2023年6月14日の「楽平家オンラインサロン」の報告は、樫永真佐夫さんによる「ベトナム、ラオスにおける民族の歴史記憶とつながり」です。
樫永さんは長年ベトナムの西北部で黒タイの人々とそのくらしに濃密に関わってきました。今回は2019年の西北地方への旅の話のなかから、特にディエンビエンフーでの歴史記憶、モニュメント化される歴史記憶とモニュメント化されない歴史記憶についてお話されました。
樫永さんのお話に引き込まれ、コロナ禍をきっかけに描き始めたというイラストマップとイラストのすごさに魅了され、あっという間の1時間半でした。
今回は樫永さんが新妻東一さんに司会をお願いし開始されました。新妻さんはハノイからの参加です。最近では、テレビ番組『世界の車窓から「ベトナム南北縦断1800キロの旅」』(2023年4月17日〜8月7日、テレビ朝日)をコーディネイトされています。
樫永さんは、2019.4左右社から『殴り合いの文化史』を出版しました。この本は、ボクシングを人類史的に扱った書き下しの本です。
次に出版する本は、書き下しに懲りて、まずnoteに「はじまりとつながりのベトナム・ラオス」として2022.3~2022.12まで連載して本にすることにしましたが、結局のところかなりの書き直しが必要とのことでした。この秋以降にようやく出版されます。
連載にあたっての2つの仕掛けを考えたそうです。それは、イラストマップと食に関するコラムを入れることです。
樫永さんは、先ずは、イラストマップについて、次のように話されました。
コロナ渦のあいだも、特に大阪、奈良、兵庫、京都をウロウロしていました。もちろん、コロナが始まっていきなり出歩き始めたわけではありません。血筋的に放浪癖があるのか、昔からウロウロして、それでいつのまにかベトナムの奥地まで行ってしまったのです。
これまで長い間、行ったところや食べたもの、さまざまな事を色々とノートに書いてきましたが、2020年初めごろから概念図をイラストマップに描き始めます。
その理由が手抜きをしたいと思って、と話されていたので驚きます。手抜きで描けるレベルではありません。しかも、絵は独学なのだそうです。今では、イラストマップは100枚以上たまっているそうです。
PPTで紹介されたのは「奈良・吉野山」のイラストマップです。最初に描き始めたころより進化しているとのことです。
確かにより細かくなっています。変化の過程は noteで確認できます。ちなみに、イラストマップは、B5サイズの紙に直接、描くのだそうです。よくみると、修正ペンが使われているところを見つけることができました。
イラストマップを描きながら、そこでの考え、知識、経験を、空間を表現する二次元の紙の上に1つずつ書き加えていきます。そして樫永さんが気づいたことは、時間というものはないということです。
あくまで人間は時間を空間のアナロジーとして認識しています。前だったり、後ろだったり、時間に長さがあったり。そのようにおっしゃって、樫永さんは、空間であるイラストマップに、時間を書き入れていくことによって、空間のなかの序列や順番をいれて、秩序だてをしていくのだといいます。
イラストマップを描きながら、経験というのは、自分のなかでの時間と空間がつなぎ合わされてできている、ということに気づいたといいます。
ここで樫永さんは、高橋秀実著『おやじはニーチェ 認知症の父と過ごした 436日』(新潮社、2023年)の紹介をします。この本は、認知症のお父さんの介護の経験を書いていますが、介護のお父さんとのつながりを通じて、人間の存在について、個人とは何か、ということにつながっていくところが面白いといいます。
認知症というのは、その人のなかで、時間と空間の認知がバラバラになります。そうなると頭のなかを経験が素通りしてしまい、経験の積み重ねがないと自分の生きる実感がなくなり、自分というものが失われます。
経験には時間と空間の結びつきが非常に大きいことを、この本を通じて改めて感じたという樫永さんは、自分がイラストマップを描きながら2次元の1枚の紙のなかで、時間と空間の結びつけていたことに気がついたといいます。
そして、ふと思ったのがレヴィ=ストロースの構造主義についてだそうです。イラストマップに記された「こと」や「もの」は、自分が色々と書き入れて空間と時間に結びつけていきますが、逆に、その結びつけを全部なくして、「もの」や「こと」を全て時間や空間から切り離して、全て並列にして、序列もなくし、順番もなくし、バラバラにして、組み替えてみたりすると、完全に個というものが失われ、人間の普遍的なものがあらわれてくる、それをやったのがレヴィ=ストロースだったのかとひらめいたのです。
