シュリークシェートラ(タイエッキタヤー)遺跡
(2015年 魚津知克撮影)
<無断転載ご遠慮ください>
第17回
『楽平家オンラインサロン』
2022年1月12日(水)
20:00〜
ミャンマーの考古遺跡と資料展示
―歴史・国民・民族―
話の内容とプロフィール
すでに6年以上の時間がたってますが、私は、古代国家ピューの関連遺跡をはじめ、いくつかのミャンマーの考古遺跡や博物館の資料展示について、調査したことがあります。
ちょうど、ピュー遺跡群が、ミャンマー初のユネスコ世界遺産リストに登録された(2014年)時期で、急激な社会変化の中での遺跡保全に課題を感じていましたが、そのままとなっていました。
そして、ミャンマーでは、COVID-19の蔓延と軍事クーデターが立て続けに起こりました。ヤンゴンでお目にかかり、京都にもお迎えした師、サンシュエ教授が、病にたおれ逝去されたという知らせを、茫然と受け取りました。
詳細を知ろうとしても、調査現場を共にした方がたとの音信が、極めてにとりにくいです。
あの強烈な日差しの中での経験から、いったい、なにを「語るべき」なのでしょうか。それは、あるいは、「語りえぬ」ものなのかもしれず、非常に苦しいのが正直なところです。
しかし、歴史・国民・民族という、いまミャンマーがたちむかっている問題は、けっしてひとごとではないと思います。
過ぎ去った「とき」、帰らぬ「ひと」を忘れず、なんとかつぶやいておこうと思います。

≪魚津知克プロフィル≫

現在、福井県にて、発掘調査に従事しています。
これまで、兵庫県の大手前大学史学研究所職員、学校法人大手前学園法人本部主任でした。今回の話は、史学研究所在職時の調査に基づいています。
専門は、考古学、考古遺産論、博物館学です。
日本列島の古墳時代を海との関わりから捉える調査研究を進めるうちに、東南アジア、そしてミャンマーの古代国家遺跡に関心を持ちました。
また、考古遺産や考古博物館の現代社会での位置づけについても考えています。

古墳時代と海の関わりについては、「『海の古墳』研究の意義、限界、展望(特集 海)」『史林』100(1)
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/240495

東南アジア古代のの海上交流については、「マレー半島・クラ地峡をめぐる古代交易ルートに関する一考察―地理情報システムを用いた移動コスト分析―」
https://ipsj.ixsq.nii.ac.jp/ej/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=87039&item_no=1&page_id=13&block_id=8

考古遺産論については、「 遺跡の『資料化』と『遺産化』」がリポジトリ等で公開されております。
http://repository.nabunken.go.jp/dspace/handle/11177/3501

(以上、魚津知克)

【参考】
「話し手」の魚津さんは、2013年・2014年・2015年の3回、現場にて調査。
2016年、大手前大学の国際会議への招へいに合わせ、同年開催の世界考古学会議第8回大会に、ヤンゴン大学サンシュエ教授ほか、ヤンゴン大学(2016年ダゴン大学)チョーミョーサッ教授、ダゴン大学 ゾーフョー講師の計3名を招待。
大手前大学の国際セミナーについては、以下を参照。
https://www.otemae.ac.jp/news/6155
世界考古学会議については、共催の日本学術会議、下記の正式報告をごらんください。
https://www.scj.go.jp/ja/int/kaisai/pdf/1608280902.pdf
【楽平家オンラインサロン 第17回報告】
 1月12日開催の「第17回楽平家オンラインサロン」では、現在福井県にお勤めの魚津知克さんが、ミャンマーでの遺跡や博物館調査の経験に基づいて、「ミャンマーの考古遺跡と資料展示:歴史・国民・民族」と題してお話くださいました。70名以上の参加者がありました。
 魚津さんは、ミャンマーとの出会いからお世話になったミャンマーの先生方とのお話、「ピュー」と呼ばれる民族と彼らが残した遺跡、ミャンマーでの調査の概要、博物館展示の問題点など、多岐にわたってお話くださいました。古代から現代ミャンマーの民族問題まで、非常に学ぶことの多い時間となりました。

※特に注記がない場合、ご発表時のパワーポイント資料より画像を転載しています。
ご講演中の魚津さん
 雪が降っている寒い福井県からお話されているので、口がかじかんで滑らかに話せないかもしれないというお断りから話を始められました。
 調査にあたっては、お亡くなりになったサンシュエ(San Shwe)先生、チョーミョーサッ(Kyaw Myo Sat)先生のご助力をいただいたとのことで、謝意を述べられました。今回のお話の構成は以下の通りです。

  • はじめに
  • 第1章:ミャンマーとの出会い
  • 第2章:古代国家ピューの概要
  • 第3章:古代国家ピューに関連する考古資料の調査(2014・2015年)
  • 第4章:ミャンマーの社会変化と資料展示・世界遺産登録
  • 結論:ミャンマーにおける考古資料と「国民の起源」
はじめに
 日本考古学がご専門で、ミャンマーにも関心を持って調査を実施された魚津さんですが、最初に昨年8月にコロナでお亡くなりになった、ヤンゴン大学のサンシュエ先生に哀悼の意を表されました。2016年に、他の2名のミャンマーの考古学研究者と共にサンシュエ先生を兵庫県にある大手前大学で開催したセミナーにお招きしました。その内容は『大手前大学史学研究所紀要』第13号に掲載されています(サンシュエ2018)。同年(2016年)8月に同志社大学で開催された世界考古学会議で、インドやパキスタンの研究者と共に、サンシュエ先生が発表されました。しかし、サンシュエ先生がお亡くなりになった詳しい情報は、COVID-19によるものと考えられますが、現在の情勢では知ることができないとのことです。
 ヤンゴン大学考古学科のFacebookの公開ページ(下の写真)をお示しになり、大学を意味するビルマ語のテッカトーに発音と関係のないLの文字が入っていることに疑問を持たれたそうです。調べた結果、その理由は、パーリ語のタッカシラー(Takkasilā)からきており、それはパキスタンにある古代仏教遺跡のタキシラ(Taxila)が語源でした。サンシュエ先生が大手前大学でのご発表の際に、ピュー文化の起源についてタキシラを挙げておられ、当時はパキスタンとミャンマーは関係がないように聞いていたが、今回テッカトーの語源についてFacebookを通じて気づかされたのは、控えめで物静かなサンシュエ先生から「ミャンマーの古代文化をもう少ししっかり勉強しなさい」と言われた気がしたとのことです。
<https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=2042491902565630&id=230157053799133>より

