わーい、モヒンガーだ!
(フェイスブックから、高橋ゆり提供)
<無断転載ご遠慮ください>
第11回
『楽平家オンラインサロン』
2021年7月14日(水)
20:00〜
モヒンガーをミャンマーの国民食にした恋愛小説
発表要旨とプロフィール
発表要旨
 モヒンガー はミャンマー人の生活に欠かせない麺料理です。楽しい時もモヒンガー、悲しい時もモヒンガー、この軽食は様々な場で供されています。朝は喫茶店で通勤・通学の前に。午後、小腹がすいたら道端の屋台で一碗を。ホーム・パーティーに来た友人たちをもてなすために、葬儀の後、初七日に僧侶と弔問客を招いた際にふるまわれるのもモヒンガーです。まさにモヒンガーはミャンマーの国民食といってよいでしょう。
 モヒンガーはどのようにミャンマーの国民食になってきたのでしょう。そこでビルマ語で書かれた文学を研究する一人として、私はビルマ語文献の中にモヒンガーのルーツを求めてみました。その結果、モヒンガーは昔はミャンマーの国民食ではなかったことがわかりました。モヒンガーが今のようなレシピでミャンマー全国に知られるようになっていったのはどうも1930年以降らしい、そしてそこには一編の短編小説が大きな役割を果たしているのではないかという思いに至りました。それは現在も多くのミャンマー人から愛読されている作家、ゾージー(1907-1990)の書いた「愛する人」(1934)と題された作品です。ある内気な勤労青年が恋におちた相手、それは小さなモヒンガー屋を一人で切り盛りする若い女性でした。
 参加されたみなさまといっしょにこの小説の抜粋を読みながら、ミャンマーの食文化の一面とその歴史的背景を探るひと時を過ごせたら幸いです。そして今は苦難の時にあるミャンマーの方々が、笑顔でモヒンガーを味わえる日が一日も早く来ることをお祈りしたいと思います。

写真キャプション「わーい、モヒンガーだ!」(追記):
ミャンマーの人気麺モヒンガー。ミャンマー文字の綴りは最近の若者の発音を受けて「ムウィンガー」になっています。
ミャンマー文字の下に見える飾り文字は、Yay (わーい、イェイ!)


プロフィール
高橋ゆり

オーストラリア国立大学 ミャンマー(ビルマ)語学科 講師
明治大学政治経済学部卒業後、アジア関係書籍の編集者を経て日本語教育専門家に。ミャンマーからの学生たちを教えながら彼らの国と文化に関心を持つようになってビルマ語の勉強を始め、その後、東京外国語大学大学院(ビルマ文学専攻)卒業。1991年から1998年までビルマ語専門家として外務省勤務。1992年からヤンゴンで文学研究の延長としてビルマ古典歌謡の歌手としてのトレーニングを始め、現在に至るまでパゴダ祭り他数々の場で公演を行う。1998年からオーストラリア在住。2000年から2016年までシドニー大学で日本語教育を担当する一方、近代ミャンマー文学、思想史の研究を続けた。シドニー大学歴史学科修士号取得。シドニー大学アジア学博士号取得。2016年より現職。
ミャンマー文学の翻訳書を2冊出版しております。どうぞお楽しみ下さい。

『変わりゆくのはこの世のことわり』テイッパン・マウン・ワ作、髙橋ゆり訳
てらいんく刊 2001 年
https://www.amazon.co.jp/%E5%A4%89%E3%82%8F%E3%82%...

『マヌサーリー』ミンてインカ作、髙橋ゆり訳
てらいんく刊 2004年
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%9E%E3%83%8C%E3%82%...

