第4回『楽平家オンラインサロン』
ミャンマー山岳地帯に住むナガと呼ばれる少数民族
2020年11月11日(水)
20:00〜
ナガの子供たちと
(撮影者・後藤修身 撮影日2006年2月23日、ザガイン管区ナガ丘陵レーシー村)
<無断転載ご遠慮ください>
ミャンマー山岳地帯に住むナガと呼ばれる少数民族
1. ミャンマーは135の民族が住む多民族国家とよく言われる。その実態と、ナガと呼ばれる民族の位置づけをまず説明。

2. ナガの人々はミャンマーのどこに住むどんな人々かを地図と写真を交え、
① 外貌
② 言語
③ インド側にもナガが居住すること
④ 山岳地帯に住み周辺から孤立することから古い文化(例えば敵の首を取る)を残し、言語も多種類に分かれたこと

3. ナガとの出会い
① ビルマ留学時代に2度出会ったこと
② 2003年1月ナガ新年祭に参加。
③ 2003年秋と2006年3月の2度にわたり個人旅行を申請してナガ丘陵を訪ねたこと

4. 訪ねてわかったナガの人々の暮らし
① ナガ丘陵南北での風習の違い
② 衣食住はどんな様子か
③ 彼らの信仰 伝統の精霊崇拝、キリスト教、南方上座仏教等との関係
④ 生きるために必須の武勇
⑤ 伝統の通信方法
⑥ 自給自足のためか手工芸も巧み
➆ インパール戦線のルー上上に住む彼らと日本軍とのかかわり
⑧ 周辺民族との関係
⑨ 教育:子沢山、村の貧富の差で教育を受ける機会に格差も。ビルマ語の理解度とその教育は?
⑩ ナガの人との個人的エピソード二つを紹介。

