シャンゆかりのインワ(アヴァ)の夕陽
(1983年12月、高 谷紀夫撮影)
<無断転載ご遠慮ください>
第13回
『楽平家オンラインサロン』
2021年9月8日(水)
20:00〜
ビルマとシャンの良質の
エスノグラフィを求めて
発表要旨とプロフィール
ミャンマー(ビルマ)への初渡航は1983年。以来,通算4-5年になるフィールドワークと,収集したデータに基づくエスノグラフィの記述を人類学の立場から重ねて来ました。またお世話になった現地の人々への恩返しとして,2012年からヤンゴン大学客員教授を勤めています。2021年2月以降の同国情勢に心を深く痛めるひとりです。

今宵のプレゼンは,今年3月6日に実施した広島大学最終講義のrevised version です。

フィールドワークで知見を深めてきたとはいえ,全てを直接対話で入手した一次資料データに基づいて,エスノグラフィとしてまとめることはできません。既存の研究成果や指針となる文献をリスペクトして参考とすることで,設定した研究課題の全体像にアプローチすることができると考えているからです。その際に,問われるのが良質のエスノグラフィを見分ける能力です。自ら執筆したエスノグラフィが良質なものとして引用に値すると認められるように努力する一方で,他の文献を批判的に読みながら,引用に値するエスノグラフィを求めています。テーマの「・・・を求めて」の含意はそこにあります。

ミャンマーというフィールドで,特に注目してきたのは,ビルマとシャンとの関係性です。ミャンマーは多民族国家ですが,文化と社会のリアリティに迫るには,人口に膾炙し,陥りがちな「横並び」の民族観ではなく,民族間関係の特異性や民族内の多様性にも目配りする立体的で柔軟な民族観を基盤にしなければなりません。先輩人類学者の表現を借用すれば,ビルマとシャンは長い間,隣人だったのです。ビルマをより深く知るためにシャンを,シャンをより深く知るためにビルマを視野に入れることは,両者の共通点と差異点,そして連係を分析するためには必要な手続きだと考えています。この手法は,他のカチン,カヤーなどとの関係性についても同様です。今宵は,エスノグラフィの語り方,語られ方,さらにその調査方法と歴史的背景などにも注目して,民族に関わる知識(民族知と呼んでいます)がつくられる構図について,ビルマとシャンを事例に紹介します。

【追記】
写真は,ミャンマー中央部に位置するインワ(アヴァ)から1983年12月に撮影したエーヤワディー河の夕陽です。この地には,かつてシャン系の人々の拠点があったとされ,ビルマとシャンの抗争と交流の場でした。



髙谷紀夫(Takatani Michio)プロフィール

富山県生まれ。鹿児島大学教養部を経て広島大学総合科学部・総合科学研究科他で勤務。
2021年4月より広島大学名誉教授。文化人類学・東南アジア民族学・知識人類学専攻。
1983-1984年文部省アジア諸国等派遣留学生として,ビルマ連邦社会主義共和国(当時)留学。1996-1997年文部省在外研究員として,ミャンマー連邦大学歴史研究センター客員研究員。2012年よりヤンゴン大学客員教授(併任)。

主な著書・論文は次の通り。
  • 1982「ビルマの仏教と社会〜仏教の比較考察からの試論」『民族学研究』47巻 1号, 51-71頁.
  • 1998「シャンの行方」『東南アジア研究』35巻 4号,38-56 頁.
  • 1999『ミャンマーの観光人類学的研究』広島大学総合地誌研究資料センター.
  • 2008『ビルマの民族表象〜文化人類学の視座から』法藏館.
  • 2008『ライヴ人類学講義〜文化の「見方」と「見せ方」』丸善.
  • 2021『ビルマとシャンのエスノグラファーとして』私家版など。
【楽平家オンラインサロン 第13回報告】
今回は2021年3月に退職された広島大学名誉教授・ヤンゴン大学客員教授の髙谷紀夫さんから貴重なお話を聞かせていただきました。3月6日に広島大学で行われた最終講義の短縮版となります。タイトルは「ビルマとシャンの良質のエスノグラフィを求めて」で、100名を超える申し込みとなり、急遽いつものZOOMからTeamsに切り替えて開催されました。予想通り、髙谷さんのミャンマー、シャン、人類学、フィールドワークへの愛情がたっぷり感じられる90分間でした。