【楽平家オンラインサロン 第11回報告】
去る7月14日、「モヒンガーを国民食に仕立てた恋愛小説」というタイトルで、第11回楽平家オン来サロンが開催された。これは、現在オーストラリア国立大学、アジア・太平洋学部文化歴史言語学科でビルマ語講師をされているビルマ文学研究者の高橋ゆりさんが、シドニーからZOOMを介して講演されたもので、オンラインサロンならではの贅沢な企画となった。参加者の中にはミャンマー研究の先達の先生方、日本のミャンマー研究者、ミャンマーからの方もおられ、90名近くが集った。

モヒンガーが国民食になる過程に、ある文学作品が介在していたという魅力的な仮説だけでなく、その作品がビルマを代表する近代文学作家ゾージーが若き日に書いた恋愛短編小説であり、さらにその翻訳をビルマ古典歌謡のトレーニングも受けた高橋さんの朗読で聞かせていただける等々、ビルマ語でならアルワンピェ(郷愁を癒す)に満たされた1時間半であった。発表要旨には「参加されたみなさまといっしょにこの小説の抜粋を読みながら、ミャンマーの食文化の一面とその歴史的背景を探るひと時を過ごせたら幸いです。そして今は苦難の時にあるミャンマーの方々が、笑顔でモヒンガーを味わえる日が一日も早く来ることをお祈りしたいと思います」というメッセージが添えられていた。
(講演中の高橋ゆりさん)

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[シドニーのミャンマー人コミュニティーの集会でも定番のモヒンガー]
シドニーのミャンマー人コミュニティーで供されるモヒンガー(講演資料より)
高橋さんはまず、シドニーにはそこで生まれた人も含め、1万人近くのミャンマー出身者がいて、週末になるといろんな会合があるが、その時に何を食べるかと言えば、それはモヒンガーであると紹介された。そしてロックダウン真最中のシドニーで何が寂しいかと言って、集いがないこと、それによりモヒンガーがいただけないこと、と話された。

そして今回の発表について、モヒンガーはミャンマーの国民食とみなされているが、なぜそう言われるようになったのか、国民食は作られる…この場合には一編の恋愛小説が介在しているのではないかという仮説に行きついたと話された。

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[モヒンガーとは…]
(講演資料より)
高橋さんはまず、モヒンガーとは何かについて紹介された。

モヒンガーは、ミャンマーのエーヤーワディ・デルタ地方の郷土料理。エーヤーワディ・デルタは縦横に河川が走る湿地帯、稲作が盛んで、淡水魚が豊富に採れる。モヒンガーは、米粉の麺を淡水魚ベースのとろみのあるスープでいただく、特徴としてはバナナの茎の柔らかいところが輪切りになって煮込んで入っていることである。

エーヤーワディ・デルタのミャウンミャ出身のカレン民族の友人は、「エーヤーワディ・デルタのモヒンガーはうまい、ミャウンミャのモヒンガーは特別だ」と言い、実際ミャウンミャ・モヒンガーは一つのブランドになっている。

モヒンガーは現在民族や宗教に関わらず誰でも食べる人気の軽食メニュー。

ミャンマー各地でモヒンガーはいただけ、しかもバリエーションがあり、マンダレーのスープはさらっとしている、上ビルマのモヒンガーは魚がなく鶏肉で作る、豆だけの精進料理のモヒンガー等あり、懐の深い料理である。


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[本当に国民食? アウンラ・ンサンのお墨付き]
国民食モヒンガーとよく言われるが、ミャンマー国民は実際どう思っているのか。高橋さんは、ミャンマー国民が愛する格闘家で、ワンというマーシャルアーツの2つのチャンピオン(ミドル級とライトヘビー級)になったこともあるアウンラ・ンサンのFacebookの投稿を示された。
「日本にはラーメンが、ベトナムにはフォーが、僕らにはモヒンガーがある」とする一文を発見し、ミャンマーの人々が誇りにしている国民食なのだという思いを改めて強くしたと紹介した。

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[モヒンガーの調査を始めたきっかけ]
次に高橋さんは、モヒンガーの調査をするきっかけについて話された。高橋さんがミャンマー語の教員をしているオーストラリア国立大学は、現地でも一番語学のバラエティに富む大学で、ミャンマー語は設置後まだ5年だが、他にアジア・太平洋関係の科目では15ほどあり、モンゴル、中国、日本、ベトナム、タイ、ヒンディ、サンスクリット、インドネシア、オーストラリアから近いパプアニューギニアの公用語の一つトク・ピシンという言葉までもカバーする。

