西垣充
大手経営コンサルタント会社から、1996年4月に日系企業ヤンゴン事務所に転職。98年J-SATを創業。以来一貫してヤンゴンにて活動。
2009年から行っている視覚障害者支援活動で、2012年、12月9日の「国際人権デー」に、ミャンマー政府より表彰を受ける(下記参照)
https://j-sat.jp/nishigaki/2012/1208235410386.html
2018年アウンサンスーチー国家顧問来日の際は民間企業代表として総理公邸に招待されるなど、ミャンマーのために日々活動している。
視覚障害者マッサージがミャンマーにて、いかにして誕生し、普及していったか。実は1995年に遡ります。
街中にある普通のマッサージ店にメニューとして「Blind Massage」と存在する店もあるほど、視覚障害者マッサージが一般化している国は世界でも珍しいと言われています。いかに市民に広がっていったか。そしてコロナ禍による店舗閉鎖命令、政変と厳しい国情が続く中、現在はどうなっているのか。
知られざるミャンマーの視覚障害者マッサージ事情を紐解きます。
写真は、「ゲンキー」で知り合い結婚した初期のメンバー。「ゲンキー」で稼いだお金でバゴーに土地を買い、夫婦でバゴーにて開業した際の写真(中央は、西垣充)。
2024年5月8日の「楽平家オンラインサロン」は、西垣充さんによる視覚障害者マッサージ「GENKY」誕生秘話でした。
西垣さんは、学生時代にミャンマーを訪問した際、ミャンマーの人々の生活レベルがタイやベトナムと比べて低すぎ不公平を感じたことから、ミャンマーの人々ためにミャンマーを変えたいと1996年にミャンマーの旅行会社に転職され、1998年にミャンマーで起業、独立されました。1996年~1998年と言えば、アウンサン・スー・チー氏が軟禁から解放されるとの期待から、全日空は関西空港からヤンゴンまで直行便を就航させ、一気に金融・商社・建設関係の日本企業が進出した時期です。しかし、アジア通貨危機の影響もあり98年頃から徐々に日本企業が引き上げていった背景があります。軍事政権が長らく続き、経済が低迷している最貧国の一つであるミャンマーでの独立ゆえ大変な苦労をされ、また、2011年からのミャンマー民主化の波の中の希望、そして現在とミャンマーの国状に翻弄されながらも、ミャンマーのために何ができるのかと問い続け、今に至っておられます。今回は、そのような中でミャンマーの方々と手掛けられたビジネスの一つ「視覚障害者マッサージGENKY」について語られました。
司会進行は、ミャンマーと中国雲南省の仏教の人類学的な研究をされ、昨年の2月に楽平家サロンでも発表された津田塾大学の小島敬裕さんがされました。現在はタイのチェンマイでタイ仏教について研究されています。
西垣さんとは、東南アジア研究所在籍の際、最北端の町プタオのドキュメンタリー映像を取る際にお世話になったとのことです。
当時はまだアメリカの制裁下にあるものの、クリントン元国務長官が電撃的に訪緬され、ミャンマー状勢が大きく変わろうとしていた時期で、このニュースが放送された頃はミャンマーが変わる潮目の時期という、象徴的な放映となりました。
2009年当時、視覚障害者マッサージはおろか、視覚障害者について、ほとんどミャンマーでは認知されていませんでした。複数人から、「視覚障害者にマッサージをしてもらったら自分も目がみえなくならないか? 伝染するのではないか?」といった質問が出るほどでした。
ところが、実際にマッサージを受けた人が、視覚障害者の方々と会話を重ねるうち、「視覚障害者は目が見える人と特に変わらないんですね」との発言が聞こえてきたことからGENKYの本当の目的は、
1. 視覚障害者は普通の人と変わらないと分かってもらえる場を提供すること
2. 視覚障害者の方々が社会の一員となり社会で活躍できる機会を作ること
だと考え、ミャンマー社会に広めていくべきと実感されたとのことです。
