いずれも小島さんの画面共有資料より転載
(パワーポイントのスライド61枚のうちの一部のみ掲載させていただきました)
2023年2月8日に第30回楽平家オンラインサロンが開催され、津田塾大学教授の小島敬裕さんが「北部シャン州における仏教と地域社会の関わり」というタイトルで話された。2023年1月に始まったミャンマーの宗教シリーズの「ムスリム」(第29回)に次ぐ第2弾、「仏教」の回にあたる(第3弾は第31回「キリスト教」)。

はじめにミャンマーと中国の国境地帯を中心にフィールドワークを続けてこられた自身の研究人生について語られた。そして本題に入られる前に、ミャンマーが信仰している上座部仏教と社会との関係寺院における世俗教育の歴史について概説され、その後で昨年の調査に基づき、ミャンマー北部シャン州の仏教と地域社会の関わりについて、政変後、当地の子供たちや人々の置かれている状況と、それに呼応し変化している教育現場、仏教寺院の役割、地域社会などを、僧侶教育学校・ティーラシン(女性修行者)教育学校の事例を中心に報告された。最後に僧侶教育学校についての既存の報告との対比から今後の課題について述べられ、質疑応答が続いた。

終盤時間が押してしまったのは残念だったが、100名を超える参加者が熱心に耳を傾けた。
研究人生について
小島さんの研究人生の中で、一番のフィールドは瑞麗とムーセー、中国とミャンマーの国境地帯である。1991年、当時、小島さんは中国文学科の学生で、バックパッカーとして初めて瑞麗の町を訪れ、船に乗ってミャンマー側ナンカンにも入った。この先には面白い世界が広がっているに違いないと予感し、ミャンマーを目指すようになったそうだ。しかし当時は1988年民主化運動後間もない時期でもあり、簡単には入国できない状況だったので、1993年頃から何回もミャンマーへの旅行を繰り返すようになった。
そのうちヤンゴンに住みたいという思いが募った小島さんは、1999年からWIN日本語学校で日本語教師を始めた。ミャンマーの新年である水かけ祭りが終わった後に、坊主頭の学生たちがいて、なんで坊主になったのか、と尋ねたら、ちょっと出家しました、と言われ、ともかくミャンマーが好きな小島さんは、自分もぜひやってみたいと仏教にも関心を持ち、ビルマ語を勉強したいという思いからヤンゴン外国語大学に留学され、その間の雨季の休みに2回一次出家を経験された。それを端緒として仏教と社会の関係に興味を持つようになり、2003年、33歳の時に大学院に入りなおし、仏教の勉強を始められた。
修士課程(2003-2005年)では、1980年ネーウィン政権下で開催された全宗派合同サンガ大会議というミャンマー全国の僧侶を組織化する会議の成立過程並びにその後のサンガと地域社会における仏教実践との関係に焦点を当てて研究を纏められた。

博士課程(2005−2010年)では、ミャンマーに長期滞在することは難しく、ご自身の専門が中国文学であったことから、大学生時代に訪れた雲南省徳宏州瑞麗という町で調査することを勧められ、国境の瑞麗の郊外にあるタイ族の村で1年余りを過ごした。そこで信仰されているのも上座部仏教であるが、お坊さんが少なく、在家のホールーという人が重要な役割を果たしていることがわかった。そのホールーを取り上げ、博士論文を執筆された。僅かながらいる僧侶はミャンマー出身者で、どういう経緯で瑞麗という町に移動してきたのか、5年分の調査を行い、地図上に落とした。それを見ると、国境に至る前にマンダレーやヤンゴンで勉強していたことがわかる。他方雲南省のシーサンパンナーの場合はタイとの結びつきがあり、教理学習のルートが異なることもわかった。その後も多彩な研究を行ってこられた。
今回は、2022年8月~9月にかけて行った北部シャン州で調査を中心に話すとのことで、以前より僧侶教育学校(ポンドージーティンピンニャーイェチャウン)という世俗の学校教育を行う寺院と、ティーラシン(女性修行者)による世俗教育を行う学校が開かれていたが、非常に多くの見習い僧たち、在家の子たちが学んでいることには驚いたという。3年間の間に生徒数がとても増えていたのだった。
上座部仏教と社会との関係
上座部仏教は、東南アジア大陸部を中心とする地域で信仰されている。インドからスリランカを経由して伝わった。上座部仏教徒社会では均質なパーリ語三蔵経典が受け継がれているが、文字を持たないパーリ語は、各地の文字で表記され、発音も異なる。

