第40回
『楽平家オンラインサロン』

表具と保存修復

2023年12月20日(水)
20:00〜

長谷川等伯「猿猴図」修理前
(画面共有資料ファイルより)
《無断転載ご遠慮ください》

話の内容とプロフィール


《内容》


掛け軸、襖、屏風、巻物など、紙や絹に描かれた日本の伝統的絵画とは構造上密接な関係があるのが表装技術です。それは、絵画を鑑賞可能な状態に仕立てることであり、保管や保全に優れた形態に仕立てるのです。絵画が主役であり、主役を引き立て支え、先祖がやってきた事をが後の時代に残すのが、表具師の役目です。

ところで、豊臣秀吉に重用された、長谷川等伯という天才絵師がいます。彼の「猿侯図」、「松竹図」が、とある個人宅から見つかり、京都造形大学(現校名、京都芸術大学)が購入しました。2015年4月20日には、明治学院大学の山下裕二教授の鑑定を受けて長谷川等伯によるものと発表されました。そして、長谷川等伯の生誕の地である石川県七尾市の「石川県七尾美術館」と共に一年間かけて修復が行われました。今回お話しされる物部泰典さんは、この修復プロジェクトに表具師として関わったのです。

この作品について、400年経っても墨の色が艶っぽく劣化が少ないのは高級墨を使っていた、墨を知り尽くしている、また、発色、定着にしっかり考えた技が光っていると京都芸術大学では分析しています。画家の素材に対する技術、知識はもちろん、400年受け継がれて来たものを、さらに400年いやそれ以上の未来に残していくためには、裏方である卓越した表具師の技が必要と考えられます。

「伝統工芸士」と認定されている物部さんは、京都で明治34年に開業し、4代にわたる「物部画仙堂」の表具師として、「京表具」の伝統技術を継承してきています。


以上は、当日のサロンで、司会進行を担当する栗原佳美からの紹介です。
なお、長谷川等伯については、以下の、2023年12月27日放映のテレビ番組「天下人が愛した美 ~北川景子が迫る名宝の秘密〜」で紹介されます。
https://www.bs4.jp/kyoto-tenkabito/


《プロフィール》


物部泰典(ものべやすのり)

「京表具」伝統工芸士
京都造形芸術大学講師
有限会社 物部画仙堂 (代表取締役)
(協)京都表装協会 会員

京都で明治34年に開業し、4代に渡り表具師として伝統技術を継承。2007年度 [京表具」伝統工芸士に認定される。
ひとこと:自分が表具師になれたのは曾祖父・祖父・父と受け継いでくれた為と感謝しております。又この仕事を通じ敬愛する日本国の伝統文化継承発展の為尽くしたいと考えております。

2018年「伝統的工芸品産業功労者等経済産業大臣表彰」奨励賞受賞。
2019年2015年には長谷川等伯の新発見となる屏風の修理新調を手がける。 
様々な大学で教鞭を執り、京表具の見知から後進育成に当たる。

【楽平家オンラインサロン 第40回報告】

2023年12月20日の「楽平家オンラインサロン」は、物部泰典さんによる『「長谷川等伯」図を修復する』 の話だった。

今回は、アジアの話題から日本文化を守り、継承する具体的で興味が広がる場となった。安土桃山時代に活躍した絵師長谷川等伯(1539-1610)の屏風画を修復する話である。表具師物部泰典さんが等伯の魅力、表具の歴史、修復作業の中身を語った。歴史的遺産を未来に伝える重要な表具師の物語は、疲弊した現代社会や戦争の世界を忘れ、心がゆたかになったひと時だった。

安部龍太郎の小説『等伯』(上下、日本経済新聞社、2013年))に幼い鶴松を失った秀吉が供養のため建てた京都・祥雲禅寺(現在の京都東山区智積院周辺)の方丈、客間などの襖絵や屏風を等伯にまかせたとある。そして、そのひとつに「猿猴図」があり、「果実がたわわに実った木の上で肩車をして遊ぶ母子と、枝にぶら下がって二人のもとに戻ってくる父親を描く」という一文がある。秀吉からは「さるのえみごと。はやくかかにみせたくそろ。ほうびにとらす。たいこう」としている(前出『等伯』下)。

