ある地方の町のパゴダにて(Yanaungmyin Pagoda)
2000年12月、ミャンマー、マンダレー地方域ヤメーディン。
撮影:鈴木貴子。
<無断転載ご遠慮ください>
第27回
『楽平家オンラインサロン』
2022年11月9日(水)
20:00〜
私の中の「私のビルマ」
~日緬のかけはしとしての歩み~
話の内容とプロフィル

≪内容≫


ミャンマー(ビルマ)という国とその人々と出会ったことで人生が大きく変わった人は多いと思いますが、私もその一人です。

今回は、これまでの私のミャンマーにまつわる思い出や、日緬友好サークル「みんがらネットワーク」での、主に機関誌発行などの活動のお話。それからボランティア教室やプライベートレッスンなどの日本語レッスン、そしてミャンマー人の夫やたくさんのミャンマーの人たちとのふれあいについてお話しします。

また、現在進行中のメルマガ「みんがらネットワーク通信」やミャンマー図書室「みんがら文庫」設立計画など、これからの夢についてもお話しします。

なお、今回の演題についてですが、以前発行していた機関誌「みんがらネットワーク」会報に掲載するために、周囲の方にエッセイを依頼することがしばしばありました。すると、なぜか「私のビルマ/ミャンマー」といったタイトルをいただくことが多いように感じ、不思議な気がしていました。

果たして、これは他の国の場合も同じなのでしょうか。もしかしたら、ミャンマーは他の国と比べて、それと関わった人それぞれにとりわけ深い思いを残し、思い入れを生じさせる何かがあるのではないでしょうか。

そのような思いがありましたので、このような演題といたしました。


お話は、4つの時期に分けていたします。それぞれの時期でふれる主な話題は、以下の通りです。

1) ミャンマーとの出会いの始まり
  • 日本語ボランティア教室、ビルマ語教室
  • 「みんがらネットワーク」への参加 ほか

2) ミャンマーとのつながりの深まり
  • プライベートレッスンの日々
  • ミャンマーコミュニティで過ごしたこと
  • 初ミャンマー訪問、難民キャンプ訪問
  • 夫の地元と里帰りのこと ほか

3) ミャンマーと日本のつながりの試み
  • 『みんがらネットワーク』会報の発行
  • U Mingalarこと西田敦さんのこと ほか

4) かけはしとしての新たな挑戦
  • メルマガ発行、図書室の計画、表紙写真展、出版活動への夢
  • 日本語レッスン実施中 ほか


今回の話は、ミャンマーの専門家の方や関わりがより深く長い方が大勢いる中では、既によく知られた話もあり、一市民の体験談の域を出ないかもしれません。

しかし、ミャンマーと関わりのない方(以前の私のように)にはミャンマーの国や人々について知っていただき、長らくミャンマーとともに歩んでこられた方には懐かしい思いを共有していただければ幸いです。



≪プロフィル≫

鈴木貴子

千葉県市川市出身

1998年 日本語ボランティア「ビルマ人と日本語を学ぶ会」に参加。

1999年 チェリーミャンマー語教室に通い始める。
そこで日本に住むミャンマー人とミャンマー大好きな日本人との友好サークル「みんがらネットワーク」に加入。のち、メンバーに誘われて「みんがらネットワーク」内のボランティア「ミンガラ日本語教室」に参加。
このころ、在日ミャンマー人へのプライベートレッスンをはじめる。

2000年 初めてミャンマーを訪れる。

2004年 一時休刊していた機関誌「みんがらネットワーク」会報の編集を始める。

2019年 メルマガ「みんがらネットワーク通信」配信開始。
同年 "日本語パートナーズ"ミャンマー6期内定。(2020年派遣中止・延期)

2020年 "日本語パートナーズ"ミャンマー7期内定。(2021年派遣中止)
同年 オンラインで日本語レッスンを開始。

ミャンマー関連書籍を集めた図書スペース「みんがら文庫」を準備中。

みんがらネットワーク
サイト https://www.mingalar-network.jp/
twitter https://twitter.com/mingalarnetwork
お問い合わせ info@mingalar-network.jp
【楽平家オンラインサロン 第27回報告】

