第6回ワッタン映画祭より。会場は、現在常設映画館としては閉館中のワジヤーシネマ。
ヤンゴンにて。2016年9月 、ワッタン映画祭チーム撮影
<無断転載ご遠慮ください>
第23回
『楽平家オンラインサロン』
2022年7月13日(水)
20:00〜
ミャンマーの自主制作映画事情
- ワッタン映画祭を中心に -
話の内容とプロフィール

≪話の内容≫


これまで、日本でミャンマー映画を観られる機会は大変少なかったと思います。15年くらい前までは、ミャンマー映画が世界の映画マップに登場することはほとんどありませんでした。劇場用長編映画に関しては事情は今でも変わっていませんが、自主制作のドキュメンタリーや短編映画が映画祭などで紹介される機会は、最近大幅に増えてきました。

私がミャンマーでは映画の作り方を学べる場所や機会が大変限られていることを知り、ミャンマー国内で映画のワークショップを始めたのは2002年のことです。最初の2年間は自分と地元の人達だけで行っていましたが、2004年からはチェコの国立映画大学の協力を得て、より本格的なコースを提供できるようになりました。プラハに留学生も送り出せるようになりました。これまでに長期短期を含め数多くの留学生を送ってきましたが、みんな帰国後にミャンマー映画発展のために大いに活躍してくれています。その中の2人は、自分たちが学んだことを地元の仲間に伝えるには映画祭が最適だとして、映画祭を始めたいと提案しました。そこで生まれたのがワッタン映画祭です。2011年に、ミャンマーで初めてのミャンマー映画のための映画祭として誕生しました。

2020年、ミャンマー映画生誕100周年記念の年に映画祭も10周年を迎えましたが、10年間にワッタンを通して数多くの映画が世に送り出されました。表現方法やジャンルの種類も広がりました。ミャンマー映画にもようやくニューウェーブが訪れたのではないかと実感しています。

そこで今回は、ワッタンの10年を振り返りながら、映画祭を中心に現在のミャンマー自主制作映画事情についてお話したいと思います。
映画祭期間中、会場となるワジヤーシネマは様々なジャンルの映画 を観たい、語り合いたいという市民で溢れかえる。ワ ッタン映画祭チーム撮影
<無断転載ご遠慮ください>
≪プロフィール≫

清恵子

キュレーター、メディアアクティビスト、著述家。日本でビデオキュレーターを務めた後、共産主義国家のメディア状況を研究するために1988 年に東欧に移住。東欧各地のメディア・アクティビストや研究者と共にインディペンデントメディアの育成や確立、そしてメディアやアートを使った民主活動に従事する。その後は内戦に関連して旧ユーゴスラビアの独立メディア問題にも取り組み、中央アジアやコーカサスにも活動の域を広める。ミャンマーの民主活動家や文化人からの協力要請を受け、2002年に東南アジアに活動の拠点を移し、ミャンマーで映画教育を開始する。

チェコやドイツの大学ではメディアアート・アクティビズムを教える。ドイツ出版の書籍『Von der Burokratie zur Telekratie』編集のほか、著書にチェコで出版の『Terminal Landscape』がある。キュレーターとしてのプロジェクトには "The Media Are With Us! The Role of Television in the Romanian Revolution" (ブダペスト、1990)、"The Age of Nikola Tesla" (オスナブリュック、1991)、"EX-ORIENTE-LUX -- Romanian Video Week" (ブカレスト、 1993)、 "Eastern Europe TV & Politics" (バッファローNY、1993)、 "lantern magique ~ artistes théques et nouvelles technologies" (ストラスブール、 1998)、 "POLITIK-UM/new Engagement"(プラハ、2002)、 "Re-Designing East" (シュトゥットガルト、グダンスク、2010, ブタペスト、2011) 、"Could Be: High School Special for Media City Seoul" (ソウル、2016) などがある。