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第1章 ミャンマーとの出会い
①バングラデシュ・コックスバザールにて(2009年)
 ミャンマーに関心を持たれたきっかけは、実はバングラデシュでのご経験だったそうです。2009年にバングラデシュの南東の端にあるコックスバザール(Cox's Bazar)で、船舶解体の社会学的な調査に同行された際、魚津さんのご専門である日本の古墳時代とはあまりにもかけ離れており、途方に暮れたそうです。ベンガル語が溢れていたコックスバザールの中に仏教僧院(以下の写真)があり、魚津さんはそこで初めて隣国の文字を目にされました。
Aggamedha Monastery(အဂ္ဂမေဓါကျောင်း)
②はじめてのミャンマー(2013年)
 ミャンマーに対して徐々に興味がわいてきた魚津さんですが、古代ミャンマーの状況を知るための資料が少ないことに気づかれました。東南アジア考古学といえば、日本の研究者はベトナムやカンボジアをフィールドとしている方が多く、ミャンマーの古代国家を対象としている日本の考古学者はほぼいないのが現状です。2012年に田村克己さんに相談され、アドバイスをいただき、2013年2月に田村さんがミャンマーを訪問される際、「まず現地に行くことが肝心」という連絡をいただいたそうです。そこでサンシュエ先生にメールをしたところ、「ヤンゴン大学に来なさい」というお返事をいただきました。これには田村さんも驚かれたそうです。ヤンゴン大学は1988年の民主化運動の拠点だったので、長らく閉鎖されていました。その大学に「来なさい」と言われたので、戸惑うのも当然のことです。
 ただ、実際に行ってみると、以下の写真のような光景に驚かされたそうです。事情を聞くと、別の女子大の卒業式に大学ホールを貸し出していたとのことです。これも民主化が進んだ結果だと思います。大学自体も久しぶりの学生の受入で、急いで改修を行っていたそうです。このように調査を始めた経緯をお話くださいました。
ヤンゴン大学構内でサンシュエ先生とネスカフェののぼり

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第2章 古代国家ピューの概要
①世界史の中のミャンマーと日本
 続いて『標準世界史年表』(吉川弘文館)を示しながら、世界史におけるミャンマーの扱いについて紹介されました。対外交渉における中国との関係について、日本から唐への公的な外交交渉と南のピューから唐への外交交渉、そして日本とミャンマーが共に元から攻められたことを例に、ミャンマーと日本との間で歴史的な共通点が見出せることを示されました。
 それから、古代交通におけるピューの位置やピュー古代都市群の世界遺産登録について、次のように説明されました。

②古代国家ピューの歴史的背景
 古代国家ピューは、先に成立したと考えられるラカイン州のアラカン王国やモン州のモン王国などの沿岸国家とは異なり、それらに連なる形でエーヤーワディー川の沿岸で紀元前2世紀頃から徐々に都市形成が始まったと考えられています。ただ、まだ考古学資料による年代観が固まっていないので不明確な部分が多いのが実情です。
 紀元前後、遅くとも3世紀頃までには都市が成立し始めました。そして6~7世紀頃までには、ビルマの年代記で「ピュー」、中国の歴史書で「驃」と呼ばれる国家が成立していたことが文献から分かるが、考古資料からははっきりしたことが分かっていません。ピューはユーラシアの東西を結ぶ陸上や海上交通の結節点として栄えていたと考えられています。
 9世紀後半の『蛮書』には、現在の雲南省西部の保山市から南に75日ほどで驃(ピュー)に達すると書かれています。先月(2021年12月)、中国の一帯一路の具体化の一つとして、中国雲南省の昆明からラオスのビエンチャンまで高速鉄道が開通しました。ビエンチャンからルアンパバーンまで最短で1時間30分なので、恐らく保山-瑞麗-バモーと中国雲南省からミャンマーまで鉄道を通すのは十分可能だと思います。9世紀後半に雲南省西部からピューまで75日かかっていたが、75分とは言わないまでも、恐らく90分くらいで行けると思います。
ともかく、ピューはユーラシア大陸の南の海上ルートで、西洋と東洋を結ぶ交通路の上にアラカン王国やモン王国と並んで位置しています。特に海のシルクロードから川を遡って少し内陸に入っていく、言わば「山と川のシルクロード」に位置していると言えます。それ故、ピューの考古資料は特徴的な可能性を秘めていると言えます。

③ピュー古代都市群の世界遺産登録
 ピューの代表的な遺跡として、壁で囲まれた都市遺跡が挙げられます。主なものは世界遺産に登録された3遺跡、北からハリン(Halin)、ベイタノー(Beikthano)、シュリークシェートラ(Srī Kṣetra)もしくはタイェーキッタヤー(Thayekhittaya)と呼ばれる遺跡です(各遺跡の位置は下図の通り)。この3遺跡は、2014年6月にカタールのドーハで開催された第38回ユネスコ世界遺産委員会において、「ピュー古代都市遺跡群(Pyu Ancient Cities)」として、世界遺産リストに正式登録されました。実はICOMOS(国際記念物遺跡会議)から価値の証明が不十分だとして、登録延期が勧告されていたが、本会議(ユネスコ世界遺産委員会)において逆転で登録され、ミャンマー初の世界遺産となりました。それ以前にも、軍事政権下でバガン遺跡の登録を試みていたが、事実上保留されていました。このバガン遺跡は、2019年にアゼルバイジャンのバクーで開催された第43回世界遺産委員会で正式に登録されました。こうしたバガンの経緯もあり、2014年のピュー古代都市遺跡群の世界遺産登録は、ミャンマーが国際社会と協調していることを示す象徴として、国内外の期待が非常に大きかったと言えます。

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第3章 古代国家ピューに関連する考古資料の調査(2014・2015年)
魚津さんは、このような経緯がある「ピュー古代都市遺跡群」に対し、ベイタノーで2014年2月(登録前)、シュリークシェートラで2014年2月(同じく登録前)と2015年2月に簡単な調査を実施され、その時の内容を以下のようにご紹介くださいました。