小島さんは、上座部仏教徒社会について理解するには石井米雄氏のモデルが有効だと指摘され詳しく述べていかれた。

すなわち、上座部仏教とは自らの修行、努力によって自己の救済を完成する道を提示する宗教であり、神に救いを求めない。パーリ語ではテーラワーダ、長老の説と呼ばれる。小乗とも言われたが、大乗仏教からの蔑称であるとして、今日使われなくなっている。
教義的特徴は、四諦八正道、四聖諦とも呼ばれ、1)苦諦(苦の真実、生老病死、会いたくない者と会う、愛する者達と別れる、求めても得られない、五つの執着要素が生み出す苦、という四苦八苦)、2)集諦(苦の原因は渇望である、満たされることのない欲望があるからだ)、3)滅諦(渇望を停止することによって涅槃に到達する)、4)道諦(涅槃に到達するための道)、は具体的に八正道となる。
全体としては「三学」という言葉でまとめられ、それは戒、定、慧である。戒はよい習慣、定は瞑想に専念する、それによって慧、智慧を獲得する。苦を生み出すというのは、無知な状態にあるから、そこから脱却できれば、苦しみがなくなって涅槃の境地にいたることができる、というのが基本的な考え方である。

そうした自己救済の論理は難行と言われる。超世俗的な環境で心身の修練を要請する教義で、戒律も瞑想も厳しい訓練が必要になる。大衆が世俗の生業を営みながら実践し救済という最終目標を達成するのはなかなか難しい。それゆえ修行に専念することを決意した人々は、家業を放棄して、出家する。最初期の仏教修行者たちは、遊行しつつ人里遠く離れた場所を求め、瞑想に専念した。出家者たちはやがて村里の近くに住まい、中には在家信徒が寄進建立した寺院に起居して、同行の出家者と共に共同生活を送るようになる。そのような修行の共同体をサンガと呼ぶ。

サンガに入るためにはまず、見習い僧(ビルマ語でコーイン)として出家する。剃髪を行い、師匠に出家を乞うが、その際施主(ダガー)、スポンサーが必要である。

見習い僧になったうえで、20歳を超えていれば、翌日正式な僧侶として出家する。戒律を受ける際は師僧の後についてパーリ語を唱える。一旦出家すると、227の戒律を守るが、4つの罪を犯した場合は教団から追放される。その4つとは性交の罪、盗みの罪、故意の殺人、虚言の罪だ。
在家者の場合は、日常的に5戒を守り、布薩日(ウボネ)には、努力目標として8戒を守る人が多い。守る戒律の数が僧侶と在家では異なる点も日本とは大きく相違する。

僧侶は托鉢によって生活しなければならず、世俗社会の中に位置していなければならないが、かといって世俗社会に完全に混じりあってしまうわけにはいかない。ある意味超世俗的環境にいなければならない。
ミャンマーの出家と在家の関係は、出家した以上は、戒律は厳しく守らなければならない、しかし守れない場合は、一生続ける必要はなく、在家者に戻ればよい、このような形をとることによって、能力を喪失した僧を組織体の外に排出し除去する、戒律を守れない人は出ていくように、という点でも日本の仏教とは異なる。
ここにおいて、2つの疑問が生じるのではないか。1つは、生産活動に携わることを禁じられ、托鉢によって生活している出家者は、在家者による布施が無ければ生存すること自体が不可能、しかし在家者は涅槃に至る過程から疎外されているはず。にも拘わらずミャンマーでは87.9パーセントが仏教徒で、他の上座部仏教国でも同様の状況がある。在家者はなぜ一生懸命寄進をするのであろうか。