今回、修復の対象として紹介された「猿猴図」は祥雲禅寺のものかどうかは不明だ。しかし、約400年以上の時間を超えて等伯が描いた屏風「猿猴図」の一部がぼろぼろだが発見された(2013年)。今回の講演者である物部泰典さんが教えている京都造形芸術大学(現京都芸術大学)に同図の所有者が「等伯が描いたものらしきものを手放したい(売りたい)」との相談があった。同大学の先生や外部の鑑定の専門家たちによって「等伯作に違いない」との結論を出した。真贋の決め手は一気に描く筆の運び方と一般には手の届かない高級・良質な墨を使っていた点だ。そこで同大学が中心となって所有者などと協議した結果、同図と同時に発見された等伯作の「松林図」を修復する費用、保存先などにめどがついた。表具師である物部泰典さんがこの2つの屏風を100年、200年後に伝えるために汚れやカビを除いてきれいな屏風に仕立てた。

修復した屏風は等伯の出身地、石川県七尾美術館(石川県七尾市)に所蔵されている。これらの屏風の所有者は海外のオークションにかけようとしたが、物部さんたちの尽力によって、等伯の生地に落ち着くことになった。2024年1月1日の能登半島地震の影響で心配されたが、「等伯の作品に被害はなかった」(七尾美術館2024年1月25日時点)。

仏教とともにやってきた表具「和紙の張り合わせ技術」

こうした屏風などを修復する表具師とは何か。物部さんによると表具は仏像、香などの仏教美術として奈良時代にやってきた。表具は和紙にのりを塗り貼り合わせて完成したもの。表具師は巻物、掛け軸、屏風、襖などを制作する仕事だ。表具とともに仏教がもたらしたのは文房四宝と呼ばれる墨、硯、紙、筆である。

文房四宝によって人間は知識(文字)を残し、子孫に伝えることができた。しかし、木簡に墨と筆で記録しても、持ち運びに不便だ。巻物にすれば情報の価値が容易に大量に伝えやすくなる。正倉院の記録には、「このお坊さんが今月はどのくらい写経をしたか、そしてそれを巻物としてどのくらい作ったか、を示し、そのお坊さんの給料が書かれている」という。表具の研究者が少ないのではっきりしないが、この時代、現在でいう表具師がいたわけではないが、巻物をつくる専門の人がいたのだろう、と物部さんは推察している。

掛け軸は「拝む」から鑑賞するものへ

巻物から発展したのが掛け軸だ。掛け軸は掛けて拝むもの、掛けて拝するものであり、信仰の対象だった。そこには阿弥陀如来などの仏様が描かれていた。東京国立博物館に所蔵されている掛け軸、国宝「孔雀明王像」(12世紀平安時代)も120年から130年ごとに仕立て直して今日でも見ることができるのは表具技術のおかげだ、という。

また、物部さんは「表具師は建物の変遷とともにある仕事」と位置付ける。建築の変遷は表具に二つの流れをつくった。掛け軸や巻物など巻いて片付くものの流れと屏風や襖などの備え付けるものの流れだ。共通するのは「和紙を張り合わせる技術」である。

平安時代になると寝殿造りが主流になるが、床の間はない。当初は板戸だったが、間仕切りとして軽い障子が生まれ、襖になる。それに伴い、表具は信仰の対象から鑑賞としてその活用範囲が広がってきた。

建築史家は著書でこう述べている。「観賞用絵画についてはいえば、平安時代の絵は障子絵と絵巻であった。障子絵は、壁、ふすま、屏風、衝立(ついたて)などに描かれた絵の総称であるが、いわば建物に付属したものであり、鑑賞のための特別の施設を必要としない。(中略)軸(掛け軸)はどこかに懸けて鑑賞しなければならない。初めは天井の回縁(まわりぶち)、長押(なげし)あるいは屏風などにかけていた。寝殿造では壁がほとんどないから、懸けるとところに困る」(『日本の建築』太田博太郎著、ちくま学芸文庫 2013)。