【楽平家オンラインサロン 第23回報告】
2022年7月13日の「楽平家オンラインサロン」は、清恵子さんによる「ミャンマーの自主制作映画事情- ワッタン映画祭を中心に -」でした。

ミャンマー映画史や映画教育などを振り返りつつ、清さんご自身の実体験に基づきながら、ミャンマー自主映画制作事情、とりわけワッタン映画祭の成り立ちから現在までについて、大変貴重で興味深いお話をしてくださいました。大勢の方がご参加くださり、清さんもまだまだお話ししたいご様子で、盛会となりました。

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ミャンマー映画史
・黎明期(1900年~)
ミャンマー映画の第一号が登場。Ohn Maungが政治家Thu Sheinの葬式を納めたドキュメンタリー映画(ニュース映画)を制作。1920年ロイヤルシネマで上映(注1)。その後Ohn Maungは長編劇場用映画の第一号"Love and Liquor"(白黒、サイレント)を制作。1920年10月13日に上映されている。ちなみにこの日は「ミャンマー映画の日」とされている。植民地時代にはすでに複数の映画の撮影所があり、A1という撮影所がもっとも有名で日本で言えば東宝に当たる。A1所属のスタッフは「A1〇〇」という名前で活動していた。1935年には日緬合作映画『日本の娘』も製作されている。


・黄金時代(1950年~)
この時期には年間100作以上の映画が製作・上映されており、A1スタジオを中心に黄金時代となった。ヤンゴンだけでも600の映画館があり、とくに大きな劇場であるエクセルシオール劇場(現ワジヤシネマ)を中心に、市内に映画館がたくさん立ち並んでおり、日比谷の映画街のような雰囲気だった。映画館ごとにハリウッドの映画会社と直結している館も多く、MGM専用映画館、20世紀FOX専用映画館などがあり、当時は大変な賑わいだった。この時期の代表作に1953年製作"Yadanabon"がある。


・映画制作激減(
1962年~)
軍事政権下になり、劇場用映画の製作本数は下降を辿るが、1970年代の盛り返しは興味深い。1970年代にインドのネオリアリズム映画の影響を受け、一連のリアリズム映画が短期ながら台頭し、映画の質が再び高まった。リアリズム映画の代表作に"Tender are the Feet"(邦題『柔らかいステップ』)(1974年)がある。


STV時代(1990年~)
他地域と異なり、ミャンマーには16mm映画は存在せず、35mm映画ののちに登場したのがビデオ映画だった。この時期にはSTV(Straight Video、「オリジナルビデオ」とも言う)という「映画館で上映することを想定せずに、はじめからビデオで販売することを想定した低予算映画」が多く製作された。ヤンゴン市街地の35番街アッパーブロックに多くの映画制作会社が立ち並び、彼らが制作するオリジナルビデオの量は、一時は数字上ではナイジェリアやインドに匹敵するほどだった。この時期に作られたオリジナルビデオの多くはB級映画かそれ以下のC級映画で、現在のミャンマー自主映画制作者たちからはやや軽蔑的なニュアンスを込めて「35番街映画」と呼ばれている。
この時期は映画館では毒にも薬にもならないアクション映画やボリウッド映画が上映される一方で、国内映画や国外映画の海賊版も氾濫した。レンタルビデオ屋ではビデオ形式の映画が簡単に入手できた。

ビデオの登場によって映像製作が容易になったことで、少数民族も自ら映画を作るようになった。彼らは独立メディアを通じて、自分たちの言語でニュースやドキュメンタリーを撮り、ビデオの形式で配布し、情報を拡散していった。
しかしオリジナルビデオ業界もコピーの横行で成り立たなくなり、現在はほぼ崩壊状態。ストリーミング配信が増えた現在は、ディズニー映画100本入り、ボリウッド映画100本入りのようなビデオが多く、また動画データをUSBスティックに入れてもらう商売が主流である。