2つ目の疑問として、難行を実践し涅槃に到達するのは限られた少数者であるにも拘わらず、かなりの出家者がミャンマーにはいる。2017年現在ミャンマーのお寺は6万9321あり、僧侶は28万6千、見習い僧が23万3千人。合計すれば50万を超える出家者がいる。なぜこんなに多くの出家者がいるのか、という疑問である。
教理上は輪廻する6つの世界がある。輪廻する生存を脱出して、苦のない涅槃に至ることが最終目標だが、大方のタイ人の関心は、むしろ秩序の中における相対的地位の上昇へと向けられる。輪廻の世界の中でよりよい地位を目指したいのだ。さらに言うならば在家者にとって、一番関心のあるのは、来世及びこの世なのであり、人間として生きる世界の幸福がある。地獄に落ちることは避けたいが、天国に入ることより、この世で大きな家に住み、金もうけもしたい、試験にも受かりたい、きれいな恋人に巡り合いたい、身体はいつも健康でありたい、そして長生きをしたい、様々な願望を持っている。その時にどうするか。日本でも因果応報という言葉があるが、善い行いをすれば功徳を積みよい結果が得られ(タイ語でタンブン)、悪い行い(タイ語でバープ)をすれば悪い結果になる。最悪の場合、地獄に落ちることもある。自分自身の行いによって自らの生存状態を変更しうると考え、善い行いをして善い結果を得よう、というのが在家者の発想にある。
よりよい行いというのはどういう行いかというと、お寺を建てる、僧侶に対してお布施をする、それによって功徳(タイ語でブン、ミャンマー語ではクドー)を積むことができる。
もう1点、出家すること自体も、徳を積む行為、そういう発想があるので、在家の人々はサンガに対してお布施をすることに加え、自分自身が出家するという行動をとる。

出家という行為は、本来ならば涅槃を目指すための行為なのだが、民衆は出家も、タンブン、すなわち徳を積む行為であるという風に新しい意義付けを行っている。もちろん現実の出家者のすべてがタンブンに動機づけられて出家しているわけではないが、中部タイの出家者の大部分は、タンブンからの出家であると考えられる。テーラワーダの正統的教理に固執する限り、必然的に少数化せざるを得ないサンガというのは、こうした非エリート層によって自律的な組織体としての存在を維持することができる。
それ以外にもお坊さんたちは世俗的な機能も果たしてきた。占星術、計算術、芸術の創造の場、教育の機能、日本の寺子屋のように、一定の年齢に達すると子供たちが寺に預けられてタイ語の読み書きについての基礎教育を受ける。その後近代化の流れの中で、チュラロンコーンという王が、ヨーロッパの視察旅行に出かけて、教育改革をしなくてはいけないと考えたが、その時に中々教育改革が進まなかったので、お坊さんたちの協力を得て、教育改革を実現することを目指した。
今では公教育における僧侶の責任は解除されて、教壇に立つ僧侶の数も、寺院学校も減少の一途をたどっているとは言え、多くの学校はお寺の中にある。僧侶は自発的に社会福祉のために貢献し続けている。宗教の分野に限らず。僧は率先して学校、病院、医療、道路のためその施設を開放している。地方出身の学生たちがお寺に寝起きして勉強したりしている。道徳教育なども施している。(以上は石井米雄氏によるタイ仏教についてテーラワーダの存在構造を示したモデルによる)
寺院における世俗教育の歴史
小島さんは、次にミャンマーのお寺における教育を概観していかれた。

まず前近代のお寺における寺院教育、僧侶(これはミャンマーに限らないが)大きく2つのグループに分かれる。1つは森に住む僧侶、アラニャワティ(森林住僧)と呼ばれる、世俗の欲望や執着を離れ、瞑想に専念する脱俗の仏教が発展した。もう1つはガマワティ(村落住僧)、村のお寺に住み、人々に物を教えるお寺、の2つに大きく分かれる。村の中のお寺ではローキーピンニャーと呼ばれる世俗の学問が発展して、経典だけでなく、占星術、武術、薬学、按摩などが教えられていた。

