第43回
『楽平家オンラインサロン』

ミャンマーリハビリ事情

2024年6月12日(水)
20:00〜

写真説明:事故で左首筋の腕神経叢を損傷した三十代の患者の上肢を訓練する
(左側のロンジー姿が梅﨑利通)
写真提供: 梅崎利通
撮影年月: 2016年9月
撮影場所: ヤンゴン総合病院リハビリ科入院病棟OT訓練室
<無断転載ご遠慮ください>

話の内容とプロフィール


《内容》


WHOの推計では、ミャンマーには人口の15%にあたる900万人以上の障害者がいると言われている。世界のリハビリテーション医療(以下、「リハビリ医療」と略す)は、現在、主としてPT(理学療法士)・OT(作業療法士)・ST(言語聴覚士)などの専門職種によって行われているが、ミャンマーでは専門職種としてPTしか大学で養成されていない。従って、病院でのリハビリ医療は医師とPTによってのみ営まれている。私はJICAのシニア・ボランティアとして、2016年5月から2年間にわたりヤンゴン総合病院の「物理療法とリハビリテーション科」(いわゆるリハビリ科)に赴任し、そこのPTにOT訓練の実際を教えつつ、勤務時間外は「真の」ボランティアとして訪問リハビリやモバイル・クリニックに積極的に参加し、多くの障害者に関わってきた。その経験を踏まえ、ミャンマーで行われているリハビリ医療の現実と、その問題点や課題を、日本人のOTの視点から報告する。あわせて、クーデター後のリハビリ医療の展望と可能性をヤンゴンの現状を通して模索する。


《プロフィール》


梅﨑利通

1950年、神奈川県生まれ。詩人、作業療法士(OT)。OT歴43年。

1973年8月、当時の南ベトナム・ビンズオン省の難民村(ビン・ホア村)で行われたワークキャンプに参加(東京YMCA主催)。難民村の子どもたちのために遊園地を造る。1975年1~3月、解放直前の南ベトナム各地の孤児院や難民村を訪れながら国内を旅し、特にホイアンの町で、尊敬すべき人々によって運営されている孤児院に巡り合い、しばらく滞在する。3月8日には陥落直前のバン・メ・トゥオトを飛行機にて脱出。同12月、解放直後のラオスのビエンチャンを訪れる。1977年4月、ハノイ経由で解放2周年を迎えた旧サイゴン市を再訪。

1981年から定年までの30年間、国立療養所箱根病院(小田原市)勤務。筋ジストロフィーや難病のリハビリ医療に関わる。2006年と2008年、さらに2010年から2016年までの7年間の、年末から次の年の正月にかけての1週間、ミャンマーの無医村で医療ボランティア活動(横浜YMCA主催)。2016年~2018年、JICAシニアボランティアとして、ヤンゴン総合病院リハビリ科で働く。クーデター後も、2023年1月、6月、10月、2024年3月、ヤンゴンを訪れ、ヤンゴン総合病院でボランティア活動をしながら、訪問リハビリに奮闘。

現在、神奈川県南足柄市在住。今もOTとして、就学前の子どもの通園施設で(元気に)働いている。自転車での訪問リハビリも週1回継続中。休耕田を借りて、無農薬でお米作り歴20年以上。機械を使わず、手で田植えをしている。

《主な著書一覧》

  • 1979年 『詩集 悲しみの蒼穹』(自費出版)
  • 2000年 『ベトナムの揺れる黄昏』(朱鳥社)
  • 2006年 『筋ジストロフィーを生きる』(朱鳥社)
  • 2010年 『詩集 梅雨滂沱』(朱鳥社)
  • 2015年 『詩集 ひとしずくの涙』(朱鳥社)
  • 2019年 『ヤンゴン・リハビリ日記』(東京図書出版)
  • 2023年 『ミャンマー、わが愛』(東京図書出版)
【楽平家オンラインサロン 第43回報告】

第43回「楽平家オンラインサロン」は,2024年6月12日に開催され、梅崎利通さんが、「ミャンマー―のリハビリ事情」について話されました。

梅崎さんは作業療法士であるばかりでなく詩人であり、詩集や小説等も出版されている。また、大変暖かいタッチの絵画も魅力的であり、初めに紹介された。

サロンの本題であるミャンマー リハビリ事情の概説は事前配布資料にまとめられているが、未所持の方もこの報告記事の読者と想定し、その一部とスライドも引用しながら報告としたい。

