ムスリム用品店(ヤンゴン市内)
2017年1月、撮影:斎藤紋子
第29回
『楽平家オンラインサロン』
2023年1月18日(水)
20:00〜
仏教徒社会に暮らすムスリム
話の内容とプロフィル
≪内容≫

「ミャンマーのムスリム」というと、何度もニュースになっているロヒンギャを思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。ロヒンギャの問題も長期化しているのが現状ですが、今回はミャンマーに暮らすロヒンギャ以外のムスリムについて少し紹介していければと考えています。

ミャンマーにいるムスリムはロヒンギャだと思っている人は他国のムスリムにも多く、海外で会合などに参加すると「ミャンマーから来た?じゃあロヒンギャなのか?大丈夫か?」という反応をされることが多いそうです。ロヒンギャはニュースになる一方、ロヒンギャではない自分たちムスリムの困難はあまり知られていないこともあって、少しでも自分たちのことを知ってほしいと願っています。それをすこしでもかなえることができるよう、彼らの日常生活、モスクでの礼拝、仏教徒との関係、民主化以降の反ムスリム運動とその影響などをお話しできればと思います。


≪プロフィル≫

斎藤紋子(さいとうあやこ) 博士(学術)
現在、東京外国語大学・上智大学・外務省研修所非常勤講師。

1994‐1996 在ミャンマー日本国大使館専門調査員
2002‐2004 ミャンマー・大学歴史研究センター留学

大学でビルマ語を勉強し始めましたが、当時はミャンマーに これほどまでに長くかかわるとは夢にも思っておりませんでした。
ミャンマーに暮らすムスリムに関心をもち、細々と研究を続けています。
【楽平家オンラインサロン 第29回報告】
2023年1月18日の「楽平家オンラインサロン」は、斎藤紋子さんによる「仏教徒社会に暮らすムスリム」でした。

この日ナビゲーターを務める高橋ゆりさんと発表を務める斎藤紋子さんとは東京外国語大学ビルマ語科の先輩後輩という間柄。それだけではなく在ミャンマー日本大使館の専門調査員(高橋さんは1991年〜1994年、斎藤さんは1994年〜1996年)として前任者後任者としての繋がりもあります。斎藤さんは任期満了後も、2002年~2004年の2年間、子供を連れてミャンマー に渡り、ミャンマー・大学歴史研究センターで歴史の研究を続けられました。ご専門は「ミャンマーにおけるムスリム」です。ミャンマー研究の中でも特に調査のしづらいテーマを選択され、20年以上彼らの生き様を追いかけて来られました。常に政府のターゲットとなり続けてきたムスリムの人たちは確かに虐げられてきた歴史もありますが、そういった中でも賢明に生きる姿も目の当たりにしてきたと言います。ミャンマーのムスリムと言えばロヒンギャの人たちを思い浮かべるかと思いますが、本日は20年以上にわたり関わってこられたインド系を含めた様々な出自のムスリムの人たちのお話です。

斎藤さんは1988年に東京外国語大学ビルマ語学科に入学しました。ミャンマーの民主化運動が始まった年でもあります。大学時代にミャンマーの歴史に興味を持ちます。ミャンマー は仏教国ですが、その中でマイノリティーとして賢明に生きているムスリムの人たちに興味を持ち、博士課程在籍中から今まで研究を行っていらしたそうです。歴史書をたぐり彼らがどのようにしてミャンマーに辿り着いたのかを理解し、彼らの置かれている現状を理解するために聞き取り調査を根気強く続けました。軍事政権下であるということ、ムスリムの人たちが置かれている政治的背景の複雑性と相まって、調査に応じてくれるムスリムの人たちに行き着くのは大変だったそうです。聞き取り調査の難易度や状況はその時の政治状況に左右されました。

そして、斎藤さんは、次のように話されました。

2003年以降の調査では匿名希望、録音なし、時にメモ取りなしの条件付きの聞き取り調査が多かったです。信頼関係を築き上げ、試行錯誤しつつ調査を行いました。
2011年民主化以降は比較的聞き取り調査に応じてくれる人が増加しました。
2013年以降は反ムスリム運動、ロヒンギャ問題により複雑化しました。同じムスリム同胞もロヒンギャを援助したいが大っぴらにはできない複雑な思いを抱えていました。
2020年以降コロナとクーデターにより様相が変化してきています。
調査はヤンゴンとマンダレーで行われました。2011年の民主化以降、聞き取り調査をしていく中で、ムスリムの実情をどんどん公表してほしいという声が多くなり、今までなかなかできなかったのですが、今回はこのような機会を得ることができ大変嬉しいという言葉で始まりました。
1. 概要