植民地時代になると、イギリス植民地行政官が記録を残しており、古い習慣は失われたが、8歳か9歳には必ずお寺に入ることは変わりなく、この国の仏教徒男子は誰でも読み書きを教えられ、ビルマ人に文盲はほとんどいない。ただし初等教育と見習い僧となって寺院に入ることを決して混同してはならない、15歳以前に寺院に入るのは見習い僧になる準備に過ぎない。幼い生徒が希望する場合には、寺院の建物の中に宿泊することもできるが、袈裟は身にまとわない、等と記録されている。

近年になって、算術、初等地理学、歴史など、西洋的知識の初歩が全国の寺院でますます教えられるようになった。政府も規定された試験に合格した生徒数によって、その寺院に補助金を出しているという記録も残されている。

その後独立を果たして、ウー・ヌ政権期(1948-1962)には仏教の保護政策がとられる。1949年に組織された人民教育評議会で寺院教育計画が作成され、小学校のない地域の寺院に僧侶教育学校を設置して、教科書や設備を寄付する等を行った。4年生の卒業試験に合格した場合、中学校に入学することも可能で、ウー・ヌ時代に5545の僧侶教育学校があった。学生が26万人、教員僧が7441名いた。かなり積極的にお寺における世俗教育が行われたということがわかる。

その後社会主義時代(1962-1988)、ネーウィン政権になると、宗教と一定の距離を置いたこともあって、僧侶教育学校に対する積極的な支援は一時中断する。完全にストップしたわけではなかったが、政府からの積極的な支援がなくなったために、僧侶教育学校は減少した。

軍政期(1988-2011)、特にタンシュエ政権の1992年以降、世俗教育を僧侶教育学校で行うことに対して、政府が再び補助を行うようになる。2002年時点で1010校、2019年現在も1506校あって、30万人の小中高校生が通っている。

ミャンマーの歴史的スパンで見れば、僧侶教育学校が衰退傾向にあった、1972年から92年までのネーウィン政権期とその後しばらくはむしろ例外的な時期であったが、その時期でさえ、お寺の世俗教育は完全に中断したわけではなかった。
ミャンマー北部シャン州の仏教と地域社会の関り
そして、ここから、2022年8月~9月にかけて行った北部シャン州で調査を中心に話が進められた。

まず北部シャン州のY僧侶教育学校について。住職は現在シャン人で、僧侶と在家の教員がいて、ティーラシンの教員もいる。学生の中にも非仏教徒も含まれている。男性教員の一人は元ムスリム。結婚後仏教徒に改宗した。給与は宗教文化省から支給されている。教員は殆ど退職教員であったりして、自分の意志(セーダナー)で教えている。自分自身教員の経験があるので、僧侶教育学校のレベルは、実はかなり高い、と言われている。

現在、村の学校では、多くの先生方がCDMという不服従運動に参加してしまって、レベルも落ちているらしい。そのためむしろ僧侶教育学校の方がレベルも高い、というようなことが言われた。

Y僧侶教育学校の生徒を見てみると、見習い僧が382人、在家の男子女子含め全部で723名いる。この数年の間に急増している。その理由は、シャンの民族武装組織に徴兵がある。男子が3人いれば、1人はRCSS(南シャン州軍)、1人はSSA(北シャン州軍)に徴兵されるような状態。中学校以上は自分の村から遠い村まで通わなければならず、危険な状態。村から町の学校に通った方が、目を開かされることもあって、多くの子供たちが通っている。この学校では中学校まで勉強するが、高校は僧侶の場合は袈裟を着たまま世俗の政府の学校に通うことになる。