NLD政権時代(クーデターまで)
この時期には劇場公開される映画の数や種類が一気に増えた。劇場公開される映画が増えたのは、海賊版の横行により、弱小製作会社も劇場映画上映を目指すようになったのが一因である。劇場公開される映画の種類が増えたのは、ワッタン映画祭など映画祭を通じて様々なジャンルの映画に触れる可能性が増えたことが挙げられる。

このような中、現状は製作される映画の数に比して映画館が不足しており、公開まで1、2年待たなければならない状態である。映画館不足の原因は、民政移管後、外資が一気に流入する中で土地不足が発生し、古い映画館が取り壊されて商業ビルやホテルへと建て替えられたからである。この映画館不足を解消すべく、現在では国内外の資本がミャンマー映画興行事業に参入しているが、クーデター後にこれらの事業の行方は不明である。そもそもクーデター後は映画館は開けたとしてもガラガラで、映画館の経営自体が困難な状況に陥っている。

NLD政権時代においては、政府は映画振興に積極的だった。映画関連法の制定準備も進めており、そのさい主流商業映画だけでなく自主製作映画関係者へもヒアリングを行っている。ワッタン映画祭(後述)も、カナダなど各国の映画法のリサーチをしてひな型を作成するなどして協力した。そのほか政府は映画教育の推進のためにヤンゴンにフィルム・デベロップメント・センター(FDC)を建設した。

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ミャンマー映画教育事情
従来は映画監督から直接学ぶ徒弟制だった。有名俳優ルーミン(ミャンマー映画協会会長)が演技のワークショップのようなことをやっているのを見かけたことはあるが、体系的な教育制度はほぼ皆無だったと言える。

そのようななかで清さんは2002年にチェコからミャンマーに移住し、2003年1月1日からミャンマーで映画ワークショップを開始。ミャンマー・タイ国境のメーソットでも亡命者を対象に映画ワークショップを行い、ミャンマー国内および国外で精力的に映画教育を行った。2004年からはチェコ国立映画大学が本格的に協力するようになり、そのうちミャンマーから毎年チェコに留学生を送り出すようになった。そのさい、教育を受けたあとミャンマーに帰国し、ミャンマー映画の振興に貢献すること、というのが留学の条件であった。その誓いを立てて多くのミャンマー人留学生がチェコで学び、彼らは帰国後ミャンマー映画の振興に大いに貢献している。

映画祭が増えるとともに映画祭付きワークショップが増え、またアメリカンセンター等各国の文化センターでも不定期にワークショップが行われている。そのほか自主制作映画作家たちが、自身が学んだ事柄を地方やオンラインでワークショップにて教えるということも増えている。とくにチェコで大量の映画を観て、本格的に映画を学んだ留学生のトゥトゥシェインとタイジの二人は、自分たちがチェコで学んだことをいかに自国にどのように還元できるかと考え、それがワッタン映画祭開催へとつながった。


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ミャンマー映画祭事情
*ミャンマー映画を見せる映画祭

・2011年~:ワッタン映画祭が始まる。ジャンルは「ドキュメンタリー」、「ショートフィルム(ドキュメンタリーではないフィクション系の短編映画)」、「ニューヴィジョン(実験的な作品に贈られる)」の3つで、それぞれに賞が設けられている。現在まで続く。

・2012年~:Art of Freedom Film Festivalが始まる 。オーガナイザーのザーガナーは風刺コメディ兼活動家で有名。彼はこれまで何度も投獄されており、当時サイクロン「ナルギス」被害の支援に出かけたという理由で逮捕されていた。釈放後、最初に思い浮かべたのがFreedomだったことをアウンサンスーチーに話したのがきっかけで、映画祭を始めることになった。ワッタン映画祭第一回実験映画の受賞者のミンティンコーコーヂーが共同主催。2年続く。

・2013年~:Human Rights Human Dignity International Film Festivalが始まる。チェコの有名な映画祭One World Human Rights Film Festivalのフランチャイズ。ミンティンコーコーヂーが請け負い、4、5年続いた。