大前提としてのリハビリテーションについての説明は以上のスライドに加えてミャンマーにおける実際の写真を用いて行われた。

本題のリハビリ事情について、先ずその歴史を日本との比較において以下のように説明されている。

1. 黎明期

第二次大戦後、WHOの指導とコロンボプラン(UK)の援助のもと、日本とほぼ同じ時期にリハビリテーション医療(以下「リハビリ医療」と略す)の導入がなされたミャンマーは、その後の軍政による経済の停滞と混乱のためもあり、世界の趨勢からはるかに後れを取ってしまった。そして、わずかに理学療法士(PT =Physical(Physio) Therapist)の教育課程だけが制度化され、他の専門職である作業療法士(OT=Occupational Therapist)や言語聴覚士(ST=Speech Therapist)もない状態のまま、リハビリ医療が医師とPTによってのみ細々と営まれる、という歪な、あるいは包括的でないリハビリ医療体制が確立する。形態としては国立の病院でDepartment of Physical Medicine and Rehabilitation(物理療法とリハビリテーション科、以下「リハビリ科」)が開設されることになり、この体制が「現状で機能しうるリハビリ医療である」との制約を甘受しながら、物理療法を中心にして、多くの患者を治療し続けてきた。以下に日本とミャンマーの歴史的推移を簡単に比較する。

<ミャンマー>
  • 1958年 ヤンゴン総合病院「リハビリ科」開設
  • 1959年 国立リハビリテーション病院開院
  • 1960年 ヤンゴン総合病院内でPT養成(2年制、コロンボプランによる)
  • 1964年 ヤンゴン総合病院内でPT養成(3年制)→やがて4年制へ
  • 1973年 PTがイギリスのOT学科に2年間留学したが、途中で頓挫
  • 1982年 CBR開始
  • 1993年 PTの4年制大学教育化
<日本>
  • 1963年 国立療養所東京病院附属リハビリテーション学院開校しPT・OTの3年制養成開始
  • 1966年 第一回卒業生の国家試験。国家資格(Registered)のPT・OT誕生
  • 1992年 PT・OTの4年制大学教育化
  • 1997年 STの国家資格制度できる
  • 1999年 STの第一回国家試験実施し、国家資格のST誕生

これを見て分かる通り、日本とほぼ同じ時期にミャンマーに導入されたリハビリ医療の動きは、あっというまに日本に追い越され、日本が1964年の東京オリンピックを契機に飛躍的に質量ともに拡大したのに比して、ミャンマーは1962年・1988年の軍事クーデターもあって、むしろ停滞した。このミャンマー式リハビリ医療がアウン・サン・スー・チー政権直前まで継続された。

以上のようなリハビリテーションの歴史的背景に加え以下のように医療全般の体制や人材についても概説されている。

2. 医療従事者数

2021年のクーデター直前の有資格医療従事者の概数を比較すると以下の通りである。この時点でも医師も看護師も圧倒的に不足し、病院数、医療関係者ともに、国民のニードに応えられていない状況であった。この後、2021年のクーデターを契機に、医師・PT・看護師など、多くの医療関係者が国立病院から次々と退職してしまい、医療の状況はさらに悪化している。

 
日本
ミャンマー
医師
320,000
35,000
PT
120,000
2,000 (実働1000人程度)
OT
100,000
0
ST
36,000
0
看護師
1,200,000
46,000

以上、そもそもその体制・人材が不十分なところへコロナ禍とさらにクーデターによる社会・経済の混乱と停滞、政治的弾圧によりリハビリ関係だけでなく医療全般が大きなダメージを受けており、民衆の苦難は拡大し続けている。

梅崎さんはリハビリ事情について、主にクーデター前の状況を氏が活動していたヤンゴン総合病院だけでなく、参加したモバイルクリニック等の経験を含め、施設の状況やリハビリ実施の様子等、画像を通して紹介された。医療や障害者の状況については以下のスライドを紹介されておりクーデター前から厳しいことがわかる。

梅崎さんのミャンマーでボランティア活動の原点である横浜YMCAによる「ミャンマーボランティアの旅」についても多くの写真等で紹介されたが、その概要については以下のように紹介されている。

4. 横浜YMCAによるモバイル・クリニック

ミャンマーのCBR(Community Based Rehabilitation)に遅れること10年、日本によるCBRと言うべきモバイル・クリニックが日本とミャンマーの医療人を中心にしてピンマナ・イエジン地区で開始された。以後、首都移転・大規模デモ・日本人ジャーナリスト銃殺事件・サイクロンナルギスなどの突発的な出来事を除き、ほぼ毎年実施された。特に、2010年から7年間継続されたPatheinでのモバイル・クリニックは、深く地域に根差したボランティアとして特記されるべき活動であったといえるだろう。コロナ禍とクーデターの影響で、この活動もやむなく2019年で中断された。