ここに、西垣さんの物事の進め方の考えが表れています。実際にマッサージを提供する人、提供される人の反応をみながら柔軟に対応し、そこから本当に目指すべき姿をみつけ前に進められました。今も現場の声を非常に大切にされておられます。実際とずれていると感じたらすぐにミャンマーの方々の声を聞き取り方向修正されます。それがミャンマーで成功されている秘訣かもしれません。
日本式伝統治療院GENKYと名称されたのですが、これは当時の社会事情に理由がありました。当時、ミャンマーでは、“マッサージ=若い女性と話をする場所”が社会通念だったそうです。つまり、少しいかがわしい場所というイメージで、きちんとしたマッサージ店はほとんど無かったとのことです。そこで、中国の方だったらマッサージのことを知っているだろうということで、中華街からスタートされ、中国の方が分かるように日本式伝統治療院と、あえて漢字を併記されました。ここで秘話の一つですが、“あんま”は、ミャンマー語で“お姉さん”という発音によく似ており風俗と間違われるのを避け、GENKYにされたそうです。
西垣さんがミャンマーで最初に開業されたのは広告代理店だったそうで、その時の経験が生きたとのことです。その経験とは、当時ミャンマーは情報統制が厳しく、国民の皆さんが情報を得る手段の一つが検閲を受けた週刊・月刊情報誌が中心だったそうです。また漫画もよく読まれていたことから、有名な漫画家に直接依頼してイラストを作成していただき、広告宣伝に使ったことがよくあったようです。このように、現地に密着した生活を送られていたからこそ分かる西垣さん独自の方法を取られていました。今でも、日本人とミャンマー人の習慣や考え方は違うと、必ずミャンマーの方々からの意見を尊重されています。
西垣さんは、仕事を含め物事が上手く回るか回らないか、その進み方(流れ)を見れば分かると言われます。
このGENKY誕生そして成功についても、西垣さんのそれまでの経験や人脈が上手く結びつき、全てがいい方向にいったとのお話でした。発表の中でも「たまたまこれがこう結びついて」というお話をされていましたが、それは、西垣さん自身が、人との出会いや良い悪い関係なく得た経験を大切にされている結果だろうと感じます。
GENKYは、“2008年のサイクロン「ナルギス」で10万人以上が亡くなった大災害の番組リサーチ”から始まり、“2004年に行ったインパール作戦の番組リサーチ”、“実際にマッサージを受けた盲学校の場所や支援状況”、“ミャンマー渡航前に在籍していた日本企業の先輩が整骨院の経営指導チームのリーダーをされていた”など、それまでの経験や人が見事に繋がり誕生したとのことでした。
西垣さんは、技術支援の目的について語られました。技術支援を受ける側として、技術を得たいから得るのではなく、最終目標として、技術を得て稼ぎたい(生活基盤を作りたい)から得たいのではないか。ただ、社会支援・貢献においてお金を稼ぐという手段・目的は、日本社会では未だにNG的な考え方があるようだ。しかし、援助や寄付に頼ると一般社会に普及しない。なるべく援助や寄付に頼らなくても回る仕組みを作ることが大切と考えておられました。そして、それが実現できるのは視覚障害者マッサージであり、これを通してミャンマーの社会を変える一つにしたいと思われたそうです。
その方針として、「障害者を支援するために来てください」といった言葉は一切使用しなかったとのことです。実際の言葉として、「ライバルはマッサージのお姉ちゃん。それに勝つには技術しかない」と視覚障害者の方々にも言い続け、普及実現を目指されたそうです。
また、“マッサージ=若い女性と話をする場所”のイメージを、“GENKYのマッサージ=日本製=高品質”と定着させるため敢えて高価格で勝負。当時若い女性のマッサージが1時間=約3000チャットだったところを1時間=5000~6000チャットに設定して中華街からスタートさせたそうです。2009年4月スタートしたところ、連日予約で埋まるほどの繁盛店となり、5月には、日本企業のイメージにもなる日系のオフィスビルであるサクラタワーに二号店を開設するなど好調なスタートを切られました。同時に得意とする地元メディアを使い、視覚障害者マッサージ自体の認知も功を奏し、視覚障害者マッサージの市場が広がっていったそうです。また、マッサージ治療院としてミャンマーで初めて国からの営業許可がおりたのがGENKYだったそうです。