鎌倉時代に禅宗が伝わり、室町時代に「公案(こうあん)」という師が悟りを導くために弟子に与える課題(問答)を題材にした掛け軸が出現する。京都・妙心寺退蔵院にある掛け軸「瓢鮎図(ひょうねんず)」(原本は京都国立博物館)だ。画僧如拙が描いたもの。禅宗には水墨画は欠かせない。

「ひょうたんでなまずが捕らえられるか」という問答を、なまずとそれを取ろうとする農夫がひょうたんを持っている絵が描かれ、その絵の上部には31人の禅僧の回答が列挙されている。矛盾する問いに四苦八苦する禅僧の答えが面白い。掛け軸に水墨画が登場し、鑑賞としての掛け軸が登場する。

室町時代の書院造りによって床の間が誕生する。いわば、掛け軸を掛ける空間ができた。

これはお茶が盛んになると同時に起こった。千利休の茶道を解説した『南方録』(千利休の高弟南方宗啓著)に「掛け物ほど大切なものはなし」とお茶において掛け軸の大切さを強調している。掛け軸は信仰から鑑賞を経て、茶道と一体化する。

今回の修復は長谷川等伯の作品である「猿猴図」と「松竹図」。「猿猴図」は大徳寺にある南宋の絵師牧谿作の「観音猿鶴図」から刺激を受け等伯が好んで描いたものといわれる。等伯の「猿猴図」は京都の相国寺や南禅寺金地院など4カ所にある。

薄墨のすごさ

「猿猴図」は南禅寺金地院にある猿猴図と同じ構図、という。シロアリが発生し(屏風の中の)骨組みまで食われ、多くのカビも発生するなど「残念な状態で出てきた」。同図の左にはなんとか顔が残っているが父親の猿が右手を伸ばし、損傷して絵はないが池に浮かぶ月を取ろうとしている。右側の猿は母親が子供の猿を頭に乗せている図だろう、としている。

「松竹図」は「比較的に損害が少なかった」。竹の幹や樹皮の描き方は南禅寺の金地院のものと似ている。物部さんは右の屏風に注目している。薄い墨で竹が描かれている。水を多く含む薄い墨は滲みやすいが、描かれた竹には滲みがでていない。それだけ高級な墨を使える人は限られ、等伯作の根拠としている。「水墨画に興味ある人がこの図をみるとよくこんなふうに描けるのかびっくりするだろう」として、「この『松竹図』のほうが芸術的には高い」という。

両図とも6曲一隻とみられるが、それぞれ2枚の絵しかなく、それぞれ4枚の絵はどこにあるかは不明だ。

本紙を大量の紙で修復する

修復作業の眼目は「絵が描かれている作品(本紙)のカビによる損傷部分のカビを取り除き、全体の汚れなどを取ってきれいにする。虫害による欠損や破れたところは補修する」。屏風を新たに作り直すことも修復作業の大事な仕事だ。「ただ、消えてしまった絵の部分は加筆しない」のが基本方針。未来の人々に、絵師が描いたのか、のちに別の人物が描いたのか混同させないためだ。

具体的な修復工程を見てみよう。修復の第一歩は屏風の解体。まず四隅の金具を外す。新たな屏風に使うため取って置く。屏風は11層の和紙が重なってできている。その表面に絵師が描いた作品(本紙)を貼る構造となっている。

まずは修復すべき絵が描いてある本紙(作品)をはがす作業に入る。作品をはがすことによって汚れなどを除去する作業をしやすくする。

はがすためには表打ちといって作品の上に和紙を置く。この和紙にふのりを塗って本紙部分を固める。今回、本紙部分に穴が多いので本紙の表面を固めてからめくっていく。

はがされた本紙をクリーニングする工程に入る。「クリーニングといってもじゃぶじゃぶ洗濯するわけではない」と物部さん。水を湿らした和紙を使って汚れを取る吸水式洗浄である。まずは作品の裏からクリーニングする。何枚も何枚もきれいな和紙を使って汚れを吸い取っていく。ぼろぼろに破れたところはパズルのように破れた大きさと形に合わせた和紙(補紙)をピンセットで埋めていく。この作業だけで2カ月かかるという根気がいる仕事だ。「猿猴図」の表紙は5枚の紙が継ぎ合わせてあるので、その継ぎ目を埋めて補修する必要もあった。最後は裏打ちといって表紙を補強するために和紙を糊付けする。この糊は小麦粉澱粉を鍋で20分ほどかき混ぜて、こして使う。裏打ちのあとは乾燥させ、次は補採の作業だ。補採は補紙で損傷した穴を埋め合わせた部分を全体のバランスを考え色塗りをすること。「オリジナルな部分は手を加えない」と物部さん。