  • 1992年 第1回「ミャンマー・ボランティアの旅」実施
  • 1993年 第2回「ミャンマー・ボランティアの旅」実施  ~2004年 第13回マンダレー管区・ピンマナ町イエジン村
  • 2006年・2008年 第14、15回 エーヤワディー管区・マウビン
  • 2010年 第16回 ~ 2016年 第22回 エーヤワディー管区・パテイン 」
  • 2019年 第23回「ミャンマー・ボランティアの旅」 バゴー管区・タウングー

*なお、その活動内容は『横浜YMCAミャンマー・ボランティアの旅・報告書』を参照

*モバイル・クリニックでのOTによる本格的なリハビリ医療が開始されたのは2006年の第14回マウビンからである。


以上のように概説されており、その一端は以下のようにスライドでも示された。

その後、2016年~18年のヤンゴン総合病院(略称YGH、ミャンマー最大の総合病院)でのJICAボランティアとしての活動に加えて梅崎さんは個別のボランティア活動にも従事しており以下のようにその日常を紹介された。画像も多数だがここでは割愛する。

このように連日のリハビリ・ボランティア活動をされている中で、その多くの時間を共に働いたミャンマーのPT(理学療法士)達との間には様々な葛藤も有ったが、異文化の中での活動で感じられたこと、苦労されたことなど、心の在り方の変遷について以上のようにまとめられている。ミャンマーのPT達の仕事の仕方等には日本人から見ると不十分な所も指摘されているが、当然ミャンマーでも人間や環境・条件等の違いは有り、梅崎さんの経験したことのみで理解するべきではない。我々は、この貴重な報告を契機としてより多面的な情報・知識を得るよう努力し今後の交流・支援等に繋げるべきと思われる。

さらに、ミャンマーではPT主体のボランティアによるモバイルクリニックがはじまっており、梅崎さんはそれにも参加されている。概況は以下の通り。

5. アウン・サン・スー・チー政権下でのモバイル・クリニック

民主政権誕生と軌を一にして、ヤンゴン整形外科病院YOH(Yangon Orthopedic Hospital)の有志を中心として、2016年頃から、乾季の期間、頻繁にヤンゴン郊外ばかりでなく、遠くエーヤワディー管区、ザがイン管区、モン州など遠方にバス1台を仕立てて、医師・PT・薬剤師・看護師など医療職のほか、一般の事務職有志など、多くの若者(仏教徒を中心に)が自分たちでお金を出し合って、2泊3日、近場は日帰りでモバイル・クリニックを実施し、それはコロナが広まる直前の2019年まで継続されていた。  YMCAのモバイル・クリニックがカレン族のクリスチャンの村を中心に組まれたのに対して、YOHのモバイル・クリニックは仏教徒の僧院を中心に行われた。国民の90%は仏教徒であり、YOHの有志も多くは仏教徒であったから、そのつながりやネットワークで、地方の依頼やニーズを検討し、毎回その需要に応えて実施された。

勿論、NRHでもYGHでも医師を中心にして、この種の企画はあったものの、それらはいわば「官製」の、予算が伴う「行事」であり、年間1回あるかないか程度であった。その点ではYOHのモバイル・クリニックは特異、かつ重要なエポックとして、ミャンマーのリハビリ医療の歴史に名を留めるだろう。なおPTに関しては、YOHだけでなく他の国立や民間のPTも毎回多数参加した。

実際の事例についても多数紹介(写真等)され、その経験からOT(作業療法士)の視点について以下のように指摘された。

梅崎さんは2018年、帰国後も折を見てヤンゴンを訪問し、ボランティア活動を続けられていたが、コロナ禍とクーデターで止む無く中断。しかし、困難な状況の中、2023年からヤンゴン訪問を再開されている。

コロナ下ではミャンマーのPTも医療職の役割として自らのリスクにめげずその対応の第一線に従事しており、専門としてのリハビリ活動は制約されていたが、コロナが鎮静化し始めた2021年2月、ミャンマー国軍が不法なクーデターを起こし、リハビリ界、PT達もさらなる大きな困難に巻き込まれることとなった。

