ミャンマー(ビルマ)への初渡航は1983年。以来,通算4-5年になるフィールドワークと,収集したデータに基づくエスノグラフィの記述を人類学の立場から重ねて来ました。またお世話になった現地の人々への恩返しとして,2012年からヤンゴン大学客員教授を勤めています。2021年2月以降の同国情勢に心を深く痛めるひとりです。
今宵のプレゼンは,今年3月6日に実施した広島大学最終講義のrevised version です。
フィールドワークで知見を深めてきたとはいえ,全てを直接対話で入手した一次資料データに基づいて,エスノグラフィとしてまとめることはできません。既存の研究成果や指針となる文献をリスペクトして参考とすることで,設定した研究課題の全体像にアプローチすることができると考えているからです。その際に,問われるのが良質のエスノグラフィを見分ける能力です。自ら執筆したエスノグラフィが良質なものとして引用に値すると認められるように努力する一方で,他の文献を批判的に読みながら,引用に値するエスノグラフィを求めています。テーマの「・・・を求めて」の含意はそこにあります。
ミャンマーというフィールドで,特に注目してきたのは,ビルマとシャンとの関係性です。ミャンマーは多民族国家ですが,文化と社会のリアリティに迫るには,人口に膾炙し,陥りがちな「横並び」の民族観ではなく,民族間関係の特異性や民族内の多様性にも目配りする立体的で柔軟な民族観を基盤にしなければなりません。先輩人類学者の表現を借用すれば,ビルマとシャンは長い間,隣人だったのです。ビルマをより深く知るためにシャンを,シャンをより深く知るためにビルマを視野に入れることは,両者の共通点と差異点,そして連係を分析するためには必要な手続きだと考えています。この手法は,他のカチン,カヤーなどとの関係性についても同様です。今宵は,エスノグラフィの語り方,語られ方,さらにその調査方法と歴史的背景などにも注目して,民族に関わる知識(民族知と呼んでいます)がつくられる構図について,ビルマとシャンを事例に紹介します。
【追記】
写真は,ミャンマー中央部に位置するインワ(アヴァ)から1983年12月に撮影したエーヤワディー河の夕陽です。この地には,かつてシャン系の人々の拠点があったとされ,ビルマとシャンの抗争と交流の場でした。
髙谷紀夫(Takatani Michio)プロフィール
富山県生まれ。鹿児島大学教養部を経て広島大学総合科学部・総合科学研究科他で勤務。
2021年4月より広島大学名誉教授。文化人類学・東南アジア民族学・知識人類学専攻。
1983-1984年文部省アジア諸国等派遣留学生として,ビルマ連邦社会主義共和国(当時)留学。1996-1997年文部省在外研究員として,ミャンマー連邦大学歴史研究センター客員研究員。2012年よりヤンゴン大学客員教授(併任)。
主な著書・論文は次の通り。
- 1982「ビルマの仏教と社会〜仏教の比較考察からの試論」『民族学研究』47巻 1号, 51-71頁.
- 1998「シャンの行方」『東南アジア研究』35巻 4号,38-56 頁.
- 1999『ミャンマーの観光人類学的研究』広島大学総合地誌研究資料センター.
- 2008『ビルマの民族表象〜文化人類学の視座から』法藏館.
- 2008『ライヴ人類学講義〜文化の「見方」と「見せ方」』丸善.
- 2021『ビルマとシャンのエスノグラファーとして』私家版など。