別の事例として、北部シャン州のSティーラシン教育学校について紹介する。ティーラシン教育学校、教員はティーラシンの人もいるし、在家の教員の人もいる。政府から補助金が支給されている。様々な教育が行われていて、花の飾りつけ、裁縫、果物の造花作り、中国語、英語など。お経も、世俗教育も勉強。負担にもなるが努力して多くの生徒が学んでいる。

Sティーラシン教育学校の生徒についてみてみると出身村は戦争で危険な状態にある。女子も徴兵されるということで、ティーラシンとして女子も多くが出家生活を送りながら勉強する。

生徒たちの高校卒業後の進路は、だいたいはある一定の年齢、高校を卒業したら、ティーラシンをやめて俗人に戻る。多くの場合は、中国側に出稼ぎに行き、お金を貯めて茶畑を買うことを目指している。パラウンの村ではTNLA(タアーン民族解放軍)という民族武装組織に徴兵されることが多い。男子が足りないということで、労働力として働くこともある。こうした形でティーラシンになれば、徴兵を逃れることができる。還俗しなかった場合も、仏教の勉強を続けて、スリランカに留学したティーラシンもいるとのことだ。

教育を受けられない、徴兵の危険がある、そうした困難に対処する機会を僧侶教育学校、ティーラシン教育学校が提供している。

ではどういう人たちが僧侶教育学校を支えているのか、どのようにこの活動を支えているのか。

小島さんが瞑想修行で師事した、森林住僧の伝統を継ぐH師は、今回訪ねたところ、山の中に一人でお寺を作って、そこに移り住んで瞑想に専念していた。お寺から出て行ったお坊さんの生活は、付近の町にいる施主が、瞑想寺院の建築費用や日々の食事を布施。最終的には悩みや苦しみを克服して涅槃に至る、ローコッタラという脱俗の仏教を目標として、瞑想に専念している。

他方小島さんの住んでいた村落住のP寺院は、社会福祉活動を熱心に行うようになっていた。お寺の境内に眼科診療施設を作って、無料で診察をしている。また去年コロナが流行って出家のみならず在家も困難な状況に陥り、眼科用施設をコロナ感染者用に転用したこともあった。かなり費用がかかるので、どうやってお布施を集めたのかというとFacebookとのことで、かなり積極的に発信して、ミャンマー語の自動翻訳を見て、海外からの寄進も多いとのことだった。マンダレー、ヤンゴンなど大都市から、在家信者からの寄進があったと聞いた。
またコロナ時には、止住していた53名中、僧侶3名、見習い僧45名が感染、見習い僧は全員Y僧侶教育学校に通わせている。学校教育に関わるO師は「僧侶教育学校での教育や境内の診療施設での活動は、村落住僧(ポエジャウン)の伝統を形を変えて受け継ぐものであり、今に始まったことではない」と述べた。

さらに、小島さんは、次のように続けられた。

元来世俗的な知識と関わる村落住僧は、国王からは弾圧されたり迫害されたりした歴史がある。戒律を守らない堕落した僧侶だという書き方をされている。しかし「世俗的な知識」には様々な内容が含まれ、全てについて僧侶が関わることを排除されてきた訳ではない。現政権も、学校教育に僧侶が関わること自体を禁じてはいない。正式な学校として認められているし、国民教育法(34条)によって学校の一種として認められており、宗教文化省の仏教発展普及局から財政的な支援も得られている。必要に応じて教育省からも支援を得ているという状況がある。政府だけでなく多くの在家信徒がお布施をしてくれている。僧侶はこういう活動に関わるべきではないという批判的な人もいる。この活動に従事している僧侶によれば、在家の人々は困難に直面しており、そのような場合僧侶は世俗に関わるべきなのだ、困窮した人々を支援する活動に共感して、多くの在家信徒も寄進してくれている、というような状況がある。