①ベイタノー(2014年)
 ベイタノー遺跡は、首都ネーピードーの北西の山地を越えた約80kmの場所に位置します。ベイタノー遺跡に近いコービン(Koe Pin)付近を走るJR北海道の車両を再利用したミャンマー国鉄のキハ141系の写真(以下)を示されました。
 ベイタノー遺跡周辺は少雨で、荒野のような場所です。踏切待ちをしていると、目の前を「学園都市線キハ14〇」という表示を付けた気動車が横切りました。魚津さんは、その瞬間、自分がいまどこにいるのか信じられないと感じたそうです。また、実際に走っている動画がYoutubeにもあるそうです。※リンク先は、「アンドモア」をご覧ください。

(1)遺跡の概要と遺跡博物館
 続いて、ベイタノー遺跡の概要を説明されました。ベイタノー遺跡は、一辺が2.5kmから3kmという、かなり大きな平面で、レンガ積みの外壁に囲まれています。
 画像は、ミャンマー考古・博物館局が世界遺産正式登録用に作成した遺跡地図です。四角い平面をしており、多数の寺院や僧院、墓地などの遺構が発見されています。ため池があったと考えられており、水が少ない地域なので、ため池を利用して水を確保していたと言われています。


僧房・寺院・墓地の遺構
 これまでの発掘で、様々な形をもつ寺院や僧院、墓地などの遺構が数多く発見されています。現地の管理事務所兼インフォメーションセンターには、発掘調査時の状況を示すパネルが展示されていました。出土遺物は、現地のベイタノー博物館に展示・保管されています。魚津さんは日本の鉄製の道具がご専門なので、金属製のものを中心に博物館の展示遺物を観察されました。金属製の遺物としては、銅製や鉄製の釘等があったとのことです。
 こうした鉄製の遺物について、保存処理の状態が良くなく、錆が激しかったそうです。このまま放置しておくと、ボロボロと崩れてしまうような遺物も多く見せていただいたとのことで、鉄の化学的な分析や保存処理に大きな課題があると感じたそうです。

(2)遺跡近隣における現代の土器づくり
 考古資料から離れて、ベイタノー遺跡のすぐ横の集落で見学された現在の土器づくりをご紹介くださいました。南の村(Kokkogwa)の中で行われていたそうです。GPSで正確な場所も記録されたそうですが、今回はデータを見つけ出せなかったとのことです。写真もかなり撮られているので、興味のある方は連絡をいただきたいとおっしゃっていました。
稲わらで覆い焼きをする直前の乾燥段階の写真や土器の拡大写真などを紹介されました。最後に示された上の写真は、まず簡単な人力ロクロで大量生産した手前の「素材壺」を伝統的なタタキ整形で作り直し、仕上げを行っているところだと思われるとのご説明でした。製造工程の分かる興味深い一枚だったので、今回ご紹介くださいました。

②シュリークシェートラ(タイェーキッタヤー)遺跡(2014・2015年)
 続いて、2014年と2015年に調査されたシュリークシェートラ遺跡の概要と出土遺物、製鉄関連遺構等をご紹介くださいました。

(1)遺跡の概要と遺跡博物館
 シュリークシェートラ遺跡は、現在のピェー(Pyay)市の東側に位置します。南北が約4.5km、東西が約3.5kmに及ぶ縦に長い楕円形をしており、ほぼ円形の外壁に囲まれています。出入口となる門が8か所あり、良好に残っています。ただし、壁や門は、何回も建て直しているのが発掘現場を見るとわかります。
 都市はパヤーヂー(Phayagyi)、ボーボーヂー(Bawbawgyi)、パヤーマー(Phayamar)という3つの仏塔に囲まれています。
左からパヤーヂー、ボーボーヂー、パヤーマー
 続いて、都市の西側に位置するルリンチョー(Lulinkyaw)門を紹介されました。ミャンマーの古代都市遺跡に特徴的なカタカナのハの字形に狭まっているのが分かります。防御用の施設であり、「戦象」を防御する仕掛けだと考えられます。実際に門の周辺から鉄板に幾つもの釘がスパイク状に刺さった遺物が出土しています。
ルリンチョー門
釘がスパイク状に刺さった遺物(ヤハンダガン(Yahandagan)村付近から出土:
Report of the Superintendent, Archaeological Survey, Burma For the Year ending 31st March 1924, Pl.IX, Fig.1&2)
タイェーキッタヤー博物館
 現地ではピェー博物館とも呼ばれるこの博物館には、ベイタノーよりも充実した展示があります。博物館に隣接して遺物や碑文の収蔵庫があります。多くの遺物の中で、日本との関係で注目されるのは瓦の展示です。中国系とローマ系(正確にはインド由来)、両方の古代瓦が見られる点が特徴的です。魚津さんにとって日本考古学の恩師のお一人、瓦や寺院がご専門の上原真人先生が1996年に作成の図面を示しながら、その特徴を説明されました。タンミンウーの書籍『ビルマ・ハイウェイ』(秋元由紀訳、白水社、2013年)の原題がWhere China Meets Indiaであり、ピューの遺跡でChina meets Indiaという状況がこの遺物展示によく示されています。
(上原2015)
巨大な鉄釘:高度な鍛冶技術
 その他、目を引く展示は、大きなもので1.3mを超える巨大な釘です。直径10cm程度のおむすびのような大きさの釘頭を、胴部に叩いて鍛冶作業で接合しています。このような接合は前近代では大変難しく、極めて高度な鍛造技術が駆使されたと考えられます。特に大きいもの同士を接合するのは非常に難しく、他の様々な鉄製品を見ても、かなり高い技術で鉄器制作がなされているのが分かり、大いに興味がわいたそうです。

鉄釘の現地保存
 続いて、鉄釘の出土状況について説明がありました。「出る釘は抜かれない」という状況で、現地に一部保存されています。実際は、しっかり打ち込まれているので、抜こうにも抜けないのかもしれません。いずれにせよ、現地保存でも、すぐには劣化しないほど高品質であり、かつ高い強度をもつ鋼を含んだ、素晴らしい素材の鉄だと言えるとのご説明でした。
(2)古代の鍛冶関連遺物と時期不明の製鉄炉
 続いて、このような高度な鉄器生産が行われたと考えられる製鉄遺跡や鍛冶遺跡について、説明されました。2014年に製鉄炉と思われる場所に連れて行ってもらったが調査を行う時間がなく、2015年に簡単な実測調査をされたとのことです。