樫永さんは、旅行でたどった行程をイラストマップに描いたので、食のコラムにもイラストをいれてみようと思いました。
その1回目は犬肉でした。ベトナム人も黒タイ人も好きな犬肉の話です。 PPTでは2枚のイラストを紹介されましたが、1枚はハノイの郊外にあった犬肉料理屋。写真を撮っていなかったので樫永さんが自分のイメージで描いたものです。もう1枚は、市場で売られている犬肉のイラスト、こちらは写真からイラストを描いたものです。
犬の丸焼きのイラスト、拡大までして見入ってしまいました。犬の丸焼きがかわいいなんて、そんなイラストってすごいです。本物の犬肉の丸焼きはハノイの市場で何度か見たことがあります。もちろんかわいくはなく、怖い気持ちがありました。立ち止まってじっくり見たことはありません。でもイラストになると見られるんですね。樫永さんの描くイラストだからだと思います。
「奈良・吉野山」のイラストマップと犬食のイラストは、「アンドモア」に掲載されていますので、そちらからご覧ください。
今回の話は、2019年11月みんぱく友の会主催の「第94回民族学研修の旅」の引率で行った11日間の旅行の話です。
ハノイからイエンバイをとおり、ディエンビエンフーをとおりルアンナムターまでいく約800キロの旅、そこからビエンチャンには飛行機で飛んで、帰ってきました。今回はその旅行の話のなかで歴史認識に特化した話を取り出します。
樫永さんは、先ず、民族について、次のように概説されました。
ベトナムは54の民族からなる多民族国家であり、いわゆるベトナム人といっているキン族は人口の85%を占め、北の紅河が作る平地部からサイゴンの南にあるメコンデルタまで結ぶ、海岸沿いの平野部に住んでいます。残り53民族はキン族以外の地域に多く、特にそのなかで北部、東北部、西北部、中部高原はベトナムの中でも少数民族が特に多い地域です。今回の旅行でたどった西北部も20以上の民族がいる地域で、少数民族の地域をたどる旅行でした。ラオスも多民族国家であり49の民族が公定されています。
樫永さんは西北地方を中心に居住している盆地にいる黒タイを調査してきました。東南アジアの大陸部にはタイ系の民族がいっぱいいて、そのなかで黒タイはひとつのグループです。ここでは、西北地方を中心に盆地にいる黒タイの話を、歴史認識をもとに話していくとのことです。
そして、以下のような旅の経路をたどられました。
旅は、ハノイ〜ギアロ、ギアロ〜ムーカンチャイ、ムーカンチャイ〜ディエンビエンフー、ディエンビエンフー〜ウドムサイ、ウドムサイ〜ルアンナムターです。
そのなかのムーカンチャイ〜ディエンビエンフーのあいだ、ムーカンチャイから険しい山を通りいくつも峠を超え、ダー川を渡り、山を超えるとトゥオンザオという村があります。ここは樫永さんが長く調査をしていた黒タイの村です。盆地にいるのはほとんど黒タイです。この盆地を抜け、ムオンアンを過ぎてのぼる高い山が分水嶺になっており、東側がダー川と紅河に下り、西側はメコン水系、そのメコン水系の一番端にディエンビエンフーがあります。ディエンビエンフーの先はラオスです。旅の経路はイラストマップに詳しく書かれているのでご覧ください。
歴史記憶について樫永さんは自分なりの言葉で考えてみると、親族、民族など個別の集団が集団にとって重要な事件や事柄を、空間や時間と結びつけて伝えてきた、アイデンティティ形成に重要な記憶が歴史記憶なのかなと説明しています。
それらは口伝え、儀礼などで伝えられますが、文字化されたり、モニュメントをつくったり、大掛かりな儀式となって、共同体のメンバーたちが正しい記憶としていつでも思い出すことができるようになると、歴史記憶が歴史化することもおきます。
歴史化されたものが、例えばその集団が国民であったとき、その国家によって正しいというお墨付きをもらうことになると、その国の正史として認められ、その国の歴史として編纂されます。しかし、本当は、歴史記憶はさまざまで、正史になるとは限らず、稗史として残っているものがいっぱいあります。
以上のように話されて、ここでは歴史記憶のなかで、モニュメント化される例と、モニュメント化されない、場合によっては消してしまおうとされる歴史記憶もあるということを、先ずディエンビエンの例から語られます。