力の分散が屏風のいのち

屏風そのものも制作する。屏風は木の構造を組み立て、和紙を張り合わせていく。蓑掛けという手法で和紙を木組みに階段状に貼っていく。日本は湿気が多いので紙が膨張したり縮んだりするので、和紙は動くようにし力を分散するという繊細な工夫がある。そして、修復した表紙を屏風に張り付けて完成だ。

物部さんは、猿猴図の修復前と修復後の写真を示し、「これは人災だ」と厳しく指摘した(写真68/70、写真70/70)。

猿猴図の損傷部分はひどかったが、それ以外は大丈夫な状態という診断で、「経年劣化ではなく、150年蔵に入れっぱなしの結果だ。人間がきちんと保存の考えを持つことだ」と保存の重要性を強調した。

(記事執筆:太田民夫)
<無断転載ご遠慮ください>

アンドモア

物部泰典さんに聞く(聞き手 栗原佳美さん)

Q 初めて「猿猴図」と「松竹図」を見てなぜ本物と分かったのですか。

A 一気に描く筆づかいと良質な墨を使っているところです。


Q 作品を見て何かパワーを感じて判断したのですか。

A (作品の真贋判断は)よい作品を数多く見ること、見比べる力です。


Q 長谷川等伯は偉大な画家といわれていますが。

A 自分の表現を桃山時代に描いたのは等伯だけでしょう。


Q 心象風景を描けた。

A 「松林図」が代表作で生まれた七尾の海岸の松を描いています。


Q 等伯は天才。

A 仏画を模写して職人として修業した努力の人です。狩野永徳のエリートとは違います。

(文責:太田民夫)

長谷川等伯の生まれ故郷の石川県七尾市の七尾市美術館には、長谷川等伯の作品が多く収蔵されています。

七尾市美術館のホームページ ➡ https://nanao-art-museum.jp/

同美術館所蔵の等伯(信春)の作品の紹介 ➡ https://nanao-art-museum.jp/hasegawatohaku

上記サイトには、「猿猴図屏風」「松竹図屏風」について、次のように、紹介されています。


猿猴図屏風

  • 作者:長谷川等伯(1539〜1610)
  • 制作年代:桃山時代員数:2曲1隻
  • 技法1:日本画
  • 技法2:紙本墨画
  • 法量(cm):縦160.0 横240.0
  • 指定:石川県指定有形文化財

本図は平成27年4月に新発見作品として全国ニュースとなった作品で、発見当初は損傷が激しかったが、修復されてよみがえった。旧所蔵者である京都造形芸術大学のご厚意で、同年七尾市が購入し、同年秋に特別公開した。

本図は「松竹図屏風」と共に伝わっているが、現段階では別の作品として紹介している。右扇の右端下部から大きな樹木の幹が二手に分かれ、その内1本は画面中央を横切って左扇へ伸び、そこに猿が1匹座っている。樹木の根元周辺には岩と笹が配されている。その猿は、「枯木猿猴図」(京都市・龍泉庵)右幅の母猿と、全く同じポーズである。「枯木猿猴図」では母猿の肩の上に子猿が描かれており、本図をよく見ると母猿の右側に子猿の小さな手が確認され、よく似た子猿が描かれていたことが想像される。次に左扇に移ると、「枯木猿猴図」の左幅に描かれる枯木にぶら下がる父猿らしき猿と、そっくりな猿が描かれている。