A 都市遺跡内の遺物包含層
 タイェーキッタヤーの都市遺跡内にあるタベッ(Thabet)村の遺物包含地を紹介されました。そこは王宮と考えられている遺構のすぐ横に位置します。
 タイェーキッタヤー遺跡内には、宗教文化省に属する考古学フィールドスクール、日本で言うと奈良文化財研究所にあたる機関がかなり前から設置されています。大学は教育省に属しているので、発掘のライセンスを得られません。そのため、こうしたフィールドスクールで初めて発掘を経験するそうです。このフィールドスクールとヤンゴン大学の方々に案内していただきました。
 そこで、下の写真の表面採取された椀形滓(わんがたさい:鍛冶炉の底に溜まった不純物の塊)を示され、これが厚さ3mくらい堆積していると伺ったそうです。オーストラリアの研究者が年代測定をしており、間違いなくピューの時代のもので、紀元1世紀から4世紀くらいのものであることが分かっています。
表面採取された椀形滓
B 都市遺跡南西の製鉄炉群(17世紀~?)
 ミャンマーの研究者に都市遺跡の西外れにある製鉄炉の遺構に連れて行ってもらい、測量調査をされました。この製鉄炉は都市の南西の山中にあります。今回は調査された遺跡のうち、ナッシンミャウン(Nat Sin Myaung)を紹介されました。ここは10数基の製鉄炉が集中している場所ですが、城壁の外に出るため、現地に行くまでの風景はのどかなものだったそうです。遺跡への登り口にあった一軒家で休憩していたところ、おやつ売りの行商のおばさんが現れ、作ってくれた甘い蜜をかけたおやつをいただいたそうです。ただ、これが原因かは分かりませんが、翌日に猛烈な腹痛に襲われたとのことです。
ナッシンミャウンの製鉄炉
 この製鉄炉に関するご説明は以下の通りです。地上部分の残りが良いので、本当に古代のものなのか注意が必要です。さらに、図面をとると少し傾斜しているのが分かります。傾斜して製鉄炉を作っているところに特徴があります。傾斜した製鉄炉で鉄が出来ないわけではないが、難しいと思います。先ほどと同じオーストラリアの研究者による炉の年代測定では、17世紀末から20世紀という値が出ています[Hudson 2015]。製鉄炉の残存状況があまりにも良いことを考えると、新しい時代の製鉄炉かもしれません。
ナッシンミャウンの製鉄炉略測図(魚津知克・白石華子作成)
 課題として残っているのは、ピュー時代の優れた鉄製品の原料を作った製鉄炉がどこにあるのかという点です。調査の途中で年月が経ってしまいましたが、これからも調査していきたいとのことでした。

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第4章 ミャンマーの社会変化と資料展示・世界遺産登録
最後に、こうした考古資料が、急激な変化をとげたミャンマー社会の中で、どのように示されているのかについて、特に世界遺産登録との関係を中心に話をされました。

①古代ピュー遺跡群登録(2014)の影響
 ミャンマーで初めて世界遺産登録された「ピュー古代都市群」の構成資産の範囲を示され、その範囲に問題があることを指摘されました。先ほど紹介されたナッシンミャウンなどの鉄生産遺跡は時代が新しい可能性があるとはいえ、西側から南西にかけての丘陵地帯には多くの遺構が残っています。それらが構成資産やバッファゾーン(Buffer Zone:緩衝地帯)に入っていないのは問題があります。現在の構成資産やバッファゾーンにこだわらず、より広い範囲で遺構の分布状況を把握し、詳細な測量や年代決定のための調査が必要だと思うとの見解を述べられました。続いて、遺跡整備と観光地化の進展について話をされました。
遺跡整備の進展
 世界遺産登録を契機に、遺跡整備が着実に進展しています。2014年と2015年の間にも、遺構を覆う覆屋が整備されていきました。ユネスコ世界遺産の表示板や、大手銀行CBバンクの看板も見えます。恐らく社会貢献の一環としての投資活動だと思うが、様々な形で遺跡整備が進んでいるのが分かります。
観光地化の進展
 一方で観光地化の流れも加速しており、2015年時点で急ピッチで進んでいました。1年目(2014年)にはなかったお土産屋が2015年には出来ていて、驚きました。出土品であるブロンズ製の「ピューの楽団」の画像(下の写真)もお土産屋でアイコンとして使用されています。広い範囲の遺跡群なので、急速な観光地化の中で、関連する遺構群をどのように把握し保存していくのかが大きな課題だと指摘されました。
②ミャンマーの考古資料展示における歴史と民族の表象
 次に、もっと広い範囲で、ミャンマーの考古資料展示において、歴史や民族がどのように示されているのかについて話をされました。

(1)多民族国家ミャンマー ボージョーアウンサンマーケットにて
 はじめに、ミャンマーが多民族国家であることを、ヤンゴンのボージョーアウンサン市場で売っているお土産の主要民族の人形(下の写真)を例に示されました。最も人口が多いビルマ族の比率は68%程度であり、ベトナムのキン族(86%)やタイのタイ族(85%)と比べて、明らかに少ないことを、再確認のため提示されました。
(2)「ミャンマー古代国家」としてのピュー考古資料
 こうした多民族国家の中で、ピューの考古資料は、ミャンマー国家の中で、かなり広い範囲、もっと言えば「遍く」に近い形で認められるとされています。魚津さんが確認されただけでも、モン州とカイン(カレン)州の博物館に、そうしたパネル展示がありました。また、アイコンとして、先ほどの「ピューの楽団」のブロンズ像の写真も展示されていました。やはり「ミャンマーの古代国家」として、ピューの考古資料が位置づけられています。
 ベイタノー遺跡の入口には、門番のような「ピューの戦士」と「ピューコイン」のモニュメントがあります。いずれも、ミャンマーの記念すべき初期国家の象徴として、遺跡の入口に置かれています。
(3)各民族の歴史と考古資料
 続いて、モン、カイン、ラカインを例に、各民族の歴史とアイデンティティ、そして考古資料との関わりを説明されました。

A モン州スヴァンナブーミ
 他の民族の歴史を示す考古資料も、ピューと比べると断片的だが、各州の博物館に示されています。モン州博物館の古代遺跡パネルにある、「Suvanabumi Ancient City」を取り上げ、モンのアイデンティティの特徴について説明されました。「Suvanabumi」はサンスクリット語で「スヴァルナブーミ(Suvarṇabhūmi)」、パーリ語では「スヴァンナブーミ(Suvaṇṇabhūmi)」と書き表され、インドの古文献に出てくる「黄金の土地」を意味する地名です。モンを中心にミャンマーでは、このスヴァンナブーミがモン王国の古い都であるタトン(Thaton)であると信じられています。一方、タイでは自国領域内に存在していたと信じられており、スワンナプーム国際空港の名前になっています。