※特に注記がない場合、ご発表時のパワーポイント資料より画像や図を転載しています。なお、キャプションに撮影場所、時期記載の写真項は、髙谷さん自身の撮影です。

どこででもラポール(信頼関係、つながり、絆)を大切にし、毎年、現地に通い長期にわたるフィールドワーク(髙谷さんの昔の写真から最新情報まで)の片鱗を見ながら、国家とは、国籍とは、民族とは、人類学とは何かを考えさせるお話でした。横並びではない多様性というグローバルな視点から国境、州を越えたシャン族の研究を垣間見ることができました。

ミャンマーとのかかわりは約40年近く。80年代は留学生として、90年代は客員研究員として、そして、2012年からはヤンゴン大学客員教授として、立場を変えながらミャンマーに渡り、1995年からは毎年ミャンマーに足を運ばれています。2019年末以降は訪れることができず、ミャンマーの現状に心が痛むとともに、ミャンマーの友人にいつ会える日が来るのかと危惧されています。今日はミャンマーで撮影してきた写真を通して、ミャンマーに一緒に思いを馳せたいという言葉で始まりました。

「ビルマとシャンの良質のエスノグラフィを求めて」というタイトルに表されているように、「良質のエスノグラフィ」はどういうものかがテーマです。現地調査の結果だけでなく、すでに行われている研究も十分に参考にすること。また、参考するにあたっては、参考、引用する価値のあるものかどうかを見分けること。また、逆に自身の研究が参考され、引用されるような質の高い研究を目指すことが良質のエスノグラフィであると双方向からの視点で述べられました。今日はその視点を念頭に置いて、「良質のエスノグラフィ」とはどういうものかをビルマとシャンを通して考えていきたいと述べられました。
人類学者の理想型/立ち位置
生まれ育って内面化した<あたりまえ>を疑い、新しいフィールドで<異なる>を楽しむ人類学者として、<現場>で考えるフィールドワーカーとして、それから、臨地経験で考えたことを研究成果として言語化するエスノグラファーとしての三つの立ち位置がうまく調和するのが理想的な人類学者であると考えているが、どうやって表現するのかをずっと悩み続けている。その基本はフィールドでの人々との信頼関係(ラポール)にあり、三つの関係がうまく循環することが理想であると述べられました。
二枚の写真の比較(横並びと多様性)
髙谷さんは導入部分で二枚の写真を比較されました。