2014年の人口調査によるとムスリムがミャンマー全人口に占める割合は4.3%となり数で言えば220万人以上になりますが、その半数近くがラカイン州のロヒンギャと言われる人たちです。ただ、ラカイン州にいた100万人以上のムスリムは2017年のロヒンギャ危機で大幅減少しています。ムスリムの残りの半数はそのほかの地域に分布していますが、大半がインド系を中心とする様々な出自の人たちで、本日は彼らの宗教活動、教育、社会貢献などのお話をしたいとして、以下のように続けられました。

インド系といえども、ミャンマーの人が指しているのは英領インドの時代の人ですので、今の地理で言えば、インドに加えスリランカ、バングラデシュ、パキスタン、ネパールからの人たちも含まれます。西から来た人いう意味の「カラー」という呼称があります。この呼称はかつてヒンドゥー教徒、仏教徒のインド人も含まれていたのですが、昨今では「カラー」イコールムスリムというイメージが定着しつつあります。この呼称は差別的な用語として受け取られていて、「カラー」を「Kワード」と呼び、数年前から使用を止めようという動きもあります。
このインド系を中心とするムスリムも大きく分けて非公式ですがイスラームの解釈の違いにより三つのグループに分かれています。わかりやすいよう分類しましたが、実際には呼び方もなく、なんとなくお互いに「~の人たち」「あっちの人たち」などと呼んでいます。1)ミャンマー文化受容度が高い「評議会派」の人たちでバマー・ムスリムと自分たちで呼ぶこともあります。2)「ウラマー(知識人)組織派」の人たちで、植民地時代からのイスラームを受け継いでいます。3)北インド発祥で各地での布教運動を指すタブリーグに参加する人たちがいます。タブリーグはウラマーに近く一緒に活動する時もあります。割合的にはバマー・ムスリムが15-20%、ウラマーとタブリーグが80-85%と推測しています。私の調査対象はヤンゴン、マンダレーに住んでいるバマー・ムスリムです。言語的にはビルマ語を話すのですが、50代、60代の人たちは祖先の各出身地の言語と、植民地時代にイスラームで使われていたウルドゥー語を話す方もいます。

1997年の政府出版物によるとミャンマー国内のモスクの数は2266箇所で半数以上がラカイン州にあります。ヤンゴンは171箇所、マンダレーは200箇所で、マンダレーの方が多いです。マンダレーでは王朝時代にモスクが建設され、ヤンゴンは植民地時代に都市として開発され人口が急増したことが背景にあります。それから、新規のモスク建設は許可が下りないのが実情です。キリスト教の教会も同様で許可が下りません。ヤンゴンにある171箇所のうち10箇所が女性も入ることができるモスクとなっています。数が少ないのはインドのイスラームの考えを受け継ぎ、家で礼拝をすることで十分という考えの人たちがモスクの管理をしているためです。
そして、様々なモスクをお見せしたいと思いますとして、次々に画像が紹介されていきました。

1890 年(出典Noel F. Singer, 1995. Burmah : A Photographic Journey, 1855-1925. Kiscadale Pub.)に撮影されたSurti Sunni Jamah モスクですが、ヤンゴンの街中にあって、現在もあります。
2010年2月撮影 斎藤紋子
これはマンダレーの有名なジュンモスクで、王朝時代にミンドン王とティーボー王の宮廷内の使用人として働いていたムスリムがモスクを建てて、周りの土地と共に寄贈したそうです。