B カイン州:停滞する博物館
 一方で、パアン(Hpa-an)にあるカイン州博物館は、カレン民族の独立運動の影響もあり、2014年時点ではほぼ開店休業の状態でした。また、パアン近郊には、世界遺産になっても不思議ではない壮観なコーグン洞窟(Kawgun Cave)など、優れた文化遺産が多く眠っているだけに、博物館活動の低調さが気になったとのことでした。
パアン近郊のコーグン洞窟
C ラカイン州:ミャウウーの世界遺産登録申請
 最後に、最もセンシティブなところとして、世界遺産正式登録候補として位置づけられているラカイン州のアラカン王国の古都ミャウウー(Mrauk-U)を取り上げられました。このミャウウーは15世紀から18世紀のアラカン王国の都だが、ラカインにはピューと同じくらい古い都市遺跡が幾つか知られています。ピューの古代都市群が世界遺産登録されるなら、当然アラカンやモンの都も登録されるべきだと考えるのは想像に難くありません。タンミンウーの書籍[タンミンウー2021]にも載っている通り、2018年にアラカン王国を称えるデモを行っていたアラカン人仏教徒が警察と衝突するなど、なかなか難しい問題が横たわっています。

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結論 ミャンマーにおける考古資料と「国民の起源」
①国民の起源としての古代国家
 古代国家ピューを称えることは、国民国家ミャンマーの起源を称えることです。ミャンマーにおける仏教の定着を示す遺跡であり、ビルマ族にとっては直接的な系譜はないかもしれないが、広い意味でビルマに繋がるということで、長い歴史を持つモンやラカインに比肩するという意味でも、仏教を中心とした国民国家の統合原理を考えるうえでも、ピューの仏教遺跡は非常に有効な資料になっています。
 続いて、田村さんの発表資料[田村2013]を紹介され、「パガン遺跡の碑文の研究が近代ミャンマーのナショナリズムの起源である」というご指摘を手掛かりに、ミャンマーのナショナリズムには考古資料や考古遺産が大きな位置を占めていることを示されました。

②遠隔交流ルートの強調と軋轢
 ユーラシア大陸の南側を、ローマからインド、東南アジア、中国、そして日本列島とつながる海上ルートの中にあるという考え方は、例えばASEAN、アジア、ひいてはグローバルな考え方を喚起します。その一方で、モンやアラカンといった沿岸の古代国家、ひいては多様な民族や宗教といった民族間や宗教間の定着や軋轢の歴史も同時に示すものとなります。

③調査研究活動と国民国家
 こうした現代的課題に対して、ミャンマーからすると外国人である外国の研究者がどのような立場で調査研究をしたら良いかという点について、最後に話をされました。海外調査を主に進めている丸井雅子と坂井隆の論考の中から、対照的な2つの考え方を紹介されました。

(1)現在に軸足[丸井2014]
 現在に軸足を置く考え方として、「考古学者自身も帰属する国家から解放されることはなく、考古学者とフィールドとの関係性は否応なしに国民国家の一員としての立場から立脚される」という丸井の論文の一節を示されました。国の看板を背負っていることを自覚すべきという点は、日本で活動するわれわれは見落としがちで、まさにおっしゃる通りだと思います。ただ、遺跡を発掘して目にする土器や石器などの考古資料は、あくまで過去の失われた社会、帰らぬ人々のものだと考えるので、「存在そのものは現代の国家に規定されている」と言い切ってしまうと、見えるものも見えなくなってしまうおそれもあり、過去と現代とのギャップは一方で留意すべきだと感じると述べられました。そういう意味で、「現場で目にする「失われた驃国」の資料」とスライドでは示されていました。

(2)過去現在双方に軸足[坂井2017]
 過去と現在両方に軸足を置けば解決するわけでもありません。「過去の遺産自体と現代国家が一致することが稀」だから、現代の国家はできるだけ相対化するべきだという坂井の論考の一節を紹介され、では国民国家を離れて誰が文化を守るのかが問題となることを指摘されました。ミャンマーは国家の枠組み自体に対して、人々が本当に真正面から立ち向かっています。それは、守りたい文化や社会が目の前にあるからだと指摘されました。そのような状況も踏まえて、「それでもいま、文化と文化遺産を守るミャンマー、日本…」とスライドで示されました。

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おわりに
 根本的な矛盾、現在と過去の間にはいろいろなものが横たわっています。そういったことをミャンマーの古代遺跡やミャンマーの土地、ミャンマーの先生方が教えてくれました。問題はあまりに大きく、それにミャンマーの方々は立ち向かっているので、語りえぬものがあまりにも多いと考えています。調査から帰る時、夕暮れの中で感じたように、どうにもつかみどころがないが、引き込まれそうな、何とも言えない感覚だけが残ります。エーヤーワディー川を望む夕暮れの写真を示されながら、このように話をされました。
 ミャンマーのことを考えてお話するのは久しぶりでした。その間、本当にいろいろなことが起こりました。このスライドのような写真はもう二度と撮影できないかと思うと、本当に何とも申し上げようがありません。やはり、ピューの古代遺跡のように、「とき」は過ぎ、「ひと」は帰りません。しかし、まだあの経験から語れる「こと」は残っており、語るべきだとこの写真から語りかけられているような気がします。これからも考えをまとめていきたいと思いますので、いろいろと教えていただきたいと思います。このようにお話を締めくくられました。
2014年2月にヤンゴン大学で撮影された写真

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質疑応答
Q(司会のナンミャケーカインさん):
高校のときミャンマー史と世界史をとっていて、本日ご紹介くださった3つの遺跡(ベイタノー、ハリン、タイェーキッタヤー)とも学んだことはあるが、写真などで見たことはありませんでした。鉄の技術が発達していたことも習ったことを思い出しました。本日は写真を見ることができて、記憶が蘇ってきました。遺跡を守り保存する作業は技術やお金がかかります。後発国であるミャンマーなどの発展途上にある国が、文化や遺跡を守っていく際のあるべき姿について、魚津さんの考えがあれば教えていただきたい。

A:
ご指摘のような議論は、例えばユネスコでも検討されている課題です。今は幅広く、国際的な支援のプログラムがあります。現在の状況を考えると、なかなか簡単に申し上げにくいが、国毎、もしくはコミュニティー毎にどうあるべきかを考えながら進めていくべきで、正解はないと思います。その一方で、裏付けとなる調査や研究も進めていく必要があると思います。