・2013年~:MEMORY! International Film Heritage Festivalが始まる。フランス資本。外国のクラシック映画が中心で、一部ミャンマー映画も上映。Myanmar Script Fundという脚本を募って良い脚本に資金提供も行っている。現在まで続く。

・2019年、One Step Film Forumが始まる。ドイツによる文化センターのゲーテ・インスティトゥート・ヤンゴンが主宰するドキュメンタリー映画祭で、コンペ部門はない。


*外国が自分たちの国の映画を見せる映画祭
EU映画祭の歴史は古い。そのほか日本映画祭、韓国映画祭など。

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ワッタン映画祭のこれまでの歩み(2011年~2020年)
・第1回、第2回:僧院にて

第1回、第2回はヤンゴン地方域タムェ郡区のMahar Sanni Thukha Monasteryにて。映画祭など皆無だったミャンマーなので映画祭に適した会場がなく、チェコ留学経験者のトゥトゥシェインとタイジがなんとか見つけて交渉して開催にこぎつけた会場。とくに第1回目にはミャンマーで初の映画祭開催とのことで、記者会見には大勢の記者が詰めかけて騒動になった。僧院なので僧侶や尼僧も映画を鑑賞したほか、若者やムスリムらの姿もあった。年配の主流映画監督らの中には良いアイデアだとして協力してくれた人もいた。トロフィーは有名な現代アート作家ニャンチャンスー製作。



・第3回以降:ワジヤシネマにて

第3回以降、僧院から追い出されたワッタン映画祭はワジヤへと会場を移した。僧院から追い出された理由は、ワッタン映画祭では様々な表現の映画が上映され、それは仏教の僧院で上映するものとしてはふさわしくなく、またほかのイベントから使用を求める問い合わせが殺到し対処しきれなくなったからだという。

ワジヤシネマは足元をネズミが走り回るような大きいだけで心地よさはない映画館だったが、管理者のミャンマー映画協会も使用を快諾してくれたので、第3回以降の会場となった。映画上映の関連機材はすべて持ち込み、ビデオをプロジェクターで映し出すという方法で上映した。ワジヤシネマは映画祭以外の期間は映画館としては使用されておらず、毎年のワッタン映画祭の開催はまずはワジヤの大掃除から始まる。ヤンゴンの中心部なので大勢の人が集まりやすい立地というのも魅力である。

ワジヤシネマ(写真提供:ワッタン映画祭)
・様々な映画の上映の場として

ワッタン映画祭では、通常の劇場公開映画とは異なるドキュメンタリー映画、短編映画(ショートムービー)、実験映画が上映される。2016年にはかわなかのぶひろ氏の『時の繪』が上映された。かわなか氏が軍事政権下の1997年に渡緬し制作した個人映画である。軍事政権下での外国人による映画制作は極めて稀である。そのほかヤンゴンのパンクロックシーンを追ったドキュメンタリー"Yangon Calling"や少数民族関係の映画も多く、パンクスや遠方から少数民族の人々などが集まる場となっている。


・トラベリングシネマ

映画祭の機会をヤンゴンだけにとどめておくのはもったいないということで、トラベリングシネマも始めた。これまで訪れた地域は以下のとおり。エヤワディ地方域Thuye'dan村、マンダレー、タウンジー(シャン州)(3回)、ミッチーナー(カレン州)、フレグー(バゴー地方域)、モビ(ヤンゴン地方域)の喫茶店、タンビュザヤ(モン州)。
エヤワディ地方域Thuye'dan村で開催された、最初のトラベリングシネマ
の様子(写真提供:ワッタン映画祭)
・ワッタン映画祭の名前の由来