他言語の先生方と話したときに反省したことは、「食べます・飲みます」、という動詞がでてくると、日本語の教材だったら必ず「寿司を食べます」、「納豆を食べます」…という例文がでてくる。タイ語を教える場合はソムタム。語学教育は文化と切り離せず、食べ物学習は重要な分野であるが、それが文化理解のステレオタイプを作り出していないか、押し付けになっていないかという懸念。日本語の教材に必ず出てくる納豆は、しかし、日本特有ではなく、ミャンマーにもあるし、韓国、中国の南部にもある、味付け品としてはアフリカでも広く使われている食材で、日本に特有ではない…。

だとすればミャンマーの国民食と言われるモヒンガーは実際はどうなのか、安易に国民食と言ってよいのか、という疑問から始まった。

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[今は万人のモヒンガー、昔は庶民のモヒンガー?]
また高橋さんはかつて7年間 (1991年~1998年)ビルマ語の専門家として外務省で勤務されており、3年程ヤンゴンに駐在されたが、その時ある国の外交団の1人の方が「ミャンマーではお金持ちの人も貧乏な人もみんな同じものを食べている、どこに行ってもモヒンガーが出される」と言ったことがあり、確かに貴賤に関わらず、誰でも楽しんでいただくのがモヒンガーだと気が付いた。

しかしその後、ミャンマーの著名な歴史家キンマウンニュンがモヒンガーについて「ミャンマーの宮廷料理本にモヒンガーの記録はない」「モヒンガーは庶民の食べ物だった」とする記述を見つけた。

その点について高橋さんは、中国ではお金持ちが米を食べ、庶民は麺を食べるという考え方があり、昔ビルマの王宮があったマンダレーでも、中国の食文化の影響もあったかもしれない。他方でミャンマーの農業史の専門家、高橋昭雄の論を引用し、ミャンマー人はお米を食べると言われているが、それもまた昔のミャンマー人が誰でも本当にお米を食べていたかどうかは謎だ。王朝時代18世紀19世紀のマンダレーではお米を中国から輸入していた。したがってこのキンマウンニュンの記述について、どこまで妥当なのか、庶民がどれほどお米を口にしていたか、麺を食べていたのか等はまだ不明であると述べられた。

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[モヒンガーをビルマ語文献でたどると…]
歴史的に文献でモヒンガーという記述が最初に出てくるのは、19世紀中期に、宮廷の文人僧侶、ウー・ポンニャがアリンガー(ビルマ語の韻文)形式の詩を書いており、その中に、モヒンガーという言葉が残っている。また19世紀前半に、ウー・ミンがモンティという言葉を用いている。どちらの言葉にも共通項があり、麺類を指す言葉であるという。

モヒンガーという言葉は、2つの部分に分けられ、モンは粉、お米か小麦でつくられた食品を指す言葉で、ヒンガーは黒コショウで味付けた、スープのことだ。塩やしょうゆ、他のダシも入っているかもしれないが。黒コショウでピリッと味を付けたもの。

モンティは麺そのもの、もしくは麺料理で、スープに入れたものや、タレと絡めた麺の意味。

ただ、実際にはこれらの原文を高橋さんはまだ読んでいないとのこと。それを読みたいと思って、ヤンゴン大学のビルマ語科の先生方と交信していた時に、クーデターが起きて先生方と連絡を取るのが難しくなった。本当に悲しいと高橋さんは話された。
[モヒンガーを英語文献でたどると…]
さらに英語の文献についてであるが、19世紀の初めから大々的に進出してきた西洋人、イギリス人などは随分ミャンマーの文化を調べて詳細な記録を残しているが、そもそもモヒンガーという言葉について書かれたものが見当たらない。ほぼ唯一ジャドソンというアメリカ人宣教師(19世紀に長期にわたりビルマに住み、英緬、緬英辞典を作った)が1883年に出した緬英辞典にはモヒンガーが載っていた。ただその項目の説明は、「ミャンマーで作られる細麺」としかなく、スープについての言及はない。