Q:
2点あります。1点目は、2009年にラカイン人に案内してもらい、コックスバザールの寺院に行ったことあります。その際、ミャンマーやビルマという言葉は使いづらい雰囲気であり、あくまでラカインの仏教寺院という扱いでした。魚津さんが現地のラカインの仏教寺院を案内されたとき、どのような説明を受けたかについて伺いたい。現地の案内人がラカイン仏教と説明されたのか、魚津さんが訊かれた際に、海外の研究者に対する回答としてミャンマーの寺院と説明されたのか、少し齟齬が生じるように思います。2点目は、古代遺跡で鉄器が出た場合、調合するときの度量衡は分かるのでしょうか?どの材料をどれくらい入れるのか、分かるものだろうか?今のミャンマーだと、ビス(viss)などを使うが、古代遺跡の場合、どのような単位でいろいろなものを調合していたか伺いたい。

A:
1点目について、バングラデシュの社会学が専門の研究者に案内していただいたが、ミャンマーというご説明で、ラカインとは言っていませんでした。バングラデシュの方であれば、このような言い方になると思います。2点目の度量衡について、それを示すような遺物、例えばおもりなどが出てくる必要があります。また、化学的な分析になるが、元素などの成分を調べて素材を追求するという方法もあります。2つの方法があるが、両方とも古代ピューの関係資料では調査が進んでいない状況です。まだこれからだが、きちんと調査すれば大きな成果が上がると思います。


上記の質問者である宇田有三さんからはZoomを通じてボーボーヂー・パゴダの写真も送られてきました。遺跡に行かれる方は日中や夕方が多いと思うが、早朝が非常に美しくお勧めとのことでした。
宇田有三さんが送ってくださった
早朝のボーボーヂー・パゴダの写真
Q:
遺跡のカタカナ表記に迷われるとのことでしたが、現地語ではタイェーキッタヤー、サンスクリット語ではシュリークシェートラと表記するのが良いと思います。シュリーは「吉祥なる」、クシェートラが「土地」を意味します。世界遺産には3遺跡が登録されており、ご発表ではベイタノーとシュリークシェートラを紹介されたが、3遺跡のうち残るハリン遺跡を含め、他のピューの遺跡は行かれたことがあるのでしょうか?また、考古学の立場から見て、「ピュー」の遺跡に共通する特徴は何があるでしょうか?

A:
ハリンは行ってきません。シュリークシェートラの外側を中心に調査しました。次はハリンに行くように言われたが、行けなくなってしまいました。ピューの範囲の問題も難しく、様々な立場や国の研究者との関係があり、何とも言えません。広く言えば、幾つかの文化要素で括れると思います。日本の古墳時代や弥生時代も見方によって異なってきます。それを教科書で弥生時代とか縄文時代と教えているから、一体性があるようなイメージが形成されます。ミャンマーのピューだけでなく、どの文化もそのような要素はあるが、どのように教えるかによっても左右されると思います。これからきちんと調査をしなければなりません。現地では「モン」や「カレン」、「ピュー」と書かれるが、そこには難しい問題が横たわっているように思います。

Q:
ミャンマーの考古学や発掘調査をめぐる状況について質問させていただきます。考古学者の方は海外留学した方が多いのでしょうか?あるいはミャンマーで教育を受けた方が多いのでしょうか?また、発掘調査はミャンマーだけでなく海外との合同調査で実施するのが多くのパターンなのでしょうか?その場合はどの国がかかわることが多いのか、教えていただきたく思います。遺跡保存の海外からの支援などの状況も併せて教えていただければと思います。

A:
長い軍事政権下では、海外留学は難しく、短期間の例はありますが長期間した研究者はほぼ皆無だったと思います。民主化以降は海外留学が一挙に増加しましたが、今後は非常に心配です。遺跡保存については、正確にはイコモス(ICOMOS:正式名称はInternational Council on Monuments and Sites(国際記念物遺跡会議)、文化遺産保護に関わるユネスコ諮問機関としての国際的なNGO)やユネスコの関連するところを調べる必要があります。クーデターの前までは、様々な共同調査が実施されていました。多いのは英国やオーストラリアです。ミャンマーの研究者も国際交流を楽しみにしていると思います。遺跡保存についても、様々なプログラムが実施されていました。

Q:
ミャンマーにおけるユネスコ世界遺産に対する社会的な反応をどのようにみられていらっしゃいますか?日本での「世界遺産検定」のような扱いをする状況と比較して、如何でしょうか?

A:
世界遺産に対する反応はどの国もある程度似ています。一つの国際的なプレゼンスとしてあると思います。グローバルな枠組みとローカルな枠組みとして、お国柄を反映しつつ、共通している部分もあれば、違うところもあると思います。

Q:
「ピュー」は普通話(北京語)で驃(ピャオ)(四声)です。馬偏であるように、馬が勇ましく走る様を意味する文字が当てられていますが、馬との関係が深く、共に生きていた民族と考えられますか?中国では、まったくの想像かもしれませんが、そのイメージで「ピュー」のドラマが作られ、放送されたこともあります。

A:
これについては初耳です。ピューと中華世界の関係は全く調べてなかったので、これから勉強していきたいと思います。可能であれば、事後の共有等で教えていただければと思います。

質問者の石谷崇史さんからドラマに関する情報の共有がありました。タイトルは《舞乐传奇》で、CCTV(中央電視台)の制作とのことです。以下のURLから視聴可能です。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLIj4BzSwQ-_vBEipwYSgPVmSJ2z6CDouG


最後に、司会のナンミャケーカインさんから以下のような感想がありました。世界遺産登録されてからあまりアピールがなされておらず、もっと宣伝等をして多くの人に知ってもらいたいという気持ちがありました。また、多くの人に知ってもらえば、観光客を引き寄せることにもつながります。観光客が多くなると、これまでのように遺跡保存に目が行き届かなくなるという課題もあります。現在のミャンマーの不安定な情勢では、観光客が来られませんので、現地に足を運んで直に自分の目で見られるという幸せな時期があったと、感慨深くお話を拝聴しました。こうした調査や研究ができる日が戻ることを祈っています。

さらに、魚津さんは、ヤンゴン大学のウェブサイトを見たが、やはりクーデターの影響は大きく、非常に憂慮すべき状態ですが、交流はぜひとも継続していきたいとおっしゃっていました。世界遺産登録のこともあるので、何らかの形でプログラムが継続されるであろうし、海外に留学しているミャンマーの方はおられるようなので、考古学分野での研究の継続はある程度期待できるとのことでした。