1862年に建設され、1942年4月の第二次世界大戦中に被害を受けたあと1951年に再建、その後マンダレー市内での大火や地震の影響もあり1996年に再建されました。
2010年3月撮影 斎藤紋子
これもマンダレーのモスクで左はアミャウタンモスク、右はタウンバルーモスクです。礼拝前の身体のお清めの様子です。マンダレーのモスクの特徴としてお清めの水を溜める場所は大きく、マンダレーは火事が多いので、消火用の水源の確保という役割も果たしています。
左2017年1月、右2018年8月 撮影 斎藤紋子
左上下と右上の写真はアミャウタンモスクのお祈りの様子です。左下は体の不自由な方用に椅子が設置されています。右下のモスクには、ムガル帝国最後の王であるバハードゥルシャー・ザファル王が流刑になり、ヤンゴンに到着していますのでその廟があります。女性も礼拝可能です。
2017年1月 撮影 斎藤紋子
これはマンダレーの中国系のモスクです。
2012年2月 撮影 斎藤紋子
これはラカイン州の貴重なモスクです。改修が必要です。
続いて、お話は、ミャンマーのムスリムの問題について、展開していきました。以下に、その要点をまとめます。
2. 教育
学校では仏教行事が取り入れられているので仏教を学ぶ機会が多いが、逆に仏教徒が他の宗教を学ぶ機会はないのが課題です。民政移管されてからそれぞれの宗教の概要を学ぶためのテキストを政府に提出した団体がありましたが、却下されました。

彼らは普通の学校に通い、放課後はアラビア語で書かれたコーランの学習をします。子供たちの様子の写真です。ムスリムに家を貸したくないという人もいるので、自ずと大家さんがムスリムとなり、自然とムスリムが多い地区ができてくるが、一方で同じ通りでも仏教徒とムスリムが混在しています。
3. 反ムスリム運動
民政移管以降、反ムスリム運動が激しくなってきています。民主化以前、暴動は軍に鎮圧されることが多かったのですが、民政移管以降は暴動が長期化する傾向があります。黄色の部分は特に暴動が激しかった事案です。2012年5月末にラカイン州のムスリム男性が仏教徒女性を暴行し殺害したことがきっかけで、反ムスリム運動が拡大していきました。

拡大の背景には言論統制の緩和が挙げられると思います。書籍、カレンダー、ビデオなどの検閲が廃止されました。また、国民が携帯電話を持ち、情報が共有されるようになりましたが、同時にヘイトスピーチやデマも拡大していきました。また、「マバタ」と呼ばれる民族宗教保護協会の僧侶が説法会でヘイトスピーチを行ったりし、説法のC Dを無料配布するなどしましたが、僧侶に対して意義を唱えるのは良くないという文化の中、そうしたスピーチを良く思わない仏教徒は対応に苦労しました。「マバタ」のウィラトゥ師は協会のトップではないですが大々的に活動していましたのでTI ME誌の表紙にもなりました。反ムスリム運動は村にも広がります。ムスリムのいない村落宣言をした村の看板にはムスリムの宿泊不許可、ムスリムに不動産を売らない、ムスリムと結婚させないなどと書いてあります。都市部でもモスクや宗教学校が閉鎖されたり、家で集まって祈っていても人が集まっているということで通報されたりと生活面に多大な影響を与えました。2017年のロヒンギャ大量流出はロヒンギャではないムスリムたちの生活をも窮屈なものにしました。
4. 相互理解
ムスリムの人たちはこのような状況下でも相互理解に努めます。モスクに武器を隠しているなどの噂を払拭するために警察から許可を得て見学会などを実施したり、宗教理解を促進したい若者と様々な相互理解のための活動をしたりしました。2019年には仏教僧侶が中心となり白のバラをムスリムに配布するなど連帯を示しました。
これら連帯の動きはコロナ禍で活発化されます。ムスリムは民族宗教問わず食料、パルスオキシメーター、酸素ボンベの寄付活動を行いました。クーデター後も炊き出しなども行いました。
おわりに
斎藤さんは、民主化により宗教相互理解が進むのではないかとムスリムは期待していたが、悪化した面もあり、クーデター後、この宗教相互理解が前進するのか後退するのかは未知数で、注視していきたいと指摘されました。さらに、国民統一政府(N U G)の中でも少数民族や仏教以外の宗教への理解度が違うため、一般市民もふくめ、今までの偏見をいかに払拭し、共存していけるかに注目したいと思います、と話されました。