その後も1920年代まで、現在のようなレシピのモヒンガーについての記述は、ビルマ語文献、英語文献の中には見つからなかった。

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[モヒンガーについて書かれた小説「愛する人」の登場]
では、1930年代に入るとどうか。実はモヒンガーについて書かれた文献があった。それは短編小説で、エーヤーワディ式の魚とバナナの茎を入れたモヒンガーについての記述を含んでいる。もしかしたらそれがモヒンガーの普及に一役買ったのではないか、と高橋さんは推論をたてられた。

というのも、その短編小説のそもそもの出だしが詳細なモヒンガーの記述で始まるからだという。著者は作家ゾージーで、小説のタイトルは「愛する人」(これから愛する人)だ。

その作品がこの世に登場したのは、月刊誌『ガンダーローカ』(ビルマ語/英語による)においてで、1934年12月に掲載された。『ガンダーローカ』は、ラングーン大学の学生や教員、英語に堪能なビルマ人インテリ層を読者とする雑誌だった。文芸作品の掲載が多く、書かれた当時ゾージーはラングーン大学の大学院生で、ビルマ文学、英文学の両方を専攻していた。

高橋さんはその出だしのビルマ語原文を示された。
次いでその部分の翻訳を示された。そのスライドの右下には、1930年代のミャンマーの若い女性の写真が添えられていて、作品が書かれた当時の女性の装いを窺い知ることができる。服装的には当時のブラウスは身ごろがかなりゆったりしていたのと、ボタンで留めるようになっていて、ガラスや水晶、高価な宝石に付け替えたりと、ボタンが一つのおしゃれであった。髪型も大きな髷を結っていて、時代性が見られる。

そして高橋さんはおもむろに冒頭部分の訳を朗読された。
さらに朗読は続いた。
高橋さんはここで、朗読を止められ、「愛情がすれ違っている。バミャインはチョセインを好きだったけれど口にできない、チョセインもバミャインに好意を持っていたけれど、バミャインがなにも言ってくれないので、自分の思い過ごしかしら、と思うようになってしまった悲劇…」と解説された。

さらに高橋さんは朗読を続けられた。(中略の後、続き)
高橋さんは再びそこで朗読を止められ、翻訳の左下に配置された絵について説明された。それは1935年のビルマの高校の教科書に掲載されていたもので、当時のファッションと背景にはのどかな田園風景も見られる。そして、さらに朗読を続けられた。
高橋さんは、そこで「なにか起こりそうです、どうなるのでしょうか」と言ってから、朗読を続けられた。
そこで高橋さんは続きを次のように解説された。

「バミャインは叔父の仕事のお供をして出かけてしまう。村から町へ、たぶんエーヤーワディ・デルタの町なのでしょう。そして早速市場に行ってボタンを買おうとする。しかし村に帰る暇はなく、叔父についてそのままラングーンに行く。ラングーンではシュエダゴンパゴダに行って、そこですてきな水晶のボタンを見つける。それを買ってお土産に持ち帰ることにする。旅は思ったより長引き2週間くらいになって、ある夜遅く叔父と一緒にバミャインは村に帰ってきた。

そこで自分が買ってきた水晶のボタンの一揃えを掌に広げて月の明かりに照らしてみたり、朝が来ればチョセインにそれをプレゼントしようと、考えたりしていたときにちょうど友達が道を歩いてきた。なぜこんなに夜遅く歩いているんだ、と言ったら、お通夜の帰りだよ、という。「お通夜?誰の?」と尋ねると、チョセインのお通夜だ…という。一体何が起こったのか、事故だったのか病気だったのか、小説には何も書かれていない。ボタンのお土産を渡すこともなく、村を留守にしている2週間ほどの間に、チョセインは亡くなっていた…」