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参考文献リスト
この報告記事に関連する参考文献は、以下の通りです。

  • 上原真人. 1996.「ミャンマーの瓦」『奈文研所内報』247: 6-9(上原真人. 2015.『瓦・木器・寺院』すいれん舎 pp.238-241に収録).
  • 坂井隆. 2017.「文化遺産は誰のものか: 東南・東アジアの4世界文化遺産の帰属問題」『日本考古学』43: 121-133.
  • サンシュエ. 2018.「ピュー文化とその歴史遺物」『大手前大学史学研究所紀要』13: 21-34.
  • 田村克己. 2013.「ミャンマーにおける文化政策と博物館」『アジア太平洋地域における無形文化遺産の現状と課題』(無形文化遺産シンポジウム資料)アジア太平洋無形文化遺産研究センター.
  • タンミンウー著. 秋元由紀訳. 2013.『ビルマ・ハイウェイ: 中国とインドをつなぐ十字路』白水社.
  • タンミンウー著. 中里京子訳. 2021.『ビルマ: 危機の本質』河出書房新社.
  • 丸井雅子. 2014.「世界の中の日本人考古学者: 東南アジアのフィールドから」『考古学研究』61(3): 29-38.
  • Hudson, B. 2007. "Sriksetra survey map 2005-2007", SOAS Bulletin of Burma Research. Vol. 5 No. 1.
  • Hudson, B. 2012. "A Thousand Years before Bagan: Radiocarbon Dates and Myanmar's Ancient Pyu Cities", in Early Myanmar and Its Global Connection [conference], Bagan Archaeological Museum, 13-14 February 2012. Organized by the Nalanda-Sriwijaya Centre of the institute of Southeast Asian Studies, Singapore (in Goh, G. Y., Miksic, J. N., and Aung-Thwin, M. (eds.) 2018. Bagan and the World: Early Myanmar and Its Global Connections, Singapore, ISEAS-Yusof Ishak Institute: 88-121).
  • Hudson, B. 2015. "Five New Radiocarbon Dates from Myanmar", AINSE grant 15012, Run 436, via the University of Sydney from the Australian Institute of Nuclear Science and Engineering, processed at ANSTO, the Australian Nuclear Science and Technology Organization. A report to the Myanmar Department of Archaeology & Ministry of Culture, 15 June 2015.
    (記事執筆:寺井淳一)
    <無断転載ご遠慮ください>
    アンドモア
    〇魚津知克さんの近年の研究内容

    • 魚津知克 2015 「ミャンマー」『イスラームと文化財』 新泉社 pp.272-280
    • 魚津知克 2015 「考古学資料と文化遺産との関連性が防災に果たす役割」『紀伊の 地大いに震う』平成 27年度秋期特別展記念シンポジウム予稿集 和歌山県立紀伊風土記の丘 pp.35-46
    • 魚津知克 2017 「鉄製農具」『モノと技術の古代史』金属編 吉川弘文館 pp.101-141
    • 魚津知克 2017 「『海の古墳』研究の意義、限界、展望」『史林』第100巻第1号 pp.178-211
    • 魚津知克 2018 「漁具資料からみる古墳時代の生業様相、対外交渉、統治理念」『 日韓交渉の考古学 古墳時代 最終報告書』 「日韓交渉の考古学―古墳時代―」研究会・「韓日交渉の考古学― 三国時代―」研究会 pp.694-707
    • Tomokatsu Uozu 2019, Archaeological Heritage Management in Japan, Heritage Management and Cultural Tourism in India and Japan, New Delhi, pp.331-348

    〇今回のお話しの参考資料

    【文献】
    • 青木 敬 2013 「ミャンマーの考古遺跡」『考古学研究』第60巻第2号 pp.96-98
    • 石川和雅 2021 「政変後ミャンマーの文化遺産行政」『ICOMOS Japan information』Vol.11, No.11 pp.15-16
    • 伊東利勝(編)2011 『ミャンマー概説』 めこん
    • 上原真人 1996 「ミャンマーの瓦」『奈文研所内報』第247号 pp.6-9(上原真人 2015『瓦・木器・寺院』
    • すいれん舎 pp.238-241 に収録)
    • 魚津知克 2015 「ミャンマー」『イスラームと文化財』 新泉社 pp.272-280
    • 川田順造 2010 『日本を問い直す』 青土社
    • 坂井 隆 2017 「文化遺産は誰のものか : 東南・東アジアの4世界文化遺産の帰属問題」『日本考古学』第43号 pp.121-133
    • 桜井由躬雄 2006 『前近代の東南アジア』 放送大学教育振興会
    • サンシュエ 2018 「ピュー文化とその歴史遺物」『大手前大学史学研究所紀要』 pp.21-34
    • 髙谷紀夫 2015 「ミャンマーの文化政策」『アジアの文化遺産』 慶応義塾大学東アジア研究所 pp.
    • 辰己眞知子 2000 「ミャンマーの都市遺跡」『立命館地理学』第12号 pp.57-68
    • 田村克己 2013「ミャンマーにおける文化政策と博物館」『アジア太平洋地域における無形文化遺産の現状と課題』無形文化遺産シンポジウム資料 アジア太平洋無形文化遺産研究センター
    • タンミンウー2021 『ビルマ 危機の本質』 河出書房新社
    • 新田栄治 1996 「ブッダとシヴァの都市」『講座文明と環境 第4巻都市と文明』 朝倉書店 pp.121-136
    • 丸井雅子 2014 「世界の中の日本人考古学者―東南アジアのフィールドから―」『 考古学研究』第 61 巻第3号pp.29-38
    • 三浦恵子 2017 「ミャンマー、ピュー族の古代都市シュリー・クシェートラ:記憶、伝承、遺産と村落共同体」
    • 『早稲田大学大学院 文学研究科紀要 第 62 輯』 早稲田大学大学院 文学研究科 pp.527-547