そして、ナビゲーターの高橋さんが、「偏見の中に生きてきたムスリムの人たちがこの激動の世の中でどのように立ち振る舞い、どのように生きていくのかが今後注目されます」という言葉で締め括られ、質疑応答に入りました。
Q1:ミャンマーの仏教徒とムスリムの対立で男女関係、婚姻関係などが重要に絡んでいることは理解できました。あと、ムスリムの屠畜の慣習が、殺生を嫌う仏教徒の反感を買っているという話も聞いたことがありますが、この件はどう考えておられるかご教示ください。時代も地域もまったく異なりますが、ナチスドイツの時代に動物愛護運動が高まっていたことと、ユダヤの屠畜法が「残酷」として迫害の起因となったことにも似た側面があるのかな、とも考えているのですが、いかがでしょうか。

答え:お祭り用の牛の解体は場所を決めて行っており、多くの人の目にふれないよう気を遣っています。ただ、牛肉などは宗教民族を問わず配布するので貧困層などには歓迎されている面もあります。ヒンドゥー教の人たちからはよく思われていないですが、対立までには至っていません。牛の皮を政府が買い取るなどもしており、ムスリムの屠畜の慣習のために仏教徒の反感を買うということはゼロではないですが、大きく問題になることはほとんどないと言えます。


Q2:寄付者というのは、ムスリムの個人の方でしょうか。ムスリムの企業からの寄付もありますか? また、ムスリムのかたの就業状況は、いかがでしょうか、高給をとれるかたも多いのでしょうか。ロヒンギャの方々は、貧困状態にあるように報道などで思い込んでおります。

答え:確かにムスリム個人や企業からの寄付は多いです。公務員にはなれますが、昇進は難しく結果としてムスリムは自分で起業する人が多いという状況です。建設関係の自営業が比較的多いのが特徴で、中には有名な企業があり政府の人とうまくやっている(うまくやらざるを得ない)人も多いです。ヤンゴンのロヒンギャの人たちの中には豊かな人もいます。


Q3:ムスリムの人たち自身が「カラー」以外のオルターナティブな呼称を提案する動きなどはありますか?あるいはそもそも一括りに呼ばれること自体に拒否感を持っているのでしょうか。

答え:拒否感は持っています。2014年の国勢調査の際に民族を記入するのに議論がありました。バマー・ムスリムと記載したい、パディーという王朝時代の呼称でまとめたい、またインド文化を維持するムスリムは「インド人」いっそのこと「カラー」でいいのでは、などと色々な意見がありました。ロヒンギャはまとまっているので羨ましいという声まで出ました。海外在住のミャンマーのムスリムは、ミャンマー人でもなく(ミャンマー国民だがミャンマー民族とは認められないことが多いという意味)インド人でもないという非常に複雑な思いを抱えています。今も継続している問題です。


Q4:仏教の指導者が説教という形でムスリムの人たちに対するヘイトスピーチをするというお話は驚きですが、ミャンマーではそんなに仏教指導者の影響力があるのですか。

答え:仏教僧侶は有名な人は非常に有名です。皆仲良くしていこうという説法をする僧侶が大半ですが、中には非常に急進的な思想からヘイトスピーチに繋がるようなものを説法に入れる僧侶もいます。僧侶がおっしゃることは間違っていないとミャンマー仏教徒は幼少から教えられています。おかしいと思っても面と向かって反論はできず、説法中に席を立つ、つまり説法を聞かないということで消極的な抗議の意向を示す人などもいます。ミャンマーは仏教徒が87%ですので僧侶の影響力は大きいと言えます。


Q5:ムスリムの方々の場合、公務員になっても昇進などのハンデがあるため、むしろ、男女とも医者、エンジニア、法律家などの専門職を目指す人が多いと聞きました。また大学教員はどうでしょうか。有名な方がいましたらそうした方々についても少々教えて頂けますでしょうか。

答え:医者、エンジニア、法律家は多いです。大学の教員もムスリムは少なくないと言えます。ミャンマー文学の最初のパーリ語の先生はムスリムでした。一時期は法学部のムスリムの教員数を減少させようということはあったと耳にしましたが、他学部ではそのような動きはなくムスリムということがハンデになることはないと思います。


Q6:コンバウン王朝ではヒンドゥーのバラモンが王朝の儀式や制度の中で重要な位置を占めていたそうですが、当時のムスリムはどういう存在でしたか?

