・黎明期(1900年~) ミャンマー映画の第一号が登場。Ohn Maungが政治家Thu Sheinの葬式を納めたドキュメンタリー映画(ニュース映画)を制作。1920年ロイヤルシネマで上映(
注1)。その後Ohn Maungは長編劇場用映画の第一号"Love and Liquor"(白黒、サイレント)を制作。1920年10月13日に上映されている。ちなみにこの日は「ミャンマー映画の日」とされている。植民地時代にはすでに複数の映画の撮影所があり、A1という撮影所がもっとも有名で日本で言えば東宝に当たる。A1所属のスタッフは「A1〇〇」という名前で活動していた。1935年には日緬合作映画『日本の娘』も製作されている。
・黄金時代(1950年~) この時期には年間100作以上の映画が製作・上映されており、A1スタジオを中心に黄金時代となった。ヤンゴンだけでも600の映画館があり、とくに大きな劇場であるエクセルシオール劇場(現ワジヤシネマ)を中心に、市内に映画館がたくさん立ち並んでおり、日比谷の映画街のような雰囲気だった。映画館ごとにハリウッドの映画会社と直結している館も多く、MGM専用映画館、20世紀FOX専用映画館などがあり、当時は大変な賑わいだった。この時期の代表作に1953年製作"Yadanabon"がある。
・映画制作激減(1962年~) 軍事政権下になり、劇場用映画の製作本数は下降を辿るが、1970年代の盛り返しは興味深い。1970年代にインドのネオリアリズム映画の影響を受け、一連のリアリズム映画が短期ながら台頭し、映画の質が再び高まった。リアリズム映画の代表作に"Tender are the Feet"(邦題『柔らかいステップ』)(1974年)がある。
・STV時代(1990年~) 他地域と異なり、ミャンマーには16mm映画は存在せず、35mm映画ののちに登場したのがビデオ映画だった。この時期にはSTV(Straight Video、「オリジナルビデオ」とも言う)という「映画館で上映することを想定せずに、はじめからビデオで販売することを想定した低予算映画」が多く製作された。ヤンゴン市街地の35番街アッパーブロックに多くの映画制作会社が立ち並び、彼らが制作するオリジナルビデオの量は、一時は数字上ではナイジェリアやインドに匹敵するほどだった。この時期に作られたオリジナルビデオの多くはB級映画かそれ以下のC級映画で、現在のミャンマー自主映画制作者たちからはやや軽蔑的なニュアンスを込めて「35番街映画」と呼ばれている。
この時期は映画館では毒にも薬にもならないアクション映画やボリウッド映画が上映される一方で、国内映画や国外映画の海賊版も氾濫した。レンタルビデオ屋ではビデオ形式の映画が簡単に入手できた。
ビデオの登場によって映像製作が容易になったことで、少数民族も自ら映画を作るようになった。彼らは独立メディアを通じて、自分たちの言語でニュースやドキュメンタリーを撮り、ビデオの形式で配布し、情報を拡散していった。
しかしオリジナルビデオ業界もコピーの横行で成り立たなくなり、現在はほぼ崩壊状態。ストリーミング配信が増えた現在は、ディズニー映画100本入り、ボリウッド映画100本入りのようなビデオが多く、また動画データをUSBスティックに入れてもらう商売が主流である。
・NLD政権時代(クーデターまで) この時期には劇場公開される映画の数や種類が一気に増えた。劇場公開される映画が増えたのは、海賊版の横行により、弱小製作会社も劇場映画上映を目指すようになったのが一因である。劇場公開される映画の種類が増えたのは、ワッタン映画祭など映画祭を通じて様々なジャンルの映画に触れる可能性が増えたことが挙げられる。
このような中、現状は製作される映画の数に比して映画館が不足しており、公開まで1、2年待たなければならない状態である。映画館不足の原因は、民政移管後、外資が一気に流入する中で土地不足が発生し、古い映画館が取り壊されて商業ビルやホテルへと建て替えられたからである。この映画館不足を解消すべく、現在では国内外の資本がミャンマー映画興行事業に参入しているが、クーデター後にこれらの事業の行方は不明である。そもそもクーデター後は映画館は開けたとしてもガラガラで、映画館の経営自体が困難な状況に陥っている。
NLD政権時代においては、政府は映画振興に積極的だった。映画関連法の制定準備も進めており、そのさい主流商業映画だけでなく自主製作映画関係者へもヒアリングを行っている。ワッタン映画祭(後述)も、カナダなど各国の映画法のリサーチをしてひな型を作成するなどして協力した。そのほか政府は映画教育の推進のためにヤンゴンにフィルム・デベロップメント・センター(FDC)を建設した。