1983年の国勢調査で135民族が登録された。そのなかの主要8民族、左端のカチンから右端のシャンまでが手をつないでいる多民族の「横並び」の写真が一枚目。団結は視覚化されているが、民族間同志の関係性は見えてこない。
他方で、もう一枚の写真の4人の子供たちは「横並び」ではなく、歴史的ヒントを与えてくれる。子供たちの出自は、左からシャン(中国系)、ネパール系パラウン、シャン系ムスリム(インド系)、シャン(パラウン系)とされ、シャン文化圏を構成している人々の子孫である。現在は、シャン語ではなくビルマ語が共通語になっており、シャンとビルマの歴史的背景が見える。中国とビルマとの関係は2000年前に遡る。ネパール系・インド系の子供たちは、ビルマがイギリスの植民地になった時に移動してきたネパール系のグルカの子孫、あるいはほかの形で移民してきた人たちの子孫。パラウン族は135民族のひとつであり、同胞は、中国56民族のひとつにもなっている。(兵頭千夏さん写真提供)
ビルマとシャンとの関係
それではビルマとシャンとはどのような関係にあるのでしょうか?ビルマを知るためにはシャンを、シャンを知るためにはビルマを知ることが大事であると髙谷さんは話されました。また、ほとんどのビルマ族、シャン族はテラワーダ仏教ですが、歴史的背景から、仏教徒以外のキリスト教徒、イスラーム教徒を視野に入れることも忘れてはいけない。さらに、〈文化〉とは一体何かを考えることも必要と述べられました。〈文化〉は、ビルマ語でインチェー・フム、シャン語でフィンゲー、あるいはピンゲーと呼ばれています。二つの言語は異なる系統のカテゴリーに属しますが、ビルマ語とシャン語の〈文化〉の語源は共通しており、その由来は西洋近代知のcivilization/cultureの翻訳だと考えられています。近代において〈文化〉概念は、「われわれ」を他の人々と類別して独自な良き価値を主張する文脈で活用されてきました。国民文化形成や少数民族文化保存活動などがその具体的な事例です。
シャンとの出会い
髙谷さんとシャンやシャン州との出会いはいつ頃だったのでしょうか。シャン州の日は2月7日。1984年2月7日ヤンゴン大学でシャン州の日のイベントが行われ参加し、そこのステージで歌を披露し、この頃からシャンとシャン州を意識し始めたそうです。この日のイベントの看板はビルマ語、シャン語で併記。司会のヤンゴン大学連合シャン文芸文化委員会書記長の出自はインダ―族(シャン、ビルマのハイブリッド)で、シャン系とは、一民族ではないと認識し、シャンとビルマの両方を見ながら見えるものがあるのではないかと思うようになったそうです。
シャンとビルマの比較事例の紹介
その後は写真を活用してシャンとビルマの事例紹介をして頂きました。
1.入仏門式
シュエダゴンパゴダ、南部シャン州タウンジー(僧籍志願者の手首に糸をまく慣習があるインダ―族)、雲南省西双版納タイ族自治州、タイ王国北部のメーホンソーン県とチェンマイ(ポイ・サンローン/Poy Sang Longと呼ばれ、一部は観光資源化されている)各地での入仏門式の例を紹介。先生のフィールドが、国境を跨いだ広範囲であるということがわかります。

※「アンドモア」もご参照ください。
2.シャンバック
一般的には〈シャン・バッグ/Shan Bag〉と言われているもの。中国でも国境を越えてシャン・バックは使用されていて、織物研究の対象にもなっています。
紹介された文献Elizabeth Dell and Sandra Dudley (eds.) 2003Textiles from Burma featuring the James Henry Green Collection, Philip Wilson Publishers. に掲載されているコレクションは、元軍人James Henry Greenによるもの。アカ、ビルマ、チン、カチン、カレン、ナガ族の織物は、それぞれの民族の物質文化の一部として紹介されているが、シャンに関してはシャン族の織物とは紹介されずに、別途、シャン州地域として分類される形で紹介されている。シャン州は、シャン族だけではなくほかの民族も共生している。シャン語もシャン族だけでなく、交流のあった周辺民族も共通語としてきた歴史がある。民族間関係は奥が深いと、髙谷さんは話されています。

