今回は、コンバウン朝ビルマ(ミャンマー)の歴史を通常語られる政治史や経済史の観点からよりは、特に初代アラウンパヤー王,第六代バドン王、および第10代ミンドン王の事績を紹介しながら「上座仏教国家」の盛衰という視点に立ってお話ししたいと思います。
すなわち、ビルマが古くバガン統一王朝の開祖アノーヤタ―王が下ビルマのモン族経由で受容したスリランカ系上座仏教(パーリ三蔵聖典を戴く、出家者の介在する仏教)を政治的統合の基軸として構築した「上座仏教国家」という国家構造は、その後の第二次ビルマ王朝としてのタウングー朝(前期・後期、15-18世紀)によって引き継がれましたが、1740年に下ビルマのハンターーワディ―・バゴー(ペグ―)に拠点を置くモン族が反乱を起こし王都インワ(=アヴァ)への侵攻を開始〈1740年〉しタウングー朝が最後の王マハーダンマ―ヤーザーディバディー王がハンターワッディ―のモン王国に連行され〈1751年〉て実質的に崩壊した頃、モウッソーボー(=後のシュエボー)で挙兵したビルマ族のウー・アウン・ゼーヤ(後のアラウンパヤー王)がモン族を撃退しバゴーを陥落〈1755年〉させたのち、シュエボーを王都として整備し〈1757年〉第三次ビルマ王朝としてのコンバウン朝を開きました。
アラウンパヤー王によって再興された「上座仏教国家」としてのコンバウン朝は、第六代バドン(通称ボード―バヤー)王治世に過去のいずれの王も攻略できなかったアラカンを征服〈1785年〉し、さらにアホム王国の要請に応じアッサム及びマニプールを制圧〈1817年〉し、かつてない最大版図の領域を支配下に置く一方、国内的には種々の改革、調査や制度化を断行しその最盛期を迎えました。
しかし、第七代バヂ(ー)ドー王以降の歴代王のもとで、英国との三度にわたる戦争でいずれも敗北し段階的に領土を奪われ、それに伴い「上座仏教国家」としてのコンバウン朝が衰運に向かい、英明なミンドン王の下ビルマ復権の試みにもかかわらず、やがて全土が英国の支配下に置かれ植民地化されるとい130年余の歴史を辿ってみようと思います。
奥平龍二
1940年、兵庫県生まれ。大阪外国語大学インド語学科(ヒンディー語専攻)卒業後、外務省に入り、在ビルマ日本国大使館に配属され、ヤンゴン文理科大学(現ヤンゴン大学)ビルマ語・文学科に在籍(1966.1-1968.8)しながら、同史学科のビルマ古代史と近代史の授業を聴講したのが私のビルマとの関わりの始まりでした。その後は、外務省勤務(本省、在ビルマ及び在連合王国各大使館)を経て、1981年東京外国語大学インドシナ語学科(ビルマ語専攻)に赴任、助教授、教授を経て定年退職(2002年)、同5月名誉教授を拝命し現在に至っています。この間、1998-99年の1年間、ロンドン大学東洋アフリカ研究学院(SOAS)に研究留学。また、2015-16年には、ヤンゴン大学内に設置された東京外国語大学グローバル・ジャパン・オフィス(GJO)でコーディネーターとして開設事業に携わり、日本語や日本文化を紹介しながら、先生方や学生達と交流を深めることができました。
因みに、私の専門分野は、ミャンマー史(特に、前近代史)・法制史・上座仏教国家論です。
なお、これまでに執筆の主だった著作は、以下の通りです。