2022年11月9日(水)の「楽平家オンラインサロン」は、みんがらネットワークの鈴木貴子さんによる「私の中の『私のビルマ』 〜日緬のかけはしとしての歩み〜」でした。

鈴木さんは、内容を大きく4つに分けて話をされ、それぞれについて、当時のエピソード満載でした。
(写真はいずれも鈴木さんの提供です)


»
1つ目は出会い

まず、鈴木さんは、上の画像に記してある6つの項目を順に語られていきました。

①:おぼれもがいていた時期

  • 生い立ちは、千葉県市川市でのんびりと恵まれて育った子。しかし、自称「蓋を開けてみると普通の人が知っていることはあまり知らない」人。それに悩んでもがいた先にあったのが、東京・中野区の中野サンプラザの職業相談センターでの、日本語教師の仕事との出会いだった。興味を引かれた理由は、日本で日本語や国のことがちゃんと大切にされてない、言葉の乱れと、人間づくり・精神修養など、日本も日本語も大事にされてないことに少し危機感を持っていたこと。
  • しかし「日本の子供や若者達に日本語のサポートをするのは、ちょっと私が手に負えないし、国はともかく、言語は人類の財産だと思い、せめて外国の優秀な人で、日本に興味を持ってくれる人に日本語を託そう」というところから日本語教育の世界に踏み込んでいく。

②:日本語教師という仕事

  • 調べたところ、難易度が高いと思った。何十万円も出して、養成講座に通って、資格を取らなきゃいけない、試験も受けなきゃいけない。しかしそれでも仕事に就くのは、未経験では難しいとは。
  • 手詰まりを感じる中、図書館の近くにあった公民館に日本語ボランティアの募集の張り紙を発見。「ビルマ人と日本語を学ぶ会」…日本語の教え方を知らなくても、教え方を勉強する熱意のある方、ビルマ人の状況に関心を持ってくださる方歓迎、との募集。これなら今でもできると思って、すぐ連絡して、教室に参加。
  • 当時は、「ビルマはどこ? 『ビルマの竪琴』っていう映画があった、アウンサン・スーチーさんはビルマの人で…」くらいの知識。また、その頃は、今のように町のあちこちに外国の人がいない時代で、外国人と面と向かって会話をするのもこのときがほぼ初めてで、ドキドキした。

③:日本語ボランティア教室

  • 日本語教室は、先生も生徒達もわりと近い年代の人達が多く、みんな一緒によく学んでよく遊び、サークルのようだった。携帯電話のない時代に固定電話やファクスなどで連絡を取り合い、ミャンマーレストランでミーティングも。
  • 教える側も、日本語教育についてはほとんどの人が未経験者。勉強会を開いたり、お金を出し合い日本語教授法を教えてくださる先生をお招きしたり、自分達で勉強していた(教科書「みんなの日本語」【注】の話もあり)。

     【注】「みんなの日本語 初級I 本冊」1998.3,スリーエーネットワーク 編著。当時は第1版でした(現在は第2版が出ています)。
    〔書誌情報は鈴木貴子さんのご教示によります。以下同〕

④:夫との出会い

  • そのようなときに今の夫に出会う・・・彼は生徒の一人だった(初対面はその教室の忘年会)。
  • 付き合っていた頃、ミャンマーコミュニティのレストランやミャンマー人の行く雑貨屋など、あらゆるミャンマー人コミュニティに連れて行ってもらった。そこから東京・神田のチェリーミャンマー語教室に通い始め、初めてミャンマー語の学習を開始(教材「エクスプレス ビルマ語」の話あり)。