なおシャン・バッグが通称として有名になっているが、シャン州では肩掛けカバンだけでなく他の運搬具が使われていることも忘れてはならないとのことです。
3.シャンヌードル
高橋ゆりさんのプレゼンテーション(第11回『楽平家オンラインサロン』)が参考になった。麵研究には、シャンとビルマの両方の視点が大事。米麺(シャン州)、小麦麵(ほかの地域)、また、麺類文化には中国の影響も大きいこともみのがせない。(吉松久美子2000「ミャンマー・タイのカレー麵伝播と変容における回族の役割」『山崎香辛料財団平成10年度助成金研究報告』を参照)。自分は食べるばかりだが、麺類の語源などからも民族間関係を考えられるとおっしゃっていました。
4.仏陀像(竹糸で造形された仏陀像/乾漆仏)
ピィンウールィン、ラーショー、ヤンゴンにあるシャン寺(9マイル)、パンロン、シュエダゴンパゴダ近くのカンボーザー・タータナー・ベイマン(シャン系の人々のための滞在施設で、北部シャン州のティボー近隣村由来の仏陀像が安置されている。同じような顔立ちをティボーやほかで探すと多い)など。シャン文化圏では、竹糸で造形された仏像が本堂で多く祀られてきていたというのがわかる。タントゥン博士の乾漆仏についての論文(DR. Than Tun 1980 "Lacquer Images of the Buddha (Mam Bhura)"『史録』13号、21-36頁)もシャン文化圏における仏像信仰を考える上で参考になる。この論文は、上ビルマから現在のミャンマーと中国の国境へ乾漆 仏を運搬する行商人に関して述べており、それによると、18世紀から20世紀前半にかけて、上ビルマに仏像造形の拠点があり、主な購入者はシャン州の人々であった。シャン系の人々が住む現在のミャンマーと中国との国境地域では、シャン語で〈ポイ・パラー〉と呼ばれる〈仏像祭り〉が催され、仏像を招請した仏教徒の威信向上に寄与したとの記録がある。〈ポイ・パラー〉に該当するビルマ語である〈パヤー・ブエ〉は、主にパゴダ(仏塔)祭りを意味する。髙谷さんは、仏教の信仰風景は多彩なのであると述べられました。

※「アンドモア」もご参照ください。
ピィンウールウィン 2016.12

パンロン 2017.12
「伝統」文化―形式化・儀礼化・標準化
1. トー(Tow)踊り
2. キナラ・キナリ(kinnara/kinnari)踊り
〈伝統的な〉シャンの無形文化として、トー (Tow) 踊り、キナラ・キナリ(kinnara/kinnari)踊りが知られている。キナラ・キナリは、インド神話由来のキャラクターであり、その踊りを洗練化させてきたのはシャン族だけではないが、このように形式化して、儀礼化、標準化されてきたことを考えるのは大事である。剣の舞もシャン族以外にも伝承されており、同様な例であると指摘されました。
民族と民族内の多様性
"シャン"内の多様性;代表例:文字体系、衣装
"シャン"文化の創造;ヤンゴンでシャン水祭(ティンジャン)
2018年からシャン水祭りも始まった(時代によって変容していく)。
私たちは、多"民族"の文化と社会が、「横並び」に形式化され、儀礼化され、標準化する過程で、"民族"間関係の特異性と、"民族"内の多様性が後景化していく傾向に留意しなければならない。"民族"は目に見えない。だから視覚化された表象(衣装、舞踊、食文化などの物質文化)が注目されると話されました。

衣装を着ているから〇〇民族であるとは限らない。文化は誰のものであるのか。歴史的背景や民族間関係の特異性を忘れないことは、民族を考えるうえで非常に大切なのであるということです。
ビルマとシャンの良質のエスノグラフィの語り手となるために、エスノグラファーとしてのスタンスは?
民族を「横並び」にしてエスノグラフィを書くのが悪いのではなく、多様性の解釈の枠組みを大切にすることと、強調されました。その際に、次の名和克郎の民族論的状況に関する論文と、カチンとシャンの古典的社会誌であるE. R. Leachの文献を引用されました。
民族論的状況をめぐる三構造
植民地時代の文献とウー・ミンナインの研究の重要性
独立後のミャンマー(ビルマ)では、マジョリティであるビルマ族・テラワーダ仏教徒・ビルマ語を母語とする話者がビルマ文化中心主義を支えてきた。実際には、それらに当てはまらない、少数民族、仏教徒ではない人、少数民族言語を母語とする人も少なくない。