日本で勤務していた大手コンサルティング会社である、船井総合研究所の先輩から
・初日に行列ができる店舗でないとダメ
・リピート率が80%超えないとダメ
とのアドバイスがあり、
・開店チラシを持ってきたら1000チャットと割引券を配布(結果、大行列になり、口コミで広まる)
・リピート率をあげるためにスタンプカードを作成し賞品提供
・会員証を作って会員情報や商圏を把握し、さらにスタンプカードが埋まれば永久VIP会員価格を提供
・(当時は日本のボールペンが喜ばれたので)会員になったらGENKYの名入り日本から持ち込んだ3色ボールペンを提供
・風量が強くミャンマーの方からの人気が高い「日本のうちわ」を日本でオリジナル印刷し配布
等、日本ではよく見られるもミャンマーでは行われていない販売促進方法を次から次へと実行されたそうです。ここでもミャンマーの方々の心をつかむ細やかなマーケット戦略を実施されました。
今でも西垣さんが手がける全てのビジネスの基本となっているのが、日本人がなるべく関与しないミャンマーの方々だけ回す仕組みづくりです。徹底されたのは、援助がなくても全国に普及する仕組みづくり。視覚障害者マッサージ師育成のため、さらに盲学校に行かずに大人になってしまった人のために、短期視覚障害者マッサージコースも始められました。まずはGENKYが指導者と資金(売上から)を提供。指導者はGENKYのシニアスタッフが教え、社会福祉省が場所と食事を用意する。追加出資も投資も無しで、視覚障害者の方々だけで回す仕組みに尽力されました。西垣さんが出されたお金は初期発生した300万円のみとのことで、特にこの事業をグループ企業における収益の柱にすることは考えておらず、その後は追加の投資は無く、自分達で資金繰りしているだけでなく、視覚障害者マッサージ自身がオーナーになるなど、視覚障害者マッサージは全国に普及され、さらにNGOが視覚障害者マッサージ師育成クラスなど行う団体もいくつか誕生し、西垣さんが目指した目標はある程度達成でき、この事業での役割は終わったと感じられています。
何か視覚障害者の方々の楽しみは無いかと考え、ブラインドサッカーを導入されました。設立当初から何かとアドバイスを頂いた筑波技術大学がブラインドサッカーが強いと聞き、代表の川村選手と福永選手にミャンマーに来ていただいたそうです。反響がよくて広まりかけたところで残念ながらコロナで中止となったそうですが、また機会ができれば再開を考えておられます。
現在、視覚障害者マッサージの店舗数が100以上とミャンマー全国に普及。また、約70名いる視覚障害者マッサージ師メンバーの内三分の二が結婚されているとのことです。ミャンマー政府も、視覚障害者同士で結婚し子供ができたら、その子供が親の面倒を見てくれるということで、結婚を推奨しているそうです。
コロナ禍になり、厳しいコロナ感染症対策の中、一般市民も厳しい生活を強いられる中でも視覚障害者のメンバーから助けて欲しいという声があがってこなかったそうです。コロナ禍で、マッサージオンライン講座や小説を書く、マッシュルームを栽培するGENKYファームを作る、自分で日本語を習いながらそれを他の視覚障害者に教えるなど前向きに頑張っている姿に、逆に刺激を受けて我々も頑張ることができたと言っておられました。
現在は、顧客からGENKYの再開依頼も多く、西垣さんが治療用ベットなどをサポートしつつ、視覚障害者自身がオーナーとなり、お店を開業しているメンバーが7名、自宅で開業しているのが4名とGENKYを継続してくれているとのことです。