また、右扇の母子猿は足の向きは逆であるが、「竹林猿猴図屏風」(京都市・相国寺)の母子猿とも近似し、父猿は「猿猴捉月図襖」(京都市・金地院)の猿ともほぼ同じポーズである。興味深いのは猿の毛の筆法である。本図では縮れたような描き方が特徴的で、相国寺本や龍泉庵本の筆法とは明らかに異なる。

しかし、相国寺本と龍泉庵本でもかなり描き方に違いがあり、意図的に描き分けたものと解釈される。調査にあたった黒田泰三氏も述べられているように、足の立体感は的確に描写され、顔の濃墨の入れ方、淡墨の上から鋭くかつ丁寧に描き込んだ毛、笹の勢いあるタッチや右端中頃の濃墨の樹葉なども、等伯の表現といってよい。制作年代については、研究者の中でも若干見解が分かれる。50歳代初めとなると、相国寺本と近いが、筆法からして相国寺本より前ではないであろう。

一方龍泉庵本は、線自体に重きを置いている感があり、「濃墨を多用した豪快な筆さばき」という60歳代の特徴であり、本図より後の制作と考えられる。また、本図の細く鋭い毛描きは金地院本に最も近く、両者は近い時期に描かれた可能性がある。現在のところは、50歳代後半頃の筆としておきたい。

なお、画面の構図や、右扇と左扇の各中心には縦の褪色が見られることから、本図は6曲屏風の4扇分で、本来は左右にもう1扇分ずつあったと解される。左側には捉月図が交わって、金地院本のように水面に映る月が描かれていた可能性もある。


松竹図屏風

    作者:長谷川等伯(1539〜1610) 制作年代:桃山時代員数:2曲1隻 技法1:日本画 技法2:紙本墨画 法量(cm):縦160.0 横240.0 指定:石川県指定有形文化財

本図は「猿猴図屏風」と共に修復され、平成27年に「等伯の真筆水墨画新発見」として発表された作品である。「猿猴図屏風」と同じく七尾市が購入し、同年特別公開した。

本図は画面左扇の左端から右上方に向って大きな松樹が覗き、右扇の右端まで緩やかなカーブを描いて枝を伸ばす。下部には土坡が描かれ、左扇松の後方から孟宗竹が茂り右扇へと続いていく。濃墨を効かせながら淡墨と巧みに描き分け、遠近感を表す。右扇に行く程淡墨で消えゆくように描かれた部分を、北春千代氏は「靄のかかったような叙情感を誘う表現が意図されている」と述べられた。

老松の樹皮は、「老松図襖」(京都市・金地院)の樹皮の表現と酷似し、「烏鷺図屏風」(DIC川村記念美術館)の、左隻松樹の樹皮表現へと繋がっていく。さらに、竹の節と節との間の稈に、横に濃い墨を2筆入れる独特の表現や、墨の濃淡によって風になびく葉叢を巧みに表現した部分は、「竹鶴図屏風」「竹虎図屏風」(何れも出光美術館)と酷似する。「竹鶴図屏風」のメリハリの利いた墨の濃淡表現や、一気に引いた迷いのない幹の線などは、「松林図屏風」に最も近いと評価されるが、本図は墨の艶といい調子といい筆法といい、その「竹鶴図屏風」と極めて近く、注目に値する。

本図の制作年については、「猿猴図屏風」と若干ずれるとの見方もあるが、墨色や筆の勢いなどを見る中では、「猿猴図屏風」と近い、50歳代後半頃の制作ではないかと解される。

なお、「猿猴図屏風」と同じく各扇中央に縦の変色が見られ、本図も6曲屏風の4扇分で、本来は左右にもう1扇ずつあったと考えられる。現状でも迫力があるが、制作当初はさらに広がりが感じられる秀作であったと思われる。


同美術館は、令和4年度春季特別展「長谷川等伯展 ~水墨・濃淡の妙 VS 着色・彩りの美~」、令和5年度春季特別展「長谷川等伯展 ~水墨の美技と、一門の俊英と~」と、毎年シリーズで「長谷川等伯展」を開催しています。

ただし、2024年4月〜2025年3月については、「地震の影響のため当面の間、休館することから、展覧会を中止させていただきます。ご迷惑をおかけしますが、ご理解賜りますようお願い申し上げます。」とのことです。

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