     【注】加藤 昌彦「エクスプレス ビルマ語」1998.10,白水社

⑤:ビルマ語教室 〜チェリーミャンマー語教室

  • ビルマ語教室は、生徒たちに海外旅行好きな人が多い環境と、チェリー先生の明るい人柄で、とても楽しく通った。
  • 教室とは別に、在日ビルマ人たちが集まるサークル「みんがらネットワーク」という集まりがあることを聞く。その忘年会に呼ばれて行くと、いろんな分野の幅広い年代の方が50〜60人も参加するような賑やかな会。中にはビルマで戦時中従軍していて、今は恩返しでミャンマーに慈善活動をしているお爺ちゃんまでいた…。

⑥:みんがらネットワークとの出会い、そしてミンガラ日本語教室への勧誘

  • あたたかくて、楽しさにあふれた本当に素晴らしい雰囲気で、その音頭を取っていたのが「ウー・ミンガラー」が愛称の西田敦(にしだあつし)さん。
  • (西田さん半生の紹介)ひょんなことから在日ミャンマー人と出会い、興味を持って、チェリーミャンマー語教室に入り、在日ミャンマー人に頼まれて日本語を教え始めた。最初の生徒は2人だったが、噂を聞きつけて次から次へと生徒さんが来たので、「ミンガラ日本語教室」を作った。その後も法律相談や生活支援など、物心両面から在日ミャンマー人をサポートされた。
  • 私と夫の婚姻届の署名もしてくださり、心からお祝いしてくださった。公私ともに恩人。惜しくも2020年1月26日に亡くなられた。
  • たしかチェリー先生のビルマ語教室でだったと思うが、「みんがらネットワーク」の会報が配られた。カラーの表紙にコピーをしてホチキスでまとめたような1冊。初めて手にしたのが4号か5号。表紙写真も美しく、内容は、ビルマへの友情と愛に溢れていて、手作りの、大変素晴らしい冊子だなと思って感動した。
  • その頃と時を同じくして、みんがらネットワークのメンバーの男性から、今ボランティアで、ミンガラ日本語教室で日本語を教えているが、人が足りない。「鈴木さん、日本語を教えた経験あるから来てくれないか」との誘いから、ミンガラ日本語教室との直接的な接点が生まれる。
  • 当初は生徒さんが次から次へと集まって、もう本当に大変だった。写真の集合写真は毎年恒例のバス旅行で、よく学び、よく遊んだ。当時1999年に初めて入って20年ぐらい行った。これまでの人生の何割か、青春の何割かをかけたような場所。
■その後の鈴木さん

続いて鈴木さんは、「さらに深く~ミャンマーとのつながりの深まり」を話されていった。

  • 2000年ぐらいに、当時勤めていた会社を辞めることになり、ミャンマーへ、人生初の海外旅行。行って良かったことは、メッセンジャー(遠く離れた家族や恋人たちへの伝言係)ができたこと。
  • 例えば、今もう亡くなってしまった夫のおばあさんと話せた。他には、婚約者を置いて日本でずっと暮らす男性からのビデオレターを持っていき、ミャンマー現地ではその婚約者の方に見せ、返事のビデオレターを撮って日本に持って帰ってあげた。また、生徒さんの映像を、その実家のお母さんに見せたら、涙ながらに喜ばれた(当時は通信手段が電話ぐらいしかない時代だから…)。
  • どういうわけだか難民キャンプに行こうと思い、実行した話。
(2001年2月、鈴木貴子撮影)
上:ウンピェン(Umpiem)キャンプ遠景。
下:同キャンプ 右側に孤児院の男子棟、向かいに女子棟、坂の下に病院がある。
ウンピャン・マイ(Umpiem Mai)難民キャンプは、タイ・メーソート南方。
(2001年2月、鈴木貴子撮影)
場所はKRC(カレン難民委員会) No.3 キャンプ。
上:難民女性の自助活動のための工房。ここでもロンジー等が買える。縫った人は1着ごとに5バーツもらえ、それを貯めたお金で自分用の民族衣装を買うそう。
下:孤児院。壁には、子どもたち一人一人の写真と年齢、誰に誰を殺されてここに来たかなどが書かれた大きな紙が貼られていた。