現在、ミャンマーをフィールドにしてエスノグラフィを書こうとする場合、イギリス植民地時代の人々(民族論的状況をめぐる三構造③の右上枠内の行政官・軍人・宣教師たち4名など)が書いた文献(西洋近代知の影響を受けている)や、その植民地時代に創立されたBurma Research Societyの学術雑誌、Shway Yoe (J. G. Scottのビルマ語ペンネーム)、E. R. Leach 、M.E. Spiro、M. Nashなど欧米の外国人研究者による文献、そして独立後にビルマ社会主義計画党 (BSPP)が編纂した民族州誌などを引用することがほとんどである。被引用文献の中で特筆すべきは、ビルマ文化にも他の諸民族文化にも調査研究を実践した現地出身の民族誌家ウー・ミンナイン (U Min Naing, B.A.)による研究成果である。彼は数少ない多"民族"知研究者と指摘されました。

良質のエスノグラフィをまとめるには、それぞれの文献のコンテキストや研究方法などを十分考慮した上で引用することが大事である。ウー・ミンナインの研究成果についても、批判的に評価しなければならない。彼もまた「横並び」の民族観から必ずしも逃れられなかったと思われるからである。民族間の共通項、差異をどのように考えるのか。民族内の多様性をどう考えるのか・・・どのように既存の文献を活用するかが問われている。現在のミャンマー(ビルマ)の民族論的状況において、その多"民族"の文化と社会の実像を、どのようにエスノグラフィの語りにしたら良いのだろうかと自ら問われました。
シャン族がシャンを語り始めると言う視点
終盤では、シャン族がシャンを語り始めると言う視点を述べられました。
例:シャン文化圏のカリスマ僧侶による〈伝統〉発掘活動
オックスフォード大学で博士号を取得したオックスフォード・サヤドーの活動が注目。同サヤドーがパトロンとなるシャン (Tai) 文字伝統会議(リック・ロン会議)には、国内各地のシャン知識人だけではなく、インド在住のシャン (Tai) 系知識人もプレゼンター自身も参加している。シャン文字文献は、仏教関係の内容が多いが、過去の生活の様子を描写したものもある。その会議は、2013年から2018年にかけて、毎年末に、ミャ ンマー各地で開催されてきたとのことです。
ミャンマーと中国との国境の町ムセーでは、中国雲南省在住のシャン系 (Tai)族、国内各地のシャン族が集まり、シャン新年祝賀会(カチン族も招待されて出席)が毎年開催されている。歴史的にも空間的にも、交流の波が、現在の州、国境を跨いできた多民族国家ミャンマー。そして、州、国境を超えたシャン文化圏のシャン族の歩みを鑑みれば、ビルマ文化との関係や、西洋知との歴史的関係に留意する複眼的な見方が重要なのであると締めくくられました。
Q&A(質問が多かったため、一部ご紹介いたします)
Q1
多数の写真を通して視覚に訴えるものがありわかりやすかった。文化は固有のものではない。相手がいてこそ自分も見つめられる。シャンを見ることで、ビルマも理解でき、言語、慣習が見えてくる。ビルマ文化を固有化していくと文化が発展しなくなるのはその通りであるが、逆に多様化するが故に固有文化が消滅していく危険性もある。その点はいかがでしょうか。

A:
固有化、標準化するのも課題があるが、他方でだからこそ継承が容易になる場合もあり、多様性の尊重とのバランスを取るのはむずかしい。今回多くの写真を活用したが、写真があっても十分とはいえず、深い説明が求められる。物質文化は、由来の考察が大切になる一方で、それが民族のプライドになったり、自分が何者か文化的基盤を示す根拠になる側面もある。これもバランスがむずかしい。

Q2:
自画像を語るという当事者性が今後一層進展していくと考えられる中、第三者としての視座から調査・分析し言語化する人類学という学術領域の将来について、日本あるいは世界の専門家間ではどのように議論されているのでしょうか。