そして小説の最終部分を朗読された。

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[小説の時代背景と出版]
朗読を終えた高橋さんは、この小説の時代背景と出版事情について紹介された。

この小説が書かれた昭和10年頃、日本でも戦争の足音が聞かれる時期、太平洋戦争が始まる不穏な時代。当時ミャンマーは植民地時代で、1929年の大恐慌の影響がエーヤーワディ・デルタにも大きな影響を与えた。それまで富をもたらしていたビルマの輸出米の価格が下落し、小作人はもとより、農家、精米所などが経済的に大打撃を受けた。ゾージーはそのエーヤーワディ・デルタのピャーボンの出身で、そこも植民地時代の米の集積地であった。

ゾージーは1930年代、ラングーン大学の学生で、学生たちの仲間、教師らとともに、キッサン・サーペー文学運動を始める。この運動の特徴は、ラングーン大学から始まった点、英語に堪能なビルマ人の青年たちが、新鮮な感覚でビルマ語を試験的に書いた新しい感覚の小説、詩であったという点である。それをキッサン・サーペーと呼ぶ。雑誌に掲載された翌年、「愛する人」はキッサン・サーペー作家(実際は自分の大学の友人である学生や教員)が書いた短編小説や随筆を集めて一冊にした『キッサン・サーペー小説随筆集』に収録される。それが3年間で1万部売れた。その後「愛する人」は、戦争が終わり、ビルマが独立した後の1955年のウー・ヌ時代にも出版された、キッサン・サーペー文学の本に収録された。さらにその後もゾージーの作品集などで、1961年,1962年、1993年、1999年と再版され、今日e-booksでゾージーで引けば、他の作品同様「愛する人」も簡単に読むことができるようになっている。

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[作家ゾージー]
1962年 シュマワ社版(第3版、初版1955年)
1999年 シュエ・サーペイ・タイッ 社版
ゾージー(Zawgyi 1907-1990)はミャンマーでは有名な作家で、ミャンマーの教育界、文学界に大変な影響を与えた。短編小説はその後それほど書いていないが、有名な詩を多数書いている。図書館の司書、特にラングーン大学、ミャンマー大学総合図書館の館長を長らく務めた。ビルマ文学研究者として研究書も発表、ミャンマーの学校の教科書の編纂にも携わった時期がある。特に1930年代のキッサン・サーペー文学運動の3人の代表的作家のうちの一人として有名で、3人の代表作家とは、テイパン・マウンワ、ミントゥウン、そしてゾージーである。その中のミントゥウンは、大阪外国語大学(現在の大阪大学外国語学部)の客員教授として、何年か大阪に住んでビルマ語、ビルマ文学の教鞭をとられたことがあり、日本とも縁が深い。

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[ピャーボンとゾージー図書館]
(講演資料から)
(講演資料から)
現在のピャーボンには、1990年頃に設立されたゾージー図書館がある。高橋さんもこの図書館には2回行かれたそうだ。とてもオープンな図書館で、10数年前の訪問時には夕方になると町の人たちがみんな集まって来て、雑誌を読んだり、新聞を読んだり、学生さんたちはレポートを書くために書誌を調べたり、外国人の高橋さんが行ってもすごくオープンで、「外国から来たんですか、何が知りたいんですか、ゾージーの本ならいろいろありますよ」と司書の人たちが親切だったと回想された。