難民キャンプ訪問について、鈴木さんは「こうした難民キャンプの写真など、『今はなき過去の記録』となればいいのですが…」と話されました。

  • みんがらネットワークの会報の休刊と復刊、表紙の写真提供の後藤修身さんの話など。
  • 事情により一時休刊していたのを、みんがらネットワークのメンバーに呼びかけて復刊して編集に携わるようになって、このミニコミ誌の制作編集に携わるという夢がかなった。
  • プライベートも、ミャンマー人のバスツアーによく参加した。もちろん夫に連れて行ってもらって。名古屋ダジャンのイベントや、関西バスツアー、富士山に登るツアーなどなど。

ここで、鈴木さんは「持ち時間はあと5分?」と尋ねられ、「予定の半分ぐらいしか言えなかった…案の定、足りていませんでした。ちょっと写真だけ見ましょう」と、駆け足で話を進められた。

■「かけはしとして ~ミャンマーと日本のつながりの試み」のことに話は移っていった 。

「結婚後の夫の里帰りと実家での話」などの写真を示しながら、上記の項目にふれていった。

そして、「夫の里帰りもお伝えしたかった話ですが、その中でも特に印象的だったことの1つ」を語られた。

  • 夫がお世話になった方々のご家庭にお邪魔し、二人で「ガドー(感謝の礼拝)」をしたことで、お世話になった方やご家族が椅子に座る前で、私たちは床に座って両手を合わせ、夫が感謝の言葉を唱え、彼に合わせて一緒に額づくのです。10~20軒くらいでしたように思います。それだけ夫を助けてくれる方がいたということですから、有り難いことだと思い感激しました。

■しめくくりに、鈴木さんのこれから

  • コロナの影響もあり、日本語教室は、今はオンラインレッスンを細々と行うのみ。鈴木さんは、次のようにおっしゃいました。
    「コロナとか政変とかで本当に状態が酷いようになってしまって、本当に苦しい思いをしていますね。それを見ると私はまだ寄り添おうとしても寄り添いきれない外国人なんだなと思い知ったほどで、本当に、日本にいるミャンマーの人は、もうどうにもできないっていう思いでいるのを、見ていてもすごくつらいですよね」
  • でも、この間にも、ミャンマーの人の、仏教的なこと、その親切心や徳、人柄の奥深いことを感じるエピソードがあったと話された。
  • これからは「オンラインで日本語レッスン」「みんがら文庫という名の図書室を作る」「会報のアーカイブ」「後藤修身さんの表紙写真を見せる場」などを実現していきたいと語られた。

ここで発表は終了。質問や感想では、まずカイン(なんみゃけーかいん)さんと鈴木さんの「ミャンマーあるある」話や思い出話に花が咲く。

また「参加者の当時のミャンマー店についての記憶」「行動力に脱帽」「共通点を感じました」など、zoomチャットでの感想が寄せられた。

「みんがら文庫ではどういう本を集めているんですか?」の質問には、「ミャンマー関係の本や資料はジャンルを問わず、今は200〜300冊くらいある。寄贈してくれた人もいて、リストを作っている最中。リブライズという私設図書館のwebサービスに掲載する予定でいる」と鈴木さんは答えられた。

(記事執筆:近藤秀二)
<無断転載ご遠慮ください>

アンドモア
◆鈴木貴子さんからの追加補足情報

当日、公式予定終了後の「懇談会」での話題も含まれています。
(なお、注記のない写真は、いずれも鈴木貴子さん撮影)

在日ミャンマー人グループのバスツアーにて

在日ミャンマー人のコミュニティーに関わったこととして、グループ主催のバスツアーにもいくつか参加しました。とくに思い出に残ったのは次のようなことです。

富士登山ツアーは、いわゆる弾丸登山で、夜7時頃高田馬場をバスで出発、9時頃五合目に到着してすぐ登り始めました。ツアーの幹事をはじめ参加者たちは事前準備も知識もありませんでしたが、私と夫は事前にヘッドライトや酸素ボンベを用意していました。しかし九合目で高山病により下山。Tシャツ短パンで参加していた若者も途中でリタイア。ロングスカートにパンプスで来て、しかも膝を痛めているという中年女性も参加していて、どうなるかと気にかけていましたが、彼女は見事登頂してご来光を拝んだそうで、在日ミャンマー人のタフさを思い知りました。