A:
大事な質問で、一言で議論の内容をまとめる能力はありません。ひとつエピソードを紹介します。ムセーでシャン正月祝賀会がいつ始まったのか議論する場が設けられたのは、当事者と第三者である自分を招いてセミナーをやろうというのがきっかけ。このような意見交換の場を共有することで、より良質な言語化ができるのではないかと期待しています。世界的には、欧米中心の西洋近代知ヘゲモニーが認められますが、日本の人類学は、主に非西洋地域で活躍してきました。研究成果は当事者への恩返しがモットーであると考えています。

Q3:
シャンの文化の一例としてシャン・ズボンも有名だと思います。実はかつてモン族の男性もシャン・ズボンの様なズボンを着用していたと聞きました。1960年代の社会主義時代になって政府による民族地誌が書かれるようになってから、あの赤い格子柄のロンジ―がモン族のシンボルと知られるようになったとのことです。そのため現在でもモン族の民族運動家の方には伝統の「ズボン」を着用し続ける方がいます。この歴史的背景(伝統または近年)について、教えて頂けたら幸いです。

A:
モン族のズボンについては知りませんでした。衣装文化に関しては、固定化、標準化 シンボル化しているカチン・ロンジーのデザインが有名ですが、権力構造との関係で、政治的に解釈されることが多く、歴史的背景への留意は大事ですね。

Q4:
ミャンマー人と話していると、○○は○○民族のだ、とはっきり言う傾向があると感じた。アイデンティティーに繋がると思う。民族の特徴的なものが強調され、象徴的なものを通してアイコン化されている印象を受けた。ミャンマー人が民族ごとに分けて考えている傾向があると感じた。ミャンマー人が多角的な視点を得るにはどうしたらいいか?

A:ミャンマーだけの例ではないのではないでしょうか?分類化に関して生物学者の福岡伸一さんが「世界は分けないことにはわからない。しかし分けてもほんとうにわかったことにはならない」と述べています(福岡伸一 2009『世界は分けてもわからない』講談社現代新書)。日本ではミャンマーではどうなのか。思考回路として、分類することで理解したつもりになっている。分類する、理解するとはどういう意味なのか、原点から考えるべき。ついパターン化してしまうので。

Q5:インレー湖に数十年前から懇意にしているシャン族とインダー族の混血の方がいる。アイデンティティーはどのように感じているのか。

A:
なかなか一般化するのはむずかしい。政府の民族認定、祖先の出自、本人の認識などによっても違うから。

Q6:
良質なエスノグラフィーに対する悪いエスノグラフィーとは何か?「横並び」のエスノグラフィーは悪いのか?髙谷先生はどういうフィールドワークをやったのか?

A:
引用に値するかどうかがひとつの基準であると思う。「横並び」が悪質なのではなく、そこで終わらないこと。自分のフィールドワークでは、実質的にシャン州で定着調査ができなかった。各地を周り、複数の点を結び、線、面にしていく方法を採用してきた。