    • Aung Thaw, 1968, The Excavations at Beikthano, Yangon: Ministry of Union Culture, Revolutionary Government of the Union of Burma
    • Department of Archaeology and National Museum, Ministry of Culture, Myanmar 2014, World Heritage, Pyu Ancient Cities: Halin, Beikthano, Sri Ksetra
    • Hudson, B, 2007, Sriksetra survey map 2005-2007, SOAS Bulletin of Burma Research, Vol. 5 No. 1
    • Hudson, B, 2012, A thousand years before Bagan: radiocarbon dates and Myanmar's ancient Pyu cities.
    • Hudson, B, 2015, Five New Radiocarbon Dates from Myanmar, AINSE grant 15012, Run 436, via the University of Sydney from the Australian Institute of Nuclear Science and Engineering, processed at ANSTO, the Australian Nuclear Science and Technology Organisation. A report to the Myanmar Department of Archaeology & Ministry of Culture, 15 June 2015 (https://sydney.academia.edu/BobHudson)
    • Hudson B., U Nyein Lwin, 2002, Old iron-producing furnaces in the eastern hinterland of Bagan, Myanmar, University of Sydney (http://www.oldindustry.org/Iron_Info/myanmar_iron.PDF)
    • Moore E., 2009, Place and Space in Early Burma: A New Look at 'Pyu Culture', The Journal of the Siam Society, Vol.97, pp.101-128
    • Moore E., 2011, The Early Buddhist Archaeology of Myanmar: Tagaung, Thagara, and the Mon-Pyu dichotomy. In The Mon over Two Millennia: Monuments, Manuscripts, Movements. Bangkok: Institute of Asian Studies, Chulalongkorn University, pp. 7-23.
    • Moore E., 2012, The Pyu Landscape: Collected Articles. Yangon: Department of Archaeology, National Museum and Library, Ministry of Culture
    • Moore E., San Win, 2007, The Gold Coast: Suvannabhumi? Lower Myanmar Walled Sites of the First Millennium A. D., Asian Perspectives, Volume 46, Number 1, pp. 202-232
    • Pyburn K. A., 2011, Engaged Archaeology: Whose Community? Which Public? In New Perspectives in Global Public Archaeology. edited by K. Okamura and A. Matsuda, New York: Springer pp.29-41
    • Smith L., 2006, The Uses of Heritage. Oxon: Routledge
    • Thein Lwin, Win Kyaing, Janice Sargardt, 2014, The Pyu Civilization of Myanmar and the City of Sri Ksetra, Lost Kingdoms: Hindu-Buddhist Sclupture of Early Southeast Asia, Fifth to Eighth Century, New York: The Metropolitan Museum of Art pp.63-6

    【YouTube】
    ミャンマー国鉄のキハ141系 (←「報告」記事P.8)
    https://youtu.be/PeSOLow0Odo

    【補遺】
    • 寺井淳一 2016「ピュー刻文の内容と年代について」 pp.105-114
    • 同「重要刻文解説(ミャンマー)」 pp.183-192
    以上、深見純正(編)2016『東南アジア史における絶対年代と相対年代の統合に関する研究:7-10世紀を中心に』、2013 ~2015(平成25 ~27)年度科学研究費補助金(基盤研究B課題番号
    25284140、研究代表者・深見純正)研究成果報告書


    〇お話しの後のアフターセッション(懇談会)

    田村克己さんから鍛冶屋の文化がミャンマーにとって意味があるとのご指摘がありました。タガウンの鍛冶屋が家の神(ナッ)になっています。ポッパー山に祀られているマハーギーリはタガウンの鍛冶屋であり、 ポッパー山の形が鍛冶屋の鉄床を表しているように思います。鉄床が天から降ってきて、地上の王権の礎になるというのは、アフリカ ではよくある神話です。そういう意味で、本日ご紹介くださったシュリークシェートラの巨大な鉄釘は大変興味深く、意味があるというご発言でした。田村さんの鍛冶屋に関する論文の詳細は、以下の通りです。

    • 田村克己.1983.「鉄と民俗」網野善彦ほか編『稲と鉄: さまざまな王権の基盤』(日本民俗文化大系 第3巻)小学館: 244-267.

    また、ボーボーヂー・パゴダの写真をご提供くださった宇田有三さんより、バングラデシュとカンボジアとビルマの人々のDNAに重なる部分があることを指摘した論文をご紹介くださいました。これを受けて、魚津さんはビルマ人の起源についてビルマの研究者は中国の青海省あたりと考えるのが一般的であることを紹介され、交流関係があったことを示す一つの証拠にはなり得ると応じておられました。

    このほか、以前オンラインサロンでお話くださった高橋ゆりさんから、鍛冶屋の神について「マウン・ティンデー(Maung Tint De)」であるとチャットに書き込みがありました。これを受けて、田村さんが次のように補足説明をされました。バガンに先立つ王朝と言われているタガウンの町の近くに住んでいた鍛冶屋で、力が強いことを理由に王様が恐れ、この鍛冶屋の妹を妃としました。妹を使って鍛冶屋を王宮に誘き寄せ、火あぶりの刑にしました。この時、妹も一緒に火中に飛び込んで、二人が家の神になったという話です。ココヤシを家の片隅に飾るが、それはマハーギーリ(M ahagiri)とも呼ばれるこの神を表しています。焼かれたあと、ザガワー(Zagawa)という黄色の花をつける木がバガンにあるが、その木の幹に縛り付けられて、エーヤーワディー川に流されてポッパー山の麓に着き、ポッパー山に祀られたという話です 。

    ナンミャケーカインさんから、家の中でこの神を祀る際にろうそくを使わないことは知っていたという発言がありました。田村さんは、その理由としてこの神が火あぶりにあったので火を嫌うためだと補足されました。鍛冶屋はミャンマーの古代史にとって、とても意味があるので、鉄釘について詳しく知りたいとおっしゃられ、他の地域では見られるのかと質問されました。魚津さんは少なくとも日本ではない、またシュリークシェートラの鉄釘は良い鋼を使っており、とても高度な技術で作られているとお答えになりました。

    なお、上述のビルマの人々のDNAについての論文は、宇田さんから、以下の通り、ご教示いただきました。
    'Burmese are a bit Bengali'
    https://www.gnxp.com/WordPress/2018/06/19/south-asian-ancestry-in-southeast-asians/

    [寺井淳一記]
    これからの「楽平家オンラインサロン」
    3月の「最近のバングラデシュ映画ー『メイド・イン・バングラデシュ』公開に先駆けて」、4月の「インドネシアのムスリムの食と暮らし」に続き、5月は、イスラーム・シリーズ第3弾です。 サウジアラビア、マレーシア、インドネシアと、イスラームの国々で合わせて15年に及ぶ生活を経験された田中明さんが、 5月11日(水)に、「未知なるイスラムの生活」と題して、お話をされます。
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