2022年11月9日(水)の「楽平家オンラインサロン」は、みんがらネットワークの鈴木貴子さんによる「私の中の『私のビルマ』 〜日緬のかけはしとしての歩み〜」でした。
鈴木さんは、内容を大きく4つに分けて話をされ、それぞれについて、当時のエピソード満載でした。
(写真はいずれも鈴木さんの提供です)
まず、鈴木さんは、上の画像に記してある6つの項目を順に語られていきました。
①:おぼれもがいていた時期
②:日本語教師という仕事
③:日本語ボランティア教室
④:夫との出会い
⑤:ビルマ語教室 〜チェリーミャンマー語教室
⑥:みんがらネットワークとの出会い、そしてミンガラ日本語教室への勧誘
続いて鈴木さんは、「さらに深く~ミャンマーとのつながりの深まり」を話されていった。
難民キャンプ訪問について、鈴木さんは「こうした難民キャンプの写真など、『今はなき過去の記録』となればいいのですが…」と話されました。
ここで、鈴木さんは「持ち時間はあと5分?」と尋ねられ、「予定の半分ぐらいしか言えなかった…案の定、足りていませんでした。ちょっと写真だけ見ましょう」と、駆け足で話を進められた。
■「かけはしとして ~ミャンマーと日本のつながりの試み」のことに話は移っていった 。
「結婚後の夫の里帰りと実家での話」などの写真を示しながら、上記の項目にふれていった。
そして、「夫の里帰りもお伝えしたかった話ですが、その中でも特に印象的だったことの1つ」を語られた。
■しめくくりに、鈴木さんのこれから
ここで発表は終了。質問や感想では、まずカイン(なんみゃけーかいん)さんと鈴木さんの「ミャンマーあるある」話や思い出話に花が咲く。
また「参加者の当時のミャンマー店についての記憶」「行動力に脱帽」「共通点を感じました」など、zoomチャットでの感想が寄せられた。
「みんがら文庫ではどういう本を集めているんですか?」の質問には、「ミャンマー関係の本や資料はジャンルを問わず、今は200〜300冊くらいある。寄贈してくれた人もいて、リストを作っている最中。リブライズという私設図書館のwebサービスに掲載する予定でいる」と鈴木さんは答えられた。
(記事執筆:近藤秀二)
<無断転載ご遠慮ください>
当日、公式予定終了後の「懇談会」での話題も含まれています。
(なお、注記のない写真は、いずれも鈴木貴子さん撮影)
在日ミャンマー人グループのバスツアーにて
在日ミャンマー人のコミュニティーに関わったこととして、グループ主催のバスツアーにもいくつか参加しました。とくに思い出に残ったのは次のようなことです。
富士登山ツアーは、いわゆる弾丸登山で、夜7時頃高田馬場をバスで出発、9時頃五合目に到着してすぐ登り始めました。ツアーの幹事をはじめ参加者たちは事前準備も知識もありませんでしたが、私と夫は事前にヘッドライトや酸素ボンベを用意していました。しかし九合目で高山病により下山。Tシャツ短パンで参加していた若者も途中でリタイア。ロングスカートにパンプスで来て、しかも膝を痛めているという中年女性も参加していて、どうなるかと気にかけていましたが、彼女は見事登頂してご来光を拝んだそうで、在日ミャンマー人のタフさを思い知りました。
関西バスツアーでは、生まれて初めて訪れる食い倒れの街のグルメを楽しみにしていたのに、バスが停まったのは大阪城の駐車場。ミャンマー人の旅行では旅先に手料理を持参することがよくあるのですが、このときの幹事もミャンマーのカレーを作って持ってきていました。それが余ったから今ここで食べて、と言われて、街へは行かず、冬空のもと、バスのそばにみんなでしゃがんで冷めきったミャンマーカレーを食べたことは決して忘れないでしょう…。
夫の里帰りの話 ~ミャンマーのお墓参り
夫の里帰りで印象的だったことの一つに、祖母のお墓参りがありました。
実家から車でしばらく行った町外れの草原の一角に、大きな石棺が数十個ほど、ぎっしりと、やや無造作に並べられていました。
石棺に刻まれた名前から祖母の棺を探すために、夫とハトコのお兄さんが他の人の石棺の上によじのぼりながら、あれか、いやこれかと探す様子に日本人としては、なんとも罰当たりな気がしてしまいました…。
夫の里帰りの話 ~実家の喫茶店
それから、夫の実家の「ラペッイエサイン」のことも、「懇談会」で話題になりました。この「喫茶店」は、夫の祖母が戦前に開いたそうです。
店の様子や料理の写真をお見せしている最中、オンラインサロンの参加者の方が『ミャンマー行きたなってきた~!』とおっしゃっていたのがうれしかったです。
「これぞ!ミャンマー‼」という雰囲気がよく出ている画像とのお言葉もいただき、お見せした甲斐がありました。
また、この時とくに話の盛り上がった、お菓子の写真がありました。コンデンスミルクのような白いソースがたっぷりかけられているお菓子は、「マッラィンロゥン」という、穴なしドーナツのような類のものだそうです。