(記事執筆:億栄美)
<無断転載ご遠慮ください>
アンドモア
今回のお話しの参考資料
  • Boshier, Carol Ann 2018 Mapping Cultural Nationalism: The Scholars of the Burma Research Society, 1910-1935, NIAS Press.
  • Cushing, Josiah Nelson 1914 A Shan and English Dictionary, Rangoon: American Baptist, Mission Press (2nd, orig. 1881).
  • Dell et. al. 2000 Burma: Frontier Photographs 1918-1935 (The James Henry Green Collection), Merrell.
  • Dell, Elizabeth and Sandra Dudley (eds.) 2003 Textiles from Burma featuring the James Henry Green Collection, Philip Wilson Publishers.
  • Enriquez, Major C.M. 1977 (1933) Races of Burma, 2nd, Ava House (Delhi: Manager of publications).
  • Innes, R. A. 1957 Costumes of Upper Burma and the Shan States in the Collection of Bankfield Museum, Halifax, Halifax Museums.
  • Leach E. R. 1976 Political Systems of Highland Burma: A Study of Kachin Social Structure, (orig. 1954) The Alone Press.
  • Min Naing, U, B.A. 2000 National Ethnic Groups of Myanmar, (translated by Hpone Thant), Swiftwinds Services.
  • Mitton, G. E. (Lady Scott) 1936 Scott of the Shan Hills: Orders and Impressions, John Murray.
  • 名和克郎 1992「民族論の発展のために〜民族の記述と分析に関する理論的考察」『民族学研究』57-3:297-317.
  • Scott, J. G., K.C.I.E. 1906 Burma: A Handbook of Practical Information, Alexander Moring Ltd.
  • Scott, SIR J. G. 1932 Burma and Beyond, Grayson & Grayson.
  • Scott, J.G. & H. P. Hardiman (comp.) 1900-1901 Gazetteer of Upper Burma and the Shan States, 5 vols, Government Printing, Burma.
  • Shway Yoe 1910 The Burman: His Life and Notions, (3rd) Macmillan and Co.
  • Start, Laura E. 1917 Burmese Textiles, from the Shan and Kachin Districts, Bankfield Museum Notes, Second Series. No.7, County Borough of Halifax.
  • Taylor, L.F. 1966 (1927) Ethnographical Survey of Burma, Central Press.
  • TAKATANI, Michio 2007 "Who are the Shan?: An Ethnological Perspective", Mikael Gravers (ed.) Exploring Ethnic Diversity in Burma, pp. 178-199, NIAS Press.
  • 髙谷紀夫 1982「ビルマの仏教と社会〜仏教の比較考察からの試論」『民族学研究』47-1: 51-71.
  • 髙谷紀夫 2008『ミャンマーの文化行政と文化遺産に関する歴史人類学的研究』 平成17-19年度 科学研究費補助金(基盤研究 (C)) 研究成果報告書.
  • 髙谷紀夫 2015「ミャンマーの文化政策〜ビルマ文化中心主義と、ある民族誌家の肖像」 鈴木正崇(編)『アジアの文化遺産〜過去・現在・未来』慶應義塾大学出版会, pp.33-72.
  • 髙谷紀夫 2017「シャン民族知と近代」『アジア社会文化研究』18: 35-64.
  • 髙谷紀夫 2020「"ガラスの多文化主義"と少数民族のパブリシティ」 土佐桂子・田村克己(編)『転換期のミャンマーを生きる〜「統制」と公共性の人類学』 風響社, pp. 219-240.
  • Than Tun, U 1980 "Laquer Images of the Buddha", SHIROKU 13: 21-36.
  • Travel Sector Updates 2018 "Yangon's First Shan Thingyan Event", 9 April 2018.
  • 吉松久美子 2020「 ミャンマー・タイのカレー麺伝播と変容に関する回族の役割」 山崎香辛料財団平成10年度助成金報告.
(ビルマ語、シャン語文献は省略)


正式僧とは?~タイとビルマ(ミャンマー)の比較考察
仏陀像(竹糸で造形された仏陀像/乾漆仏)について
高谷さんからの追加の情報提供
広島大学の公式WEBに、拙オンライン講義が掲載されています。
全8回シリーズの第1-1回、第1-2回は、2021年3月の拙 最終講義、そして2021年9月の第13回楽平家オンラインサロ ンと同じコンセプトで構成しています。
(なお第2回以降は、録画と編集作業は終了していますが、202 2年4月時点で未掲載です。)
ご関心のある方は、ご視聴いただければ幸いです。
URL: https://www.hiroshima-u.ac.jp/nyugaku/enhance_knowledge/anthropology_geography
(知を鍛える-広大名講義100選- 人類学・地理学)