そしてそんな調査をしながら、高橋さんははっと思いついたという。ゾージーの作品集、特に短編作品は9編くらいあり、そのうち7編はすでに翻訳して新聞に発表したことがあったがこの「愛する人」だけは、少し読んで、いかにも恋愛小説なのが気恥ずかしく、訳さないままにしていた作品だった。ところが今回のこのモヒンガー調査で、読み直してみると、これはひょっとしたら作家ゾージーが自分の人生を描いているのではないかと、思うようになった。というのもゾージーはピャーボン出身だが、父親は早いうちに亡くなり、裕福なおじさん—おそらく、稲作、精米所またはそれにかかわる大きな事業を手掛けた—に育てられ、ピャーボンからラングーン大学に学費の支援を得て進学した。1929年の大恐慌で、家の家業がまったく傾いてしまったということが他の本に記録されている。結局大学院を修了して、ダブリンに図書館学の勉強にほんの短期間1年くらい留学し、あとはとにかく大学でひたすら仕事をしている。もしかしたら「愛する人」はエーヤーワディ・デルタでの恐慌の体験を書いているのではないか、そう気が付いたという。すべてが激変してしまったその悲しみ、バミャインはチョセインが好きなのに思っていても何も言わない、いつまでも甘美な日々がずっと続くと思っていたのに突然迎える彼女の死という結末。それはもしかしたら恐慌で状況が一変したエーヤーワディ・デルタのことを書いていたのかもしれないと考えるようになった。思い過ごしかもしれないが、この物悲しいモヒンガー恋愛小説は作家ゾージーの人生をもとにして書かれているのかもしれない。

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[モヒンガーは恋愛小説によって国民食に]
結論として、モヒンガーはこの恋愛小説によって国民食になった可能性があると考えている。「愛する人」は何度も何度も再版されている。他方1979年に出された5巻本の『ミャンマー辞典』にはモヒンガーについて、「麺を、炒り米、きな粉、魚、バナナの芯などと調理したとろみをつけた汁、または黒コショウを聞かせた汁などと混ぜて食す食品」と記載されている。魚、バナナの芯を含むこの記述は「愛する人」のそれに近い。たぶんこの時期までに、ミャンマーの多くの人々にモヒンガーはエーヤーワディ・デルタ式であるというイメージが広まっていたのではと、考える。

王朝時代にはモヒンガーはそれほど広く食べられてはいなかった可能性があり、国民食は作られる、という考え方からも、作られる理由、条件はいろいろあると思うが、今回は文献、歴史研究でそのルーツを探ってみた。

モヒンガーというのは朝食としてよく食べられるが、小腹がすいた時や、大人数を招く誕生日、法要の初七日などでも供される。ミャンマーの初七日はとても重要で、その朝にお坊さんを招き、友人知り合いを招いて、死者に本当のお別れをする。魂が離れて自由になる日、その時に供されるのが、モヒンガーである。

今のミャンマーは大変悲しい状態にあり、悲しいモヒンガーが食べられている。ミャンマーに早く平和が戻って、多くの国民が望むことが実現し、楽しく美味しいモヒンガーが食べられる日が早く来るように願っている、として高橋さんは講演を終えられた。

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[質疑応答]
質疑応答では、参加者のそれぞれの立場から活発な議論が交わされた。

コメントとしては、まず「文学、モヒンガーについてもさることながら朗読が素晴らしかった」「モンティとモヒンガーは王朝時代の文献では麺類を指したという点では同じというのは新しい知見」とあった。続いて「地域のローカルフードがメディアを介して、いろんな人に食され、解釈され、ナショナルな国民食として普及していく、その中で文学作品というのがある、という点は改めて考えさせられた」「ミャンマー観光省の"Myanmar Be Enchanted"のお祭りと食べ物を確認してみたところ、食べ物を紹介するページの一番目に、モヒンガーが出ていた」「海外へのモヒンガー輸出については、ブランド品のペースト状のもの等は海外移住労働者も増えていて売られている」とのコメントもあった。さらに「シャン州出身の母はヤンゴン大学に入って(1965年頃)ヤンゴンに来て初めてモヒンガーを食べた、と言っていた。それがたまたま食べていなかったのか、シャン高原でモヒンガーを作っていなかったのかはわからない」「ミャンマーの料理本では、ヤカイン・モンティは別の項目であがっている」「マンダレーではモヒンガーよりマンダレー・モンティの方がポピュラーでは?」「モヒンガーはトッピングが自由になるのがよい」等々あった。

また質問と回答についても簡単に記しておく。

・「ハレの場でも初七