自主製作映画のサンダンス映画祭に憧れてレインダンスが候補に挙がったが、すでに使われていたので、パーリ語で「雨」を意味する「ワッタン」となった。

また撮影が少ない雨季こそ映画でまったりしよう!ということで、開催時期は雨季となった。

Q&Aを重視

ミャンマーの軍事政権下でも海賊版は存在し、映画を観る機会そのものはあった。しかしそれは海賊版を借りてきて自宅で観るという行為だった。芸術文化は本来、話し合いがあってこそ成り立つもので、作家たちがどのような意図で作品を作ったのかなどを公共の場でもっと話し合うことが大切だと考えている。そのためQ&Aの時間をきちんと作ることを重視している。
ワジヤシネマ会場でのQ&A(写真提供:ワッタン映画祭)
・ネットワーキングの場

ワジヤはネットワーキングの場として理想の場所。ワジヤの2階にはバルコニーがあり、映画を観終わったあとの一服や、映画を作りたい人達や、オープニング、クロージングの後などに集まって話すのにちょうど適している。シネプレックス(日本ではシネコンと言われることが多い)で行う映画祭では、映画鑑賞後、みなそのままバラバラになってしまうことが多いので、バルコニーの存在は大きかった。SNSで発信するためのセルフィーなどを撮るフォトブースも設置している。映画祭参加者の投稿を見て、さらに観客が増えるのでフォトブースも重要である。

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ワッタン映画祭が残したもの
  • 自主製作映画の上映の場を作った。
  • 手作りで映画祭開催が可能なことを証明し、同種の映画祭の立ち上げを鼓舞した。
  • 少なくとも年に一度は上映の機会があるという保証により、映画をつくる人が激増した(上映には第一次、第二次審査を通過する必要がある)
  • 実験映画を含む様々なジャンルの映画を紹介、推奨することで、ミャンマー映画の多様化に貢献した
  • ミャンマー映画を市民が公共の場で語り合う場を作ったことにより、市民が自国の映画の質を見直す機会が増えた。
  • ミャンマー映画と国際映画界のつながりを作った(ミャンマー映画に興味を持っている外国人も、誰に会ってどういうネットワークを作ればよいかわからなかったが、映画祭があればそれが足掛かりになる。国際映画祭との提携も増えた。)
  • 受賞を糧に、主流商業映画に進出する映画作家も登場した(多様な映画を観た人が商業映画を作るようになり、主流商業映画の表現の枠が広がった)
  • 映画祭のフォーマットを確立した(オープニング映画の上映、上映後Q&A、フォトブース設置、ワジヤ―シネマの使用、ネットワーキングパーティーの定着化など)
  • ワジヤシネマを含むコロニアル建築および映画館の保存に対する関心を高めた

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ワッタン映画祭関連のさらなる活動
35番街映画に対する批判が大きな論争へ

若者を中心に映画に対する目が肥えるにしたがい、「35番街映画」に代表されるチープなコメディに対する批判の声が大きくなっている。批判はコメディそのものというより、検閲を通るためだけに安易に妥協してきた姿勢に向けられている。たとえばイランはミャンマーよりも検閲が厳しいが、作り手は工夫をして素晴らしい映画を生み出している。

この問題はFacebookを中心に大論争に発展し、ついにはMRTV(ミャンマーの国営放送で、日本のNHKのようなテレビ局)が特別番組を作るに至った。この問題に関する町の人々の声を紹介するとともに、チープな映画を批判する側の代表としてワッタン映画祭のタイジが論客として登場し、批判されている側の映画人との対談が放送された。論客も手ごわく、「あなたたちが言っていることはわかるが自分はやっていない」とかわされてしまった。


・自主製作映画の中から長編映画を作る作家が登場


それまで予算がなくて長編は難しかった。それでショートフィルムなどを撮っていた

そろそろ長編映画を作れないかということで、チェコ国立映画大学のプッシュでチェコの国営放送と共同製作したのが"The Monk"(2014)である。


・国際交流基金の協力によるアニメーションワークショップ

ワッタン映画祭主催のワークショップの一例。FDCで開催。清さんにとってアニメーションは長年の夢だった。というのは、ミャンマーはアニメーションに向いていると思っていたから。日本の国際交流基金が協力を快諾してくれ、これまで4回実施されている。