土橋泰子
【楽平家オンラインサロン 第4回報告】
ミャンマー研究の先駆者が語る山の民、ナガの文化
~ 知られざる日本との関わりも明らかに ~
「ミャンマー山岳地帯に住むナガと呼ばれる少数民族」と題する楽平家オンラインサロンが11月11日、開催された。これは、ザガイン管区の北部、インドとの国境に広がる山岳地帯に住むナガの人々について、その文化や暮らし、ミャンマー社会における位置づけを学ぼうと企画されたもの。当日は、50年以上にわたりミャンマーに関わり続けてきたミャンマー研究の先駆者であり第一人者の土橋泰子さんが、写真をふんだんに紹介しながらナガの人々の生活について講演し、日本各地およびミャンマーから90人以上が接続した。チャット機能を活用した質疑応答も活発に行われ、関心の高さが示された。
講演する土橋泰子さん
「多民族国家」の実態
土橋さんは、大阪外国語大学でビルマ語を専攻し、在学中の1957~58年にビルマ政府の特別招聘留学生としてラングーン大学(現ヤンゴン大学)文学部に留学した経験を持つ。大阪外大を卒業した後は、外務省アジア局での勤務を皮切りに、NHK国際放送ビルマ語放送の日本語講師や東京外国語大学ビルマ語非常勤講師、外務省研修所ビルマ語講師、拓殖大学ビルマ語講座講師などを歴任し、両国の架け橋として活躍する傍ら、『ビルマ万華鏡』(2009年、連合出版)や『ミャンマー こんなとき何て言う?』(2013年、連合出版)など、多くの著書や訳書も手がけてきた。
土橋さんの著書
講演の冒頭で、「ミャンマーは135民族を擁する多民族国家だと言われていますが、本当にそうでしょうか」と問題提起した土橋さん。一般的には135民族と言われ、ナガもその一つに数えられているが、ナガ民族という単一の集団がいるのではなく、タンクン・ナガ、マグリ・ナガ、パラ・ナガなど、60以上もの部族から成り、それぞれ独自の言語と文化を有していると話した。
ユニークな文化を持つナガの人々 講演資料より
そんな同氏とナガとの出会いは、1957年11月に遡る。ラングーン大学で留学生活を送っていた土橋さんは、学生寮で開かれたイベントに招かれ、初めてナガの男性の踊りを鑑賞した。
1958年の「ミャンマー連邦の日」の写真 講演資料より
さらに、翌1958年2月の「ミャンマー連邦の日」には、ヤンゴンに招かれていた少数民族たちの宿舎を訪ね、ナガの代表と交流する機会にも恵まれた。
1958年の「ミャンマー連邦の日」の写真 左端が土橋さん 講演資料より
念願かなって現地へ
日本人によく似た風貌を持つナガの人々に興味を持つようになった土橋さんが、念願かなってインド国境沿いに広がるナガ丘陵を訪ねることができたのは、2003年1月の新年祭の時だった。たまたま手に取った週刊誌のグラビアページでナガの人々の暮らしが特集されているのを見て撮影者に問い合わせ、現地に行けることを知ったという。
講演資料より
新年祭はナガの人々にとって大切に受け継がれてきた行事だが、近年は政府が各部族を一カ所に集めて大々的に開催するようになった。50年越しの思いがかない、ようやくこの地にやって来た土橋さんは、それぞれの居住地から何日もかけて集まってきた参加者たちが、歌を歌ったり、踊りを披露したり、政府から表彰を受けたりしながら、3日間かけて新年を祝う姿を見ながら感無量だったという。本来は腰にわずかな布をまとっただけの姿で生活している男たちが、外国人観光客の目を意識してか、Tシャツとショートパンツを着用し、ソックスやスニーカーも履いた上で、トレードマークの弓矢や水牛の皮でつくった盾、イノシシや虎の牙、クマの毛皮で身を飾っている姿が印象的だった。
新年祭に参加するナガの人々 講演資料より
その後、新年祭以外の時期でも、許可が下りれば個人で訪問できること知った土橋さんは、2003年秋と2006年3月にもナガ丘陵を訪れた。
新年祭に参加するナガの人々 講演資料より
このうち、2006年3月の訪問時は、チンドゥイン河を舟でさかのぼり、タマンティという船着場からトラックでレーシーへ移動し、ソムラまで歩くというハードな旅程だったという。直前に膝を痛めて歩行もままならなくなったため、一時は訪問を諦めかけたものの、手配してくれた旅行会社のはからいでプラスチック製の椅子を太い竹に固定して即席の輿をつくり、ナガの青年4人に担いでもらって決行した。この時に同行した人物こそ、かつて土橋さんが衝撃を受けた週刊誌のグラビアを撮影した写真家の後藤修身さんだった。
にわかごしらえの輿で訪問を決行 講演資料より(後藤修身さん撮影)
北と南で異なる風習
現地を訪れるたび、土橋さんはナガのユニークな文化にどんどん心惹かれていった。 まず、ナガ丘陵の北と南で風習がかなり異なっていることに驚いた。ラヘーより北の地域では、喬木をくりぬいて作られた巨大な丸太太鼓が文化のシンボルだ。ほとんどの村には会議や催事などで使われるパンと呼ばれる建物(若者宿)があり、この太鼓が設置されている。数メートルから10数メートルまで、その大きさはさまざまだ。
丸太太鼓の大きさは数メートルから10数メートルまでさまざまだ 講演資料より
一方、タンクン・ナガの人々が多く暮らす南の地域は、巨石文化圏である。これらの巨石は墓石のようにも見えるが、富裕者が村人たちに水牛などを殺して振舞う祭りのために、村人が山から引いて設置するのだという。
南部でよく見かける巨石 講演資料より
続いて土橋さんは、タンクン・ナガの人々を例に、衣食住について説明した。
食料は、基本的に自給自足だ。主食は、陸稲が栽培できる一部地域を除けば、ヒエやメイズ、サトイモが主流で、納豆や穀物酒(カウンイェー)を作っている家もある。
人々が良く食べるサトイモや納豆 講演資料より
男たちは、普段は上半身裸でふんどしを着け、裸足で狩猟したり野良仕事をしたりして過ごすが、夜の冷え込みが厳しいため、女性たちが羊毛で織る毛布を防寒に羽織ることもあるという。特徴的な赤い毛布は、隙間なくきっちり編まれた竹籠と同様、ナガの手工芸として知られている。
伝統的な籠 講演資料より
住居については、屋根は茅葺きで、柱や壁は木や竹で組まれているが、隙間が多いため、中央には必ず囲炉裏が作られている。富裕層の家屋の場合は、狩猟で仕留めた水牛の角が外壁に飾られている。
信仰と武勇、日本とのつながり
次に、土橋さんは人々の信仰について紹介した。この地では、古くから伝わる精霊信仰に加え、後から入ってきたキリスト教や仏教を信仰している人も多い。キリスト教は1954年、インドで修行したナガの牧師がこの地に帰って来たのを機に布教が始まり、ソムラ村に教会が建てられた。1990年代には仏教も広まり、今では各村に仏教僧院も建立されているという。