国軍への抵抗手段としてのCDM(非暴力不服従運動)はクーデターの3日後には国立病院から始まっており、相当数の医療職員が出勤を停止、その意思を示したのである。その後、軍からの締め付け、弾圧は厳しく、CDM参加者は退職を強制されたばかりか一部は拘束され、拷問・殺害された医師らも存在する。さらに、ボランティアや民間医療機関で医療活動を継続するとその施設にまで攻撃を加えたりしている。CDM参加者とみなされた者はパスポートを無効化され国外へは出られず、半ば監視下で自由な医療活動は制約されている。ミャンマーの医療全般を国軍は破壊していると言えるだろう。


梅崎さんはクーデター後も2023年より自主的に渡航を再開、様々な活動を行っている。その活動については事前配布資料には無いが以下のように紹介されている。写真も多数紹介されたが、現状を 考慮しここへの掲載は控えることとしたい。

最後に、2006年からのミャンマーでの様々なボランティア活動等の経験からミャンマーのリハビリの課題等について以下のようにまとめ、整理された。

6. ミャンマーのリハビリ医療の課題

①リハビリ医療が専門職種として医師とPTだけで営まれており、包括的リハビリとは言い難い。

②日本では(おそらく世界の趨勢でもあるが)運動療法がPTの中心かつ主流であるが、ミャンマーのPT治療は物理療法が中心で、それに偏っている。

③PTは入院患者の家族に訓練の仕方を指導し、後は家族が中心になり患者のリハビリを専らこなしている場合が多い。

④リハビリ病棟・病室での患者の食事・入浴・トイレ・着替え等はすべて付き添いの家族が行っていて、家族任せであり、看護師もPTも関与していない。

⑤リハビリ病棟に入院し、歩行や移動が可能なレベルになると、それがゴールとなり、退院することが一般的である。ヤンゴン在住の患者の場合、担当PTは退院前に家庭訪問し家庭環境や段差・トイレ・風呂場などのチェックはしないし、退院後のフォローもない。但し、退院に際して、患者が下肢装具や杖・車椅子等が必要になる場合は、業者に連絡し整えることは「比較的」しっかりと仕事として遂行されている(しかし、これらのリハビリ用品は決して安価ではない)。

⑥それ故、退院即リハビリの終了を意味し、あとはヤンゴンとマンダレーの大都市の場合、裕福な家庭はPTによる有料訪問リハビリを受けることも可能であるが、経済的余裕のない家庭は全くリハビリの恩恵にあずかることは不可能となる。特に地方の田舎は交通手段が確保されにくく、また貧しい人々が多いため、住まいで寝たきりになる障害者が潜在的に少なくない。都市部でも古い集合住宅ではエレベーター等がなく、2階以上では外出困難となり寝たきりになるリスクも大きい。

⑦家庭に帰っても、マンパワーがあるので、患者を過介護・過介助にしてしまい、患者は身の回り動作が自立しにくいし、家族に依存的になってしまうのがミャンマーの大きな問題である。

⑧医師・PTの給料は極めて低く、例えば2016年当時、医師が月給240ドル、PTが200ドル    (1ドルが1000チャット、110円程度の時代)であり、退勤後、医師(PTも)は民間のクリニックで働いたり、PTは訪問リハビリを行ったりして家計を補うことが一般的である。

7. まとめ

①日本とほぼ同時期に開始されたミャンマーのリハビリ医療は軍の支配による低迷と混乱の影響で、医師とPTのみによる体制のまま、最近まで細々と維持されていた。

②民主化の改革開放の希望の中、OTやSTや臨床工学技師の教育が実現しそうな計画と機運も、 コロナとクーデターの影響ですべて水泡に帰し、頓挫してしまった。

③クーデター後も国の病院に踏みとどまっている少数の医師とPTだけによるリハビリ医療が何とか継続されてはいるが、医療自体が停滞と混迷を極めており、展望が見出しにくい状況である。


以上、多くの写真を用いてその精力的なボランティア活動を紹介されたが、1973年のベトナムから始まった梅崎氏のボランティアは場所を変え、ミャンマーで今も続いている。

お話しの後いくつかの質疑応答があったが、要旨のみ正確に記すことは困難なため記事として報告することは控えるが、サロン参加者の皆様は「事後の情報共有メール」をご参照ください。

田村克己さんの感想のみ転載させていただく。

「梅崎利通さんがいかにミャンマーと全力で向き合って来られたか、ミャンマーに深い思いを抱いていられるかの伝わる、とても充実したお話しでした。ミャンマーの「人たちと付き合う上での心得」、ミャンマーを「ありのまま受け入れる」お心は、本当に素晴らしいと思いました。」

 (記事執筆:大塚進)
<無断転載ご遠慮ください>

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