関西バスツアーでは、生まれて初めて訪れる食い倒れの街のグルメを楽しみにしていたのに、バスが停まったのは大阪城の駐車場。ミャンマー人の旅行では旅先に手料理を持参することがよくあるのですが、このときの幹事もミャンマーのカレーを作って持ってきていました。それが余ったから今ここで食べて、と言われて、街へは行かず、冬空のもと、バスのそばにみんなでしゃがんで冷めきったミャンマーカレーを食べたことは決して忘れないでしょう…。

夫の里帰りの話 ~ミャンマーのお墓参り

夫の里帰りで印象的だったことの一つに、祖母のお墓参りがありました。

実家から車でしばらく行った町外れの草原の一角に、大きな石棺が数十個ほど、ぎっしりと、やや無造作に並べられていました。

石棺に刻まれた名前から祖母の棺を探すために、夫とハトコのお兄さんが他の人の石棺の上によじのぼりながら、あれか、いやこれかと探す様子に日本人としては、なんとも罰当たりな気がしてしまいました…。

ミャンマーの町外れの墓地(2013年8月撮影)

夫の里帰りの話 ~実家の喫茶店

それから、夫の実家の「ラペッイエサイン」のことも、「懇談会」で話題になりました。この「喫茶店」は、夫の祖母が戦前に開いたそうです。

店の様子や料理の写真をお見せしている最中、オンラインサロンの参加者の方が『ミャンマー行きたなってきた~!』とおっしゃっていたのがうれしかったです。

「これぞ!ミャンマー‼」という雰囲気がよく出ている画像とのお言葉もいただき、お見せした甲斐がありました。

また、この時とくに話の盛り上がった、お菓子の写真がありました。コンデンスミルクのような白いソースがたっぷりかけられているお菓子は、「マッラィンロゥン」という、穴なしドーナツのような類のものだそうです。

丸いおまんじゅう型とエクレアのような筒型の2種類が写っていますが、筒型に見えたのは、撮影位置からバット(入れ物)の深さで下半分が隠れていただけで、2つは全く同じものだそうです。

実家の喫茶店の料理(2013年8月撮影)

日本語教室

参加していた日本語教室は現在諸事情により離れ、今は別の日本語教師仲間たちとミャンマーの人たちへのオンラインレッスンを続けています。

そして2023年の1月、ようやく、ウー・ミンガラーこと西田敦さんの法要を行うことができました。亡くなってからまる3年かかってしまいましたが、その間、教室の創設者である西田さんの法要が全くできていなかったことがずっと心残りでした。

高田馬場のミャンマーレストランで、西田さんが教室にいた頃の旧知の生徒さんたちに連絡を取り、同窓会のような集まりとなりました。場所の都合上、全員に声をかけられなかったのは残念でしたが、ミャンマーのお坊様もお呼びし、無事に儀式を行うことができました。

法要の様子。日野市にお住まいのお坊様方においでいただいた。(ミャンマーレストランBaBa Feel ဘဲကင်(焼鴨)にて、2023年1月撮影)

コロナ禍で知ったこと

状況が変わってしまってから、日本にいるミャンマーの人の辛さがひしひしと伝わってき、私自身も心が折れそうになることもありました。

しかし、こんなこともありました。ミャンマーでコロナの感染爆発が起こったとき、ミャンマー人の友人の一人が危篤に陥ったのです。医療も正常に機能していませんでしたし、亡くなるのも時間の問題かと思われました。助かるには、その時点で高度な医療が受けられる限られた病院に行くしかありませんでしたが、そこでの治療費はおいそれとは払えない額でした。それに、たとえ治療が受けられても助かるとは限りませんでした。

彼の奥さんからは毎日のように相談の電話がかかってきました。さあ、どうするか…と頭をかかえていたときに、話を聞いたあるミャンマー人の知人が、ポンと治療費を出してくれたのです。友人の奥様はもちろん、私も夫も驚きました。友人とその知人とは、特に親密だったわけでもなかったのに…。