クーデター後、北シャン州などにおいて、世俗の人々が困難に直面している時には、学校の教育機関として、そして徴兵からの避難所として重要な役割を果たしている。こういう形で北部シャン州の僧侶教育学校が成り立っている。
今後の課題
今後の課題として、都市部にも僧侶教育学校というのがたくさんあり、それについて都市部で主に調査を行ってこられた藏本龍介氏は、「出家者の社会福祉活動を評価する国外のNGOの篤い支援とは裏腹に、都市住民の多くは僧侶に支援しようとはしていない。なぜなら社会福祉活動に携わる出家者は世俗的な存在にあるとみなされる傾向にあるからだ。たとえばスパイロという人類学者は1950年の人類学研究で、『非宗教的な領域に対する布施は功徳が少ないという観念があるため、道路建設、社会福祉、教育、公共医療といった社会サービスは、物質的にも財政的にも見過ごされている』と述べているが、その傾向は後述するような都市住民の仏教への関心が増大とともに、さらに強まっているように思われる」と指摘されている。僧侶教育学校はあまりお布施も集まっていない、むしろ瞑想に専念するようなお寺の方にお布施も集まっている、そういう指摘をされている。

それについて、小島さんは都市の調査をしていないので、なんともいえないが、地方ごとに僧侶教育学校はどのくらいの人数通っているか、MIMUというサイトが地図上にマッピングしてくれている。
これをみると、僧侶教育学校の人数が一番多いのが、ヤンゴン、マンダレーで、小島さんが調査を行ったシャン州は、ミャンマー全体からみると特別に多い地域ではない。ヤンゴン、マンダレーは、全体から見ると多い地域であると統計からは読み取れる。その一方で藏本さんの研究では僧侶教育学校よりもむしろ瞑想寺院のほうがお布施は集まっている、という調査があるので、なぜ北シャン州の傾向と違うのかという点について、今後ヤンゴンやマンダレーなどの都市部について、調査を行っていきたいと締め括られた。

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質疑応答
Q: 僧侶教育学校という訳語をなぜ使われているのか、寺子屋学校とどう違うのか。また 見習い僧出家式の写真に僧侶二人いて、奥の方の僧侶の袈裟の色が違う、見慣れている袈裟の色ではない、色の違いが何か意味を持っているのか。

A: 訳として適切かどうかは自信がない。僧院学校と訳されている場合もある。寺子屋学校でもイメージが沸きやすいかもしれないが、寺子屋学校には、「読み書きそろばん」のイメージがあり、王朝時代のほうが寺子屋学校というニュアンスが近いかと思う。近代的な学校教育をお寺の中で教えるので、伝統的な寺子屋とは異なると言えるが、かといってどういう訳がいいのか。訳については工夫が必要と思う。 袈裟の色が違うのは日本では袈裟の色によって位が違うということはあるが、上座部では僧侶の位とは関係なく、シャン州の1月は、朝晩とても寒いので、普段の袈裟の上にさらに一枚羽織っている状態。


チャット担当の井上岳彦さん(ロシアにおける仏教文化研究)からのコメント
ロシアの仏教はマハーヤナだが、100年くらい前には、チュラロンコン王とロシアの仏教徒が会っていろいろ話している。植民地時代の様子などは、ロシアの仏教徒が体験していたことと全く同じような状況だなと関心を持って拝聴することができた。


Q:僧侶教育学校では進級試験などもあるのか。

A:世俗の学校と同じように行われている。特に5年生が終わるときに卒業試験が行われ、それ以外でも、普通の学校よりもむしろ厳しいくらいだ、と聞いたことがある。政府の学校では、放課後、チュイション(塾)に通って勉強したりするが、僧侶教育学校では放課後も勉強をみたりする場合もあり、経済的に余裕がないので、学校の中で完結するように指導される。教育そのものはみっちりと覚えるまで教育され、小テストのようなものはしょっちゅう行われていると聞いたことがある。