ベトナムもラオスも19世紀からフランスの植民地化がはじまります。1887年フランス領インドシナが成立して、長くフランス統治下の時代が続きますが、第二次世界大戦が始まると、フランスはあっという間にドイツに降伏し、1945年3月の明号作戦で日本に支配されます。ところが8月には日本が敗戦し、ポツダム宣言のもと降伏します。9月にベトナムは独立宣言しますが、フランスがそれを認めず、インドシナ戦争が始まります。1954年にフランスとベトミンとの間の一騎討ちがディエンビエンフーでおこなわれ、ベトミンが勝利することでベトナムが独立します。
ディエンビエンフーというと、一般的には「ディエンビエンフーの戦い」なんです。世界史的にみるとアジア民族主義の植民地主義に対する勝利、ベトナムとしてみるとベトナムの独立(正確には北ベトナム)が国際的に承認された大きな転機であり、これで明確にインドシナの植民地支配がおわります。
今のベトナムはこのとき(1954年)に社会主義化して、1976年にベトナム社会主義共和国ができ、現在にいたります。そのため、今のベトナムはディエンビエンフーの戦いから始まるといえます。
ところが、ディエンビエンフーは、すごい内陸の盆地にあります。ベトナムを作ってきたキン族は海のほうの平野にいます。ディエンビエンフーはラオスとの国境に近く、キン族が元々たくさん住んでいたところではなく、主に黒タイやラオのタイ系の民族が入れ替わり支配し、住んでいたところです。
以上の近代史の説明の後、樫永さんは、「このディエンビエンフーにおける歴史記憶は、今どのようになっているのでしょうか。」自ら問いかけられました。
ディエンビエンフーがどのようなところか、民族的な概況についての説明はPPTを参照してください。
山間の盆地の中心部にタイ族、黒タイ。少し山の方に行くとコム、カムと呼ばれるモン・クメール系の山腹民でタイ族の人たちからはサー(カー)と呼ばれる先住民族。山のてっぺんには中国からの移住し、その時期も非常に新しいモン族やヤオ族。いっぽう町の中心部にはキン族や漢族。
ディエンビエンフーは典型的な山地世界で、キン族の世界ではありませんでした。
ディエンビエンフーの戦いのときに、紅河デルタのほうから大量にキン族がやってきました。樫永さんがいたトゥアンザオの村は国道の通り道にあり、村の人たちは「あんなにたくさんのキン族をみたのはディエンビエンフーの戦いの時に初めて」といっていたそうです。
ディエンビエンフーの街の中心部に市場があり、フランス植民地時代からある飛行場は今も現役で使われています。戦勝記念碑とA1(アー・モット)の丘、ドゥ・カストリ陣地(総司令部跡)、このあたりが観光地化しています。ディエンビエンフー観光といえば、ふつう戦争観光なのだそうです。
2004年にディエンビエンフーは戦勝50周年を迎えました。それに合わせてディエンビエンフー歴史戦勝博物館もきれいになりました。A1の丘も50周年から整備されました。今はもっと整備されています。 A1の丘に巨大なすり鉢状の穴があいていますが、これこそディエンビエンフーの戦いのクライマックスです。A1の丘へと地下を掘っていったベトミンが960キロもの爆弾を爆破させ、それを合図にA1の丘を占領し、総司令部を占領し、ディエンビエンフーの戦いに勝利したと劇的に語られる爆破跡です。1番の目玉の観光地とのことです。
そして、次のように話されました。
しかし、90年代にそれはありませんでした。50周年に合わせて爆破跡ができ、塹壕をつくってしまったんです。90年代までは、A1の丘は、人より草を食む水牛のほうが多いくらいのところでした。今は資料館もつくられ、周りは柵で囲われて、入場料も取るようになり、すぐには近づけなくなりました。
A1の丘を下におりていくと、ドゥ・カストリ司令部跡があります。屋根で覆われた司令部跡の写真は2019年に撮ったものです。ベトナムの旗「金星紅旗」を自分で持って上がって写真をとり、SNSにアップできるというのが目玉です。しかし50周年のときは、まだ、屋根もなく入場料をとりませんでした。そこにドゥ・カストリが投降し捕虜になったときの写真が展示されていました。
ディエンビエンフーの戦いというと、ベトミン兵士が勝利を記念して、かまぼこ屋根の上で大きな金星紅旗を掲げている、ベトナム人なら誰もが知っている写真があります。
1954年5月、ディエンビエンフー陥落の1ヶ月後には、ウクライナ出身でソ連の映像作家でカメラマンでもあるロマン・カルメンらの撮影隊が入りました。あの有名な写真もロマン・カルメンのヤラセ写真でしょう。
1955年には、「ベトナム」という映画が上映されます。当時のプロパガンダ映画で、やらせ満載です。こうして新しい歴史を作られました。それらはかならずしも、歴史記憶に基づいてはいません。