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若手映像作家の近年の活動の紹介など
Save Myanmar Film

黄金時代含めミャンマー映画は充実していたが、軍政は保存に興味がなく、フィルムを溶かして換金するなどしてきた。このように失われた映画を取り戻す活動が現在若手を主導に行われている。

その中心は『柔らかいステップ』の監督マウンワナの息子オッカーである。彼はミャンマー国営放送や政府に古い映画の保存を訴え、協力を得て活動を広げている。国営放送に眠る過去の作品をリサーチし、その結果1934年"Emerald Jungle"はユネスコの世界遺産に登録することに成功。

上の世代の映画人にも活動が認められ、ミャンマー映画協会からも賞状を送られた。若手が自分たちで立ち上げて、政府に働きかけてやり遂げたプロジェクトということでとても意味がある。世界からも次々に支援を受け、たとえば日本のライオンズクラブから新しい缶(フィルムを入れる)を100以上寄付された。

古い作品のリサーチは引き続き行っている。自国にはないが、世界各国にあるかもしれないので世界のフィルムアーカイブもリサーチ。たとえばチェコ国立フィルムアーカイブで発見("Yadanabon")、日本国立フィルムアーカイブで『日本の娘』が発見されている。『日本の娘』は日本でデジタル保存・修復され、2020年3月ミャンマーでの公開時にはウー・ニープの孫が泣いて感激していた。


・映画評論文化の台頭


観客の目が肥えたことで映画評論文化も台頭している。世界中から映画雑誌がなくなっているこの時代にミャンマーでは映画雑誌が創刊。『3-ACT』という雑誌が現在5巻まで刊行されている。ちなみに第5巻はミャンマー映画100周年号。

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クーデター後の現状
  • デモやCDMに参加した映画関係者は投獄されるか、地下に潜伏するか、少数民族地域や国外へ脱出している状況。
  • 映画館はコロナ以降ずっと閉館していたが、閉館しても観客が呼べない状況
  • 商業映画は細々ながら現在も制作が行われている
  • 自主制作映画作家たちはできることを模索中
  • ワッタン映画祭を含め、大規模な映画祭やワークショップはすべて休止状態。おそらくもう不可能だろう


これまでに逮捕された自主制作映画関係者
  • Maung Danさん。日本映画大学で映画を学んだ。日本育ち。
  • Ma Aeintさん。"Money Has Four Legs"(注2)のプロデューサー。
  • Pe Maung Sameさん。ロイコー(カヤー州の州都)で逮捕された。彼は地方の若者にワークショップをするのが楽しみで、ロイコーでのワークショップ中に逮捕された。なお彼のワークショップから数々の名作が生まれている。ミャンマーのエッセンスが詰まった"No Fear For Mistake"(2017)など。
注1 :
以下は高橋ゆりさんからのご指摘とのことです。「英領下におけるビルマ人の地位向上に尽くした政治家トゥンシェインが1920年6月2日に29歳の若さで亡くなり、6月5日に彼が所属していたYMBA(当時の民族運動を牽引した主要団体)が主催した葬儀を記録撮影したものが、同年ヤンゴンのシネマ・ド・パリ映画館でアメリカ映画と抱き合わせで上映されたとのことです。なお彼の葬列にはアウンサン将軍の葬儀に匹敵するほど多くの参列者があり、この記録映画を見るためにまた多くの観客が映画館に押しかけたそうです(私見では、ミャンマーの民族運動に映画が広報手段として使われた初めての例ではないかと思っております。)」
注2
記事執筆者(山本)がこの映画をはじめて観たとき、今までのミャンマー映画とあまりに違うことに驚いた。 従来のミャンマー映画では描かれてこなかった庶民のリアルな姿がそこにはあったからだ。以前その驚きを「次世代ミャンマー映画の筆頭―『Money Has Four Legs』」(『徘徊アカデミア』)という記事にまとめたことがある。
https://haikai-academia.com/2021/12/11/review-money-has-four-leg/