知人は事業で成功しており、払える額だったのでしょうが、決して安くはなかったため思い切りも必要だったでしょう。また、ミャンマーの人の寄付の習慣や、徳を積むという仏教的な考えもあったでしょう。

しかし、目の前にいる知人を、気持ち一つで助けてくれたことに、ミャンマーの人の、習慣や宗教観を越えた優しさ、そして徳の高さの前に言葉がありませんでした。

かけはしとしての新たな挑戦

1)「みんがら文庫」の設置

数年前から、「みんがら文庫」という、ミャンマー関連書籍をあつめたブックカフェあるいは図書室をつくる準備をしています。

詳しいエピソードはこちらをご覧ください。随時、みなさまに進捗状況のレポートをしていきます。
ミャンマー図書室 みんがら文庫

当日お話した「リブライズ」というサービスの、みんがら文庫のブックスポット(個別ページ)はこちらになります。(Facebookのアカウントが必要)
みんがら文庫

 

さらに、書籍集めや場所探しを続けるかたわら、2023年から単発でシェアカフェを借り、一日ブックカフェの開催をはじめました。
4月、6月は新中野のレンタルギャラリーカフェNICCOで行い、続いて秋から中野のuna camera liveraにて行う予定です。

2)メルマガ配信

メールマガジン「みんがらネットワーク通信」を月に約1回発行しています。いつの間にか配信は50号を超えました。内容は文化、芸術などのイベント情報が中心で、ボランティアや団体の求人広告なども掲載しています。

配信記事は随時募集。掲載は無料です。配信はおおよそ毎月第1,2週末ですので、掲載ご希望の方は前月末までにお知らせください。

読者登録とバックナンバーはこちら

3)みんがらネットワークのアーカイブ

「みんがらネットワーク」誌は2017年に、50号で「発展的休刊」を迎えました。

それまで、この冊子でミャンマーと日本の架け橋を築こうと無我夢中でしたが、もちろん私一人では何もできませんでした。みんがらネットワークや日本語教室のメンバー、その他大勢の関係諸氏の、取材、執筆、翻訳から、印刷製本、販売に至るまで、実に多くの方々の多大なるご協力があってこそでした。この冊子は、日本とミャンマーの友情や愛情がつまった結晶だと思います。

ですので、珠玉の投稿記事や翻訳などをまとめた会報のアーカイブ化もしたいですし、何より、創刊号より表紙写真を撮り続けてくれた後藤修身さんの表紙写真展を開催したいです。

「みんがらネットワーク」誌50号と、付録としてつけたこれまでの表紙写真一覧。

まだまだ、ミャンマーにまつわる出来事や出会ったことについてのエッセーを書いたり、「みんがらネットワーク」のウェブサイトの整備をしたりなど、やりたいことは尽きません。

それが、かつて溺れてもがいていた私を救ってくれた、ミャンマーの人たちやその世界、またそこから知り合った多く人たちへの恩返しになればと願います。そして私がもらったものを他の人たちに伝えるため、これからも歩み続けたいと思います。

これからの「楽平家オンラインサロン」
9月からは、『ビル マ/ミャンマーの 原点を知る』シリーズ全3回です。ビルマ最初の統一王朝の都バガ ンについての前回9月の話に続き、10月11日は、1970年代 後半にその遺跡を取材撮影した写真家井上隆雄氏について、 そして、彼の写真資料のアーカイブ化プロジェクトの試みが語られ ます。さらに、バガンの遺跡を中心に、 1970年代後半のビルマが、同氏撮影の写真で紹介されます。

11月8日の最終回は、「18−19世紀ミャンマー・コンバウン 王朝の歴史を辿る」です。ミャンマー研究の泰斗奥平龍二氏が、豊 富な写真資料で語られます。ちなみに、同朝はミャンマー最後の王 朝です。

なお、開催日時は 、いずれも各月の第2水曜日午後8時からです。
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