Q:教育省の管轄の中での学校ということですね。

A:宗教文化省と教育省が両方管轄していて、カリキュラムは教育省と同じということ。


Q:日本にはいろんな宗派があるが、ミャンマーにもあるか。

A:1980年に全宗派合同サンガ大会議が開催され、その時に9宗派が公認された。ただ宗派を日本の宗派と同じと考えてよいかどうかは議論があるところ。日本の場合、重視されるお経も異なる、ミャンマーの場合は用いられる経典は同じパーリ三蔵、その意味では日本の宗派ほど差は大きくないが、儀礼の作法、戒律に対する解釈の違い等があり、グループに分かれていくということはある。1980年の会議の前は、ミャンマー全土にグループがたくさんあった。それを国としてはなるべく一つの組織の中に統合したい、ということで最初は統一しようとする動きがあったが、宗派の反発が強く、3宗派、そして最終的に9宗派でまとまった。公認されているのは1980年以降9宗派。その中にも様々なサブグループのようなものがあり、現実にはかなり複雑な様相を呈している。


Q:ヤンゴン、マンダレーに僧侶教育学校が多いのは、少数民族教育と関係があるのでは?

A:今後自分も調査するが、すでに何寺院かで調査していて、知る限りでは少数民族の子供たち、例えばシャン州からマンダレー、ヤンゴン、そういったところに子供たちが送られて行って、学んでいるという学校は多く見られる。もちろん貧困層の子供たちも学んでいる。知る限りかなり大規模な僧侶教育学校があり、それがなぜ都市部で成り立っているのかを今後調べなければならないかと思っている。スパイロを引用した藏本さんの議論によると、社会福祉のようなところにお布施しても功徳が少ない、という考え方がある。だから僧侶教育学校はお布施集めに苦労している。そういう報告であるが、自分自身の知る限り、少数民族の子供たち、それこそ学校によっては数千人規模の学校もあり、そこの食事を出すにしてもかなりの量になるわけで、それをまかなえるだけのお布施をよく集めている、と感じる。もちろん海外からのお布施もよく集まっているが、都市部でも多くの寄進者が寄進しているようだ。今後きちんと調べていく必要があると考えている。調査結果がでたらお伝えしたい。


Q:僧侶教育学校には地域的多様性はあるか。北部シャン州の事例は他の地域でも同様か。

A: あると思う。国家の周辺部の非仏教徒が多い地域では、仏教普及政策によって布教僧が派遣され、布教僧の建てたお寺の境内に、僧侶教育学校が建てられたりする。国境周辺地域では布教と絡めた僧侶教育学校が多いということは言えると思う。国境周辺部のお寺からヤンゴン、マンダレーのお寺に送るということもあるが、少数民族の子供たち以外に貧困層の子供たちが通うということもある。これもわかり次第また別の場で報告したい。
(記事執筆:原田正美)
<無断転載ご遠慮ください>
引用文献一覧

  • 石井米雄1975、小島敬裕2011、同 2014、MIMU(Myanmar Information Management Unit). 2023.、Spiro, Melford. E. 1970
  • 石井米雄. 1975. 『上座部仏教の政治社会学−国教の構造』創文社.
  • 小島敬裕. 2011. 『中国・ミャンマー国境地域の仏教実践―徳宏タイ族の上座仏教と地域社会』風響社.
  • 小島敬裕. 2014. 『国境と仏教実践―中国・ミャンマー境域における上座仏教徒社会の民族誌』京都大学学術出版会.
  • MIMU(Myanmar Information Management Unit). 2023. Monastic Education in Myanmar(2015/15 to 2019/20)http://themimu.info/monastic-education-dashboard
  • Spiro, Melford. E. 1970. Buddhism and Society: A Great Tradition and its Burmese Vicissitudes. London: George Allan & UNWIN