丸いおまんじゅう型とエクレアのような筒型の2種類が写っていますが、筒型に見えたのは、撮影位置からバット(入れ物)の深さで下半分が隠れていただけで、2つは全く同じものだそうです。
日本語教室
参加していた日本語教室は現在諸事情により離れ、今は別の日本語教師仲間たちとミャンマーの人たちへのオンラインレッスンを続けています。
そして2023年の1月、ようやく、ウー・ミンガラーこと西田敦さんの法要を行うことができました。亡くなってからまる3年かかってしまいましたが、その間、教室の創設者である西田さんの法要が全くできていなかったことがずっと心残りでした。
高田馬場のミャンマーレストランで、西田さんが教室にいた頃の旧知の生徒さんたちに連絡を取り、同窓会のような集まりとなりました。場所の都合上、全員に声をかけられなかったのは残念でしたが、ミャンマーのお坊様もお呼びし、無事に儀式を行うことができました。
コロナ禍で知ったこと
状況が変わってしまってから、日本にいるミャンマーの人の辛さがひしひしと伝わってき、私自身も心が折れそうになることもありました。
しかし、こんなこともありました。ミャンマーでコロナの感染爆発が起こったとき、ミャンマー人の友人の一人が危篤に陥ったのです。医療も正常に機能していませんでしたし、亡くなるのも時間の問題かと思われました。助かるには、その時点で高度な医療が受けられる限られた病院に行くしかありませんでしたが、そこでの治療費はおいそれとは払えない額でした。それに、たとえ治療が受けられても助かるとは限りませんでした。
彼の奥さんからは毎日のように相談の電話がかかってきました。さあ、どうするか…と頭をかかえていたときに、話を聞いたあるミャンマー人の知人が、ポンと治療費を出してくれたのです。友人の奥様はもちろん、私も夫も驚きました。友人とその知人とは、特に親密だったわけでもなかったのに…。
知人は事業で成功しており、払える額だったのでしょうが、決して安くはなかったため思い切りも必要だったでしょう。また、ミャンマーの人の寄付の習慣や、徳を積むという仏教的な考えもあったでしょう。
しかし、目の前にいる知人を、気持ち一つで助けてくれたことに、ミャンマーの人の、習慣や宗教観を越えた優しさ、そして徳の高さの前に言葉がありませんでした。
かけはしとしての新たな挑戦
1)「みんがら文庫」の設置
数年前から、「みんがら文庫」という、ミャンマー関連書籍をあつめたブックカフェあるいは図書室をつくる準備をしています。
詳しいエピソードはこちらをご覧ください。随時、みなさまに進捗状況のレポートをしていきます。
ミャンマー図書室 みんがら文庫
当日お話した「リブライズ」というサービスの、みんがら文庫のブックスポット(個別ページ)はこちらになります。(Facebookのアカウントが必要)
みんがら文庫
さらに、書籍集めや場所探しを続けるかたわら、2023年から単発でシェアカフェを借り、一日ブックカフェの開催をはじめました。
4月、6月は新中野のレンタルギャラリーカフェNICCOで行い、続いて秋から中野のuna camera liveraにて行う予定です。
2)メルマガ配信
メールマガジン「みんがらネットワーク通信」を月に約1回発行しています。いつの間にか配信は50号を超えました。内容は文化、芸術などのイベント情報が中心で、ボランティアや団体の求人広告なども掲載しています。
配信記事は随時募集。掲載は無料です。配信はおおよそ毎月第1,2週末ですので、掲載ご希望の方は前月末までにお知らせください。
読者登録とバックナンバーはこちら
3)みんがらネットワークのアーカイブ
「みんがらネットワーク」誌は2017年に、50号で「発展的休刊」を迎えました。
それまで、この冊子でミャンマーと日本の架け橋を築こうと無我夢中でしたが、もちろん私一人では何もできませんでした。みんがらネットワークや日本語教室のメンバー、その他大勢の関係諸氏の、取材、執筆、翻訳から、印刷製本、販売に至るまで、実に多くの方々の多大なるご協力があってこそでした。この冊子は、日本とミャンマーの友情や愛情がつまった結晶だと思います。
ですので、珠玉の投稿記事や翻訳などをまとめた会報のアーカイブ化もしたいですし、何より、創刊号より表紙写真を撮り続けてくれた後藤修身さんの表紙写真展を開催したいです。
まだまだ、ミャンマーにまつわる出来事や出会ったことについてのエッセーを書いたり、「みんがらネットワーク」のウェブサイトの整備をしたりなど、やりたいことは尽きません。
それが、かつて溺れてもがいていた私を救ってくれた、ミャンマーの人たちやその世界、またそこから知り合った多く人たちへの恩返しになればと願います。そして私がもらったものを他の人たちに伝えるため、これからも歩み続けたいと思います。