後藤修身さんがソムラ村の教会で録音した讃美歌が流されると、参加者はナガの少女たちの美しい歌声にしばし聞き入った。
講演資料より(後藤修身さん撮影)
多くの宗教が共存する穏やかさの一方で、ナガは勇猛果敢な人々としても知られる。多くの戦いを繰り返してきた彼らは、防衛上の理由から山の中腹から山頂にかけて村を築き、敵が襲来した時は、前出の丸太太鼓や独特の雄たけびによって連絡を取り合っていたという。
通信手段に使われていた丸太太鼓 講演資料より
そんな彼らは、かつて首狩りの風習があったことから「首狩り族」との異名もある。しかし、土橋さんは「自分はあえてそう呼びたくない」と指摘。その上で、「敵の首を取ると聞くと野蛮なイメージを持つ人もいるが、ナガの人々はドクロをお清めの儀式で清めた後、神として村長の家などに祀っている」「村を守ってほしいと祈ったり、悩みと向き合ったりする聖なる対象として扱っている」などと説明した。さらに、「日本でも、戦国時代には敵将の首を取る習慣があった」と述べた。
日本兵を案内したと話す男性 講演資料より(後藤修身さん撮影)
そんなナガの人々には、日本との意外なつながりがある。第二次世界大戦末期に日本軍が攻略しようとしたインド北東部の都市、インパールへのルート上にあるという地政学上の理由により、インパール作戦に駆り出された多くの日本兵たちが、ここナガ丘陵を通過したためだ。当時、多くの人々が日本兵に遭遇したようで、土橋さん自身、日本兵に道案内を頼まれたことを覚えている老人に出会ったほか、「大切に保存していた種もみを略奪されて困ったと親から聞いた」と話す村人にも出会ったという。また、日本兵が残した飯盒が見よう見まねで複製され、使い続けている様子も見た。
日本兵の飯盒を真似た調理器具 講演資料より(後藤修身さん撮影)
最後に土橋さんは、タンクン・ナガ出身の男性で、農業の傍ら、新年祭などではバンドを率いて熱唱するお祭り男のジョロ-について紹介。彼の「サラメティ・チットゥー」(サラメティの恋人)という歌に乗せてナガへの思いを締めくくった。
お祭り男のジョロ-と 講演資料より(後藤修身さん撮影)
全体を振り返り、参加者からは「ミャンマー社会の中で、ナガの人々への偏見はあるか」「人々は政治や海外情勢にどの程度関心を持っているか」「ナガに興味を持つようになった理由は」といった質問が寄せられ、土橋さんは「ナガの人は荒っぽいというイメージはあるものの、実際に会ったことがある人は少なく、差別までは起きていないのではないか」「自分が訪ねた2000年代初頭は自分の部落のことしか関心がなかったようだが、今はスマホも普及し、フェイスブックでニュースも見ていると思う」「日本人に似た顔立ちや、八百万の神に似た精霊信仰などに親近感を抱き、DNAが呼ばれている気がした」などと答えていた。
(記事執筆:玉懸 光枝)
〔「講演資料より」の写真のうち、特に注記のない場合は、土橋泰子さん撮影]
<無断転載ご遠慮ください>
アンドモア
土橋泰子さんの著書『ビルマ万華鏡』(2009年、連合出版)の 第7章「ナガ丘陵への旅」は、今回話された内容やそれ以上のお話が書かれています。
『ビルマ万華鏡』目次
第1章 私とビルマ
第2章 ビルマのこころ
第3章 ビルマの歳時記
第4章 ビルマ世界を覗く窓
第5章 ビルマの少数民族
第6章 最大の都市、ヤンゴン(旧称ラングーン)
第7章 ナガ丘陵への旅
第8章 忘れ得ぬ人々
ナガのシンガーソングライター、ジョローーさんの「サラメティの恋人」は以下のようです。
これについては、以下のサイトをご覧ください。
https://www.ayeyarwady.com/naga/cd2006.html


土橋さんは、ナガ民族は「伝説や民話が大変興味深い」とおっしゃ っています。彼らに伝わる「虎人間(タマンチャー)」については 、ミャンマーの人類学者ウー・ チョーウイン(U Kyaw Win)もナウオー・ナガの調査で記録しており、隣り合うチン民 族でも語られているとのことです。
ガブリエル・ベルトラン(Bertrand, Gabrielle.)女史著『女性支配の未知の国』(安藤昌一 訳 1958年、大日本雄弁会講談社)にも、インドのアッサムのガロ 族には、虎人間に2種あること、即ち①マチャマルーという悪魔と ②マチャドゥという虎にも人間にもなれるものなどとかなり詳しく 書いてあるそうです。

また「ナミユピ村というコキ・ナガの村で聞いた『セミにはらわた が無い訳』は、地理的に遠く離れたカチン族の民話にほぼ同じもの があります」と指摘されています。土橋さんは、ナガ民族の伝説・民話をかなり翻訳されたのですが、 予定の出版社の事業撤退で、とても残念なことに原稿は眠ったまま です。

ちなみに、日本の小説家中島敦の短編「山月記」は、 中国の説話を素材にした、虎に変身する話です。『李陵・山月記』 (2003年、新潮文庫)参照。
~
次回、12月9日(水)の第5回は、井上岳彦さんの「バルト海に生まれビルマに死す:僧侶カール・テニッソン(1883- 1962)の生涯」です。
1月は、新年特別プログラムとして、米国カリフォルニア在住のミャンマー人僧侶による、瞑想のお話と実践です。
(特別プログラムのため、日時未定)
ご期待ください!
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