答え:宮廷内での必要な物品買い付けの商人として、また、兵士の一団として雇われていました。例えばマニプールへの遠征の際に戦争捕虜として連れてこられた人たちがいますが、その後王宮内で警護などの職についていたと書物には書かれています。
高橋ゆりさんコメント
歴史的にビルマ王朝時代に王に雇われて、また、命拾いし、兵士として雇われた人の中に有名なでポパ山に祀られているムスリムの二兄弟を思い出します。イランからビルマに漂着し、ビルマ王に命拾いをし、誤解があって殺された二人です。今もポパ山参拝の時は豚肉入りのお弁当はだめだということですが、この話を今のミャンマー人たちは知っているでしょうか不明です。タウンビョンの8月の精霊信仰祭りもムスリムの人を祀っているので豚肉はご法度だったはずです。
(記事執筆:億 栄美)
<無断転載ご遠慮ください>
アンドモア

■ バマー・ムスリムに関して、斎藤紋子さんの業績は、以下の通りです。


  • 2023. 「28章ミャンマー:仏教徒社会のマイノリティ」「40章ミャンマーにおけるロヒンギャ問題:国内に暮らすロヒンギャの状況」久志本裕子、野中葉編著『東南アジアのイスラームを知るための64章』 pp.168-172, 234-238, 明石書店

  • 2022. Chapter 5 Muslims as Citizens of Myanmar: Education in the Muslim Community. Community movements in Southeast Asia: an anthropological perspective of assemblages. Ryoko Nishii, Shigeharu Tanabe eds. pp.161-179. Silkworm Books

  • 2020.「民主化による新たな試練とムスリムコミュニティ」土佐桂子、田村克己編『転換期のミャンマーを生きる―「統制」と公共性の人類学』pp.165-184 風響社

  • 2018.「ミャンマーのムスリムコミュニティ」笹川平和財団編『アジアに生きるイスラーム』pp.163-184 イースト・プレス

  • 2015.「ミャンマー社会におけるムスリム -民主化による期待と現状-」工藤年博編『ポスト軍政のミャンマー ―改革の実像-』pp.183-204 日本貿易振興機構アジア経済研究所
    https://ir.ide.go.jp/?action=repository_uri&item_id=31718&file_id=26&file_no=1

  • 2014. The Formation of the Concept of Myanmar Muslims as Indigenous Citizens: Their History and Current Situation (Burma Studies in Japan: History, Culture and Religion) 上智アジア学 (32) pp.25-40

  • 2014.「ミャンマーにおける反ムスリム暴動の背景」 (特集 ミャンマー改革の3年 : テインセイン政権の中間評価(1))『アジ研ワールド・トレンド』 20(1) pp.22-25
    https://ir.ide.go.jp/?action=repository_uri&item_id=45481&file_id=58&file_no=1

  • 2013.「ムスリムとミャンマーの関係―宗教を越えたつながりを模索して」田村克己、松田正彦編『ミャンマーを知るための60章』pp.59-62 明石書店

  • 2012.「ミャンマーにおける『バマー・ムスリム』概念の形成 : 1930年代ナショナリズム高揚期を中心として」『東南アジア. 歴史と文化』41号 pp.5-29
    https://www.jstage.jst.go.jp/article/sea/2012/41/2012_5/_pdf/-char/ja

  • 2010.『ミャンマーの土着ムスリム : 仏教徒社会に生きるマイノリティの歴史と現在』風響社

■ ミャンマーのムスリムについての参考文献(英語)


  • Wade, Francis.
    2019. Myanmar’s Enemy Within: Buddhist Violence and the Making of a Muslim 'Other'. Second Edition. Zed Books

  • Crouch, Melissa.
    2016. Islam and the State in Myanmar: Muslim-Buddhist Relations and the Politics of Belonging. Oxford University Press.

  • Barlie, J.A.
    2008. The Burmanization of Myanmar's Muslims. Bangkok: White Lotus Press.

■ ミャンマーのムスリムについて、ある程度まとまって、日本語で書かれているサイトに、以下があります。

https://badauk.com/nitijou/sinjiru/bamarmuslim/
これからの「楽平家オンラインサロン」
2023年5月10日は、「多様化する日本でアイデンティティーに悩む人を理解する」です。ミックスルーツを持つ人々の問題をフィクションとして描く映画『WHOLE/ホール』の監督、川添ビイラルさんが、問題の過去や現状などを語っていきます。オーストラリアに長く在住されている高橋ゆりさんとの対談を通してで、中でオーストラリア社会との比較にもふれていきます。
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