樫永さんは、一方でモニュメントにならなかった歴史記憶もありますと続けられました。
ディエンビエンフーから少し戻り、メコン水系に入ったところにナーノイ村があります。 その3キロくらい下に、タオプン村があります。タオプンとはひょうたんのことです。
ここに「ひょうたんから人が生まれた」という伝承があるそうです。
天の神が女神に銘じて人をつくらせ、ひょうたんのなかに詰めて、天から地上へと降ろしました。しばらくして神が臣下に下界のようすを見に行かせると、大きなひょうたんのなかでたくさんの人が歌ったり踊ったりしています。それで、鉄の棒を火で炙り、ひょうたんをつついて穴をあけると、小さい穴から人間が歌って踊ってでてきました。それがタイ族にとっての先住民であるサーの人たちです。
その人たちが出尽くしたと思っても、なかでまだ歌ったり踊ったりしている人たちいます。彼らは、こんな小さい穴では出られないというので、穴を大きくすると、なかから、やはり歌ったり踊ったりして出てきました。それがタイ族です。
最初の人たちは小さい穴から出てきたため煤まみれ、だから色が黒いのです。大きな穴からでてきたタイ族は色が白いのです。タイ族とサーの住み分けが示されています。
そっくりな話がラオス各地にもあるとのことです。
人間が出尽くしたあと、ひょうたんは、石になりました。このひょうたん石は、1990年代まで現地にあったようです。しかし、道路拡張のために潰してなくなってしまいました。わざとか偶然か、、、わざとではないかと思うと樫永さんはいいます。
さらに、樫永さんは伝承を語られていきます。
タオプン村からでききた人間が、ヨシが茂っていた原っぱを刈って、田んぼにしました。それが「小さな田の村」を意味するナーノイ村です。タイ族にとっての稲作発祥の地です。
ナーノイ村に、ナーン・ルオンという岩をうがって風呂桶をつくるほどの怪力の女がいました。その岩の風呂桶は、たらい岩と呼ばれます。ナーン・ルオンは神の子どもであるタオ・エンと夫婦になり、2人が作った子どもがボゾムです。ラオス語だと、ボロムとかブロムとして発音されます。
ボゾム(ブロム)がメコン川に下っていって、ルアンパバンを開き、ラオスの始祖になりました。ラオスの側では、尊称クンを冠した「クンブロム」が天から降臨した伝説上のラオスの祖であり、クンブロムが天から降臨したのがナーノイ村です。
ラオス建国の祖がラオスではなく、ベトナム領の、しかもラオ族の村ではなく黒タイの村に出現しています。ナーノイ村に重なり合いがあるということがいわれています。ところが、ナーノイ村にはなんの記念碑もありません。おそらく意図的に無視されています。
このように、樫永さんは指摘されました。
そして、最後に、樫永さんは次のように話されました。
歴史記憶をめぐっては、モニュメント化される話と全くモニュメント化されない話があります。共同体は常に自分たちのアイデンティティを求めます。自分たちのアイデンティティにとって都合が悪い話は外し、都合がいい話は盛り上げようとします。ディエンビエンフーという一つの場所にある、扱われ方がまったく対照的な歴史記憶の例のお話しでした。
Q1 黒タイ、白タイの「黒」「白」とは何なのでしょう?「黒」「白」に(西洋や日本のような)価値の差はあるでしょうか?
A 黒タイ白タイ、どちらが優位はないと現地のひとはいいます。なぜ、黒と白なのか、はっきり言って不明です。文化面に両者の違いはいくつもあります。たとえば、黒タイは白が喪服の色なので、ふだんの着用を忌むが、白タイは忌まない。家の中の構造が白タイと黒タイで異なる。既婚女性の髪型が異なる。儀礼で殺害するスイギュウの黒白が異なる。などなどです。
もともと緩やかな文化差があったところに、1890年代以降、フランス側に味方したタイ族を白タイ、フランスに明確に服従していないグループを黒タイ、というフランスとの関係によって、両者の違いの意識が強化されたと考えられます。
Q2 ムエタイは、タイ系諸民族のすべてにあるのでしょうか?
A タイ系民族すべてにあるわけではないです。
起源ははっきりわからないですが、少なくともベトナムのタイ族に、ムエタイの原型になるものはないと断言して良さそうです。
タイにおけるムエタイの発展に中国武術は関係しているし、もしかすると日本の柔術とも関係があるかもしれません。関ヶ原以降、アユタヤにわたって軍事を担当した日本人たちも多いはずです。
Q3 ボー・グエン・ザップは、今も英雄なのでしょうか?