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Q&A
Q:ミャンマーでSTVが大量生産されていたのは興味深い。個人的にはこのころのB級映画に関心がある。若手の映像作家たちからはやや軽蔑されているとのことだったが、コメディ以外にも様々な映画を作っていた可能性があるかもしれない。35番街映画の監督と若手の映像作家の監督の関係をもう少し教えてください。

A:クーデター後、映画撮影が再び困難になりました。「35番街映画」の監督らが軍政時代で行ってきたノウハウ(撮影許可の取り方など)が、現在インディ作家らが映像製作するさいに役に立ち、利用しています。


Q:現在の諸外国の文化センターなどの活動の様子を教えてください。

A:クーデター後はどこも試行錯誤中で、難しい状況です。



最後に、今後ミャンマー映画がどうなるかはわからず、とにかく革命の成功を祈る以外にないとおっしゃっていました。この10年間、若者が映画に関連して様々な活動を始めて、これから未来が開けていくというときにこのような状況になってしまったことに、本当に胸を痛めておられました。そして、ミャンマー映画を今後も応援してくださいとおっしゃっていました。
(記事執筆:山本文子)
<無断転載ご遠慮ください>
アンドモア
○お話しで述べられたミャンマーの映画作品について、それぞれに関係するサイトは以下です(紹介された順)

"Love and Liquor"⇒
https://en.wikipedia.org/wiki/Love_and_Liquor

『日本の娘』⇒
https://eiga.com/news/20191016/8/

"Yadanabon"⇒
https://blog.filmmuseum.at/notes-from-forever-film...

『柔らかいステップ』⇒
http://2014.tiff-jp.net/ja/lineup/works.php?id=131

『時の繪』および、かわなかひろゆき氏について⇒
http://www.imageforumfestival.com/2017/archives/29...

当日紹介予定の"The Monk"など、2本の映画について、予告編の接続リンクと、清恵子さんからのコメント。
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"The Monk" (2014) 監督:The Maw Naing 脚本:Aung Min
https://www.youtube.com/watch?v=RgREUEyOeaY

FAMU(チェコ国立映画大学)の同僚が、ミャンマー自主制作映画ももうそろそろ長編映画を作ってもいいのではないかと判断し、同大学およびチェコ国営テレビから資金を調達してくれ実現できた映画です。監督のThe Maw NaingさんはFAMU留学組、脚本のAung Minさんも FAMU共催でプラハで開催された「Midpoint」という脚本ワークショッププログラムに参加されたことがあります(トリビアになりますが、この時のMidpointの講師の1人が脚本界の巨匠であるジャン=クロード・カリエールさんだったため、"The Monk"のエンドロールには脚本指導 としてカリエールさんの名前が挙げられています)。医者であり作家でもあるAung Minさんの脚本は大変人気があり、ミャンマー自主制作映画作家たちから同氏への脚本執筆の依頼が絶えません。最近は本人自ら監督となって映画を作ることも多いです。
"The Monk"は 一人の老僧と少年僧を中心にお寺の日常や現実を美化することなく描いており、世界各地の映画祭で上映され受賞もしていますが、ミャンマー国内では当時ちょうどマバタ【田村注;仏教民族主義者の団体。反イスラームの活動を主導】が勢力を振るっていたこともあり、第4回ワッタン映画祭で上映されたのみで劇場公開はされていません。

"The Night" (2017) 監督、脚本:Htoo Paing Zaw Oo
https://www.youtube.com/watch?v=NKySLXlvifM