ミャンマーでは、前世で何か悪いことをしたから視覚障害者になったと考える風習があり、特に先天性視覚障害者らは子供の頃から外に出さない、家の中で隠す場合が多いそうです。西垣さんは、そこから支援が必要と考えておられます。また、ミャンマーは後天性視覚障害者が多いそうです。今後は、後天性の視覚障害者が生まれにくい社会を作っていきたいと考えておられます。後天性の視覚障害者が多い理由は医療水準の低さ、医療への知識の不足など。視覚障害者自体を減らす社会を作るには、“医療技術の向上”、“誰でもすぐに駆け込める相談所”が不可欠で、社会福祉省と協力して進めていきたいとのことです。それがこれからの自分の生きがいと考えておられ、それができたら嬉しい(楽しい)と思いながら死んでいきたいとおっしゃっていました。
司会の小島敬裕さんからの感想
非常に感銘と刺激を受けました。寄付にあえて頼らないという主体的な活動が普及に繋がる。可哀そうな障害者支援ではなく技術で勝負する。その支援の在り方について学ぶことができ共感しました。将来的には後天性の障害者が生まれにくい社会を作っていきたい。あえて可哀そうな人を助けたいではなく、自分がやりたいことをやるんだという気持ち、また、彼らが自立してやっていくシステムを目指し、それが達成できているというのが特徴で、その思いが成功の秘訣だったのではないかとのことでした。
小島さんからの質問
仏教の視点から、前世で悪いことをしたから結果、目が見えなくなったという解釈はよく聞かれるが、トランスジェンダーの研究をしていた時に、悪いことを前世でしたからこうなったという考えがある一方対抗する語りもあったが、視覚障害者も対抗する語りはあったか。回りの人たちの認識は違ってきているのか。
西垣さんからの回答
「私たちの問題だから可哀そうと思って欲しくない」との言葉はよく聞く。家族は別として、視覚障害者本人らは、自分が人と違うとはあまり感じておられず、だから世間がどうという考えはあまりないのではないか。自分で稼げるようになったら自分が家族を支えているんだという思いはある。直接聞いたことは無いが、周りが思っているほど自分達は違うと感じていないように思う。
視覚障害者に接した人たちは、普通だと認識が変わってきて、可哀そうだからではなく、頑張っているから応援している状況。
西垣さんの追加説明
GENKYは素人だからできたと考えている。専門の方が店舗を見に来られると、「彼らの取り分はいくらですか?」、「何%払っているのですか」とよく聞かれる。例えば売り上げの50%が人件費だと店が回るはずがない。そういった視点からも質問が一般の経営とずれた質問になっている。障害者支援の素人だから、普通の店として経営を考え、常識的な経費構成などが自立へと繋がったと思っている。
また、「盲学校訪問の際の1回の違和感で20年間走って来られたモチベーションは何か?」の質問に、
西垣さんからの回答
なぜミャンマーを選んだかとよく聞かれるが、理由は説明できない。行こうと思って行ける国ではないし、いようと思っていられる国でもない。その中でなんとなくいろんな力が作用して逆らわないでいるからではないか。
新妻東一さんからの質問
他の事業はどうされていますか
西垣さんの回答
政変後の状況から30年後のミャンマーを見据えて、その時にミャンマーの国を支える人材育成を行っている。具体的には、しっかり目標を持っている若者を、その目標を受け止めてくれる人手不足の日本企業をつないで、エンジニアや技能実習生として送る人材育成事業を集中して行っている。
荒井真希子さんからの質問
2011年の民主化の夢のような時代がある中で、経済的なもの以外で、多様な人を受入れるというポジティブな変化があったかどうか、それが現在も引き継がれているかどうか
西垣さんの回答
変化はあった。視覚障害者を取り巻く環境で言えば、晴眼者のマッサージよりもブラインドマッサージが選ばれるというマーケットができあがった。それは引き継がれている。
今は残念ながら政治は厳しい状況にあるが、2011年の民政移管後、政府も変わってきていて、政府が障害者全般の事業者を表彰する機会もあり、私も外国人として初めて突然呼ばれ表彰してきたことには驚かされた。今は残念な状況ではあるが、視覚障害者マッサージ店はいまも来客が絶えていない。
(記事執筆:櫟本伸子)
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