A 英雄かどうか微妙です。戦後、政治の世界では冷遇されていました。
亡くなったとき、海外での取り上げられ方のほうが大きかったです。
新妻さん 2013年、ザップが亡くなったとき、記帳に並ぶ人がものすごく多くいました。党や政府のことはわかりませんが、一般の人たちにとって、ボー・グエン・ザップ将軍は、チャン・フン・ダオやレ・ロイなどと並ぶ将軍で、党は望まないと思いますが、神社くらいできそうな雰囲気だと思いました。
Q4 タイ族ということは、ベトナム語は話さないのでしょうか。言語統治されているのでしょうか
A 母語はタイ語でしたが、最近はベトナム語が普及されています。90年代にタイ族の村で調査を始めたころは、村のなかでは老若男女みんなタイ語を話していました。特に50代以上の女性はほとんどベトナム語を話さなかったですし、男性でも60代以上の人は学校教育か軍隊経験がないとベトナム語は話せませんでした。
2000年代に入ると村に電気がきて、テレビを通じて情報や娯楽の面でものすごい勢いでベトナム語化が進みました。今の子どもたちのベトナム語に、黒タイ語なまりを感じません。
Q5 ムエタイが寺院で伝えられていたということは、ムエタイは信仰と関係あるのでしょうか。
A 仏教の教義そのものと、どこまで関係があるのかわかりませんが、日本でも中世までは武術はお寺を中心に伝えられたようで、精神修業と寺院との結びつきという観点からも、ムエタイと日本の柔術はどこか関係があるのではないかと思っています。もちろん同様の関係は中国もあります。
Q6 黒タイ人といっしょにいると、タイ人といるように感じるのでしょうか。ベトナム人といるように感じるのでしょうか。
A 微妙な質問ですが、タイ国のタイ人とも違います。笑い話のつもりでお聞きください。世界中には半笑いの文化の人たちと半笑いのない文化の人たちがいます。日本人は半笑いの側。ベトナムのキン族は半笑いしません。モン族も半笑いがありませんが、タイ族には半笑いがあります。タイ国のシャム人も。その意味で、タイ族のひとたちは、ちょっとベトナム人的でないかも。
さて、黒タイ人がベトナムとタイのどちら寄りか、言語の面から見ると、黒タイ語はタイ系言語の中では、文法的に少しベトナム語っぽいです。
Q7 ベトナム政府の少数民族に対する政策はどのようになっているのでしょうか?
A 必死になって同化させる段階は終わったように思います。傾向として北部では同化が進んでいて、特にタイ族は今更、ラオスやタイにくっつこうということはないという感じがしています。モン族は微妙ですが、部分的な反抗にとどまり、民族をあげて反政府で結集するとは思えません。
Q8 タイ族の子供たちは民族語で勉強する機会を与えられていないのでしょうか。普通教育に民族語の教育は組み込まれていないのでしょうか。
A 2000年代はじめに民族語というか、民族文字教育を少し導入した時期がありました。しかし、それを知ったところで使うところがないし、子どもたちが学びたいわけでもなく、早い段階で頓挫しました。しかし、地域によっては、学校とは別に、行政から補助金を用いて寺子屋的に個人がやっているところはあります。
(記事執筆:鍋田尚子)
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○ 東南アジア山地部を歩いた記録である、樫永真佐夫さんの著書『道を歩けば、神話—ベトナム・ラオス つながりの民族誌』、左右社、2023年11月17日刊行。
https://sayusha.com/books/-/isbn9784865283921本人自身による紹介は、次の通りです。
(本の内容)ベトナムのハノイからラオスのルアンナムターまで、民族の「はじまり」の伝承地をめぐる旅行記の体裁で、民族雑居地域における歴史・社会・文化を、四半世紀におよぶ現地調査の経験から語る。
(おすすめポイント)現地の神話・物語・ウワサ話、筆者の体験や現地とのつながりを、語りを意識した文体で書き綴っています。装丁にフィールドノートの写真が使われているように、人類学者のフィールドワークの雰囲気も伝わることでしょう。興味に任せて途中から読み始めてもついていける内容ですし、イラストも豊富なので、ベトナムとラオスを旅行、あるいはフィールドワークする気分に浸っていただけるのではないでしょうか。
池澤夏樹さんの推薦文
わずか10日の旅が少数民族たちにすいすいつながり、25年間のフィールド調査につながり、この地域の数千年の歴史につながる。
彼らは性格さまざまで、現実的で、夢想的で、そして愉快だ。
○ 樫永さんのさまざまな情報発信について、本人自身による紹介。
○「奈良・吉野山」のイラストマップ
○ 犬食のイラスト
「ハノイの郊外にあった犬肉料理屋」(上)と「市場で売られている犬肉」