※小島さんの発表の引用文献一覧は、「アンドモア」に掲載しています。
アンドモア
小島さんの発表の引用文献一覧

  • ハウトマン,グスタフ(土佐桂子訳).1995.「支配者と瞑想者のあいだー植民地時代とそれ以降における内観瞑想」田辺繁治編『アジアにおける宗教の再生―宗教的経験のポリティクス』京都大学学術出版会, 152-194.
  • 池田正隆訳.2007.『ミャンマー上座仏教史伝―タータナー・リンガーヤ・サーダン』を読む』法藏館.
  • 石井米雄. 1991. 『タイ仏教入門』めこん.
  • 小島敬裕.2009.「現代ミャンマーにおける仏教の制度化と<境域>の実践」林行夫編『<境域>の実践宗教―大陸部東南アジア地域と宗教のトポロジー』京都大学学術出版会, 67-130.
  • 藏本龍介.2014.『世俗を生きる出家者たちー上座仏教徒社会ミャンマーにおける出家生活の民族誌』法藏館.
  • 藏本龍介.2015.「ミャンマーの社会参加仏教―出家者の活動に注目して」櫻井義秀・外川昌彦・矢野秀武編『アジアの社会参加仏教―政教関係の視座から』北海道大学出版会,263−272.
  • Mendelson, E. Michael(ed. by Ferguson, J.P.). 1975. Sangha and State in Burma. Ithaca: Cornell University Press.
  • Shway Yoe. 1963(1882). The Burman: His Life and Notions.(※) New York: W. W. Norton & Company, Inc
  • Spiro, Melford. E. 1970. Buddhism and Society: A Great Tradition and its Burmese Vicissitudes. London: George Allan & UNWIN.
  • Thadhanayei Uzi Htana 2002. Thadhanayei Wungyi Htana Hsaungyuetgyetmya Akyin(宗教省事業要録). Yangon: Thadhanayei Uzi Htana.
  • Than Htut, U. 2015(1980). Myanma Naingngan Hpondawgyikyaung Pyinnyayei Thamaing(ミャンマー国における寺院教育の歴史). Yangon: Shinmataung sapei.
  • 土佐桂子.2000.『ビルマのウェイザー信仰』勁草書房.
  • 和田理寛.2021. 「上座部仏教徒の社会とは何か」和田理寛・小島敬裕・大坪加奈子・増原善之・下條尚志・杉本良男『東南アジア上座部仏教への招待』風響社,13-31.
  • 矢野秀武.2017.『国家と上座仏教―タイの政教関係』北海道大学出版会.
  • 張建章編.1992.『徳宏宗教―徳宏雲南省徳宏傣族景頗族自治州宗教志』潞西: 徳宏民族出版社.

発表の前半でご紹介した、 石井米雄先生の『上座部仏教の政治社会学』は、京都大学東南アジア地域研究研究所のウェブサイトよりダウンロードすることができます。
https://cseas-classics.cseas.kyoto-u.ac.jp/cseas-m...

1975年の出版ですが、今でも上座部仏教と社会の関係について研究する際の基本的な文献となっていますし、私自身も読むたびに新たな刺激を受けています。

ただし、ミャンマーの事例にはタイ・モデルを単純に適用できない部分もあります。
その点をふまえれば、ミャンマーの上座部仏教徒社会について理解を深めたい方々にも大いに参考となりますので、ぜひご一読をお勧めします。

(※)『ビルマ民族誌』の書名で、戦前に翻訳が出され、2008 年にその復刻版が出版されています。国立国会図書館デジタルサービスを利用できます。→ https://dl.ndl.go.jp/pid/1062701/1/1
また、以下のサイトもご参照ください。
https://ci.nii.ac.jp/ncid/BA84492364


    これからの「楽平家オンラインサロン」
    8月の「楽平家オンラインサロン」は、30日(水)午後8時から、ベトナム、ラオスに続く「インドシナ・シリーズ」の3回目、カンボジアの話です。昨年度、22年ぶりに家族・ 世帯に関する再調査をされた高橋美和さんが、この間で変わらなかったカンボジアの家族の特徴と、大きな変化があった部分を語っていかれます。
    9月からは、ミャンマー最初の統一王朝バガンのことなど、『ビルマ/ミャンマーの 原点を知る』シリーズ全3回を予定しています。なお、開催日時は、いつものように各月の第2水曜日午後8時からです。
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