別件で、広島県内で長く通ったフィールドのひとつに三次市甲奴町 があります。
2021年3月に、同町の住民でつくる実行委員会が、まちづくり 講演会「甲奴に通って20有余年」を企画し、当方の定年退職をね ぎらってくださいました。
ありがたいことです。その動画がWEB上に掲載されています。ミ ャンマー(ビルマ)やシャン文化圏に加えて、日本でも、広くそし て長く現場に通うことを心掛けてきたフィールドワーカーのもうひ とつの顔です。
URL: https://kounu.jp/2-hp-edit/380-%E3%81%93%E3%81%86%E3%81%AC%E6%94%BE%E9%80%81%E5%B1%80
兵頭千夏さんが 1996 年にシャン州ナムサンで撮影したスナップの子供たちの現在について、高谷さんからの情報発信(「報告」記事3頁参照)
プレゼンの折に、あの子どもたちは現在(いま)どうしてるのだろう?というご質問がありました。
兵頭さんご自身がFacebookを介して近況情報を入手し、小生に報告して下さいました。
4人とも無事でお元気とのこと。安堵しました。
また兵頭さんからの報告は、〈シャン〉とは何?の議論を深める、興味深い内容でした。

兵頭さんが撮影した当時、子どもたちは4-5歳です。
自らの民族的出自をどこまで理解していたかはわかりません。
周囲の人から(左から)「中国系」「ネパール系」「インド系」「パラウン族」と教わり、
そう彼女は理解してきたとのこと。拙プレゼンでもそう説明しました。
時が過ぎ、Facebookを介した「あれから25年」のインタビューから、上記の理解に関して
「一部訂正すべき点と、民族認識のズレがあることが判明した」との情報提供が兵頭さん
からありました。民族認識の文脈での自称、他称、そしてIDカード(国民登録証)の記載
などの間のズレです。
現在29-30歳となった本人たちの自己認識に従うと、次の通りになります。
(左から)「シャン」「ネパール系パラウン」「シャン系モスリム」「シャン」とのこと。
とはいっても、左端の女の子の「シャン」と、右端の男の子の「シャン」とは、必ずしも
イコールではありません。左端の女の子の父親は中国系シャン人ですし、右端の男の子の
母親はシャン+パラウンとのこと。またナムサンというシャン州の中でも、パラウン族が
集住している地域で、右端の男の子が、幼少時周囲から「パラウン族」とみなされていた
背景を考慮すると、周囲からパラウン系と思わせる何か特徴が、彼にあったのかもしれま
せん。またパラウン社会には、シャンと共通してかつて伝統的首長(サオパー)がいまし
たし、過去に周辺のシャン系民族と通婚していたことも知られています。
「シャン」と「パラウン」、さらに「インダー」などのシャン文化圏の住民の民族的自己
認識は、可変的で、用例は多様です。通婚関係があればなおさらです。特に「シャン」は、
歴史的に、シャン文化圏の住民を包括的に認識する際に使われてきたことがあった呼称で
した。英国植民地政府側が、政治的、かつ領域的に「シャン」という呼称を拡大解釈して
きたからとも云われています。
「シャン」と「パラウン」、さらに「インダー」などを〈横並び〉に別の「民族」とみなし
たなら、シャン文化圏における交流のリアリティに迫ることは、なかなかに難しいのです。
4人の子どもたちが、これからも無事に元気でいることを祈念するとともにシャン文化圏
の時間的空間的奥行きを再認識しています。

エピソードの詳細は、兵頭千夏さんのブログに掲載されています。
上記で活用した写真の拡大版の他、フォト・ライブラリーを見ることもできます。
ご参照下さい。
URL: https://myanmardays.com
URL: https://myanmardays.com/namhsan1996_1
これからの「楽平家オンラインサロン」
5月11日は、イスラーム・シリーズ第3弾です。サウジアラビア、マレーシア、インドネシアと、イスラームの国々 で合わせて15年に及ぶ生活を経験された田中明さんが、「 未知なるイスラムの生活」を語られます。

6月8日は、世界を超えて、宇宙のテーマです。北島弘さんが、UFOについて、興味津々のお話をされます。
Laphetye
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