第2回ワッタン映画祭で実験的、芸術的な作品に贈られるニューヴィジョン賞を受賞した Htoo Paing Zaw Ooは、これに勇気づけられ、その後音楽ビデオを中心に次々と作品を制作して実力をつけ商業映画界に進出、この作品でついに劇場公開デビューを果たしました。FAMU留学組でワッタン映画祭主催者のThaiddhiが撮影監督として協力するなど、ワッタンチームも大応援しました。若手のインフルエンサーたちに「公開まであと何日」と書いた札を掲げて自撮りしてもらいフェイスブックに投稿してもらったり、主演俳優たちが様々な大学に出かけてファンミーティングを行ったり、公開日にはレッドカーペットを催すなど、ミャンマーではそれまで行われたことのなかった宣伝キャンペーンを行って大成功し、スター中心のミャンマー商業映画界にあってスターなしで映画を大ヒットさせるという歴史をつくりました。Htoo Paing Zaw Oo はその後 "Stranger's House"という長編をスター俳優主演で製作しています(よろしければこちらの予告編もご覧ください )。ホラー映画のジャンルに入る映画ですので、ホラー映画好きのタイでも公開されました。
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"Yangon Calling"⇒
https://www.imdb.com/title/tt4571048/

"The Emerald Jungle"⇒
http://www.mowcapunesco.org/register/the-emerald-j...

『ノー・フィア・フォー・ミステイクス』⇒
https://www.i-house.or.jp/programs/alfplectureseri...

○Film Development Centre(FDC)については、以下のサイトをご覧ください。
https://www.facebook.com/Film-Development-Centre-F...

○Save Myanmar Filmについては、以下のサイトをご覧ください。
https://www.savemyanmarfilm.org/


○清恵子さんについて、以下のウェブ上の二つの記事を紹介します。
・TMOP(ティモップ)のCONVERSATION #4(清恵子)(20.08.13)
https://tmop.geidai.ac.jp/conversation/conversatio...

・アートスケープの以下の記事(20.4.15)です。
https://artscape.jp/focus/10161236_1635.html


○由緒ある建築物、ワジャー・シネマについて、以下の記事があります。
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20世紀前半、ミャンマーは東南アジア随一の映画産業の集積地だった。1920年に映画製作が開始されて以来、中心的役割を果たしたのがここ、ワジヤ・シネマ。旧エクセルシオール(The Excelsior)。現在は閉鎖中だが、年に数回、映画祭などのイベントで開館されている。建物は荘厳な造りで、息をのむほど美しい。館内に着席して舞台を見上げたときの感動は忘れられない。まるで、歴史の一ページの中に自分が座っているかのように感じるはずだ。建物を見るだけでも価値があるはずなので、近くを通りかかったら立ち止まって写真を撮ると良い思い出になるだろう。
https://tabinci.jp/travel-directory/waziya-cinema/
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・'Architectural Guide: Yangon'
https://www.yangongui.de/waziya-cinema/

・'Relics of Rangoon'
https://www.relicsofrangoon.com/portfolio/waziya-c...

・'Saving the historic Excelsior tops the bill in Yangon'"Nikkei Asia"(2017.2.3)
https://asia.nikkei.com/Life-Arts/Life/Saving-the-...
これからの「楽平家オンラインサロン」
11月9日は、20年以上にわたり、在日ミャンマー人への日本語ボランティアンなどを通して、ミャンマーと関わってこられた鈴木貴子さんが、主に在日ミャンマー人との関わり中で見聞きし感じた出来事を、その歩みに沿ってお話しされます。

ミャンマーが好きな日本人との出会いや、発行してきたミニコミ誌「みんがらネットワーク」及び、その後継のメルマガ「みんがらネットワーク通信」のことを語り、さらには、日緬交流の場を目指し、現在進行中の図書室「みんがら文庫」設立の計画についても紹介されます。

12月14日は昨年7月に続き高橋ゆりさんの再登壇です。高橋さんはミャンマー近代史とビルマ文学の研究の傍ら、30年間にわたってミャンマー古典音楽の歌手として活動を続けてきました。ヤンゴンで初めて古典音楽の学びを始めた1992年当時、どのようなトレーニングを受け、その後どのような展開があったのか。今まであまり語られたことのない体験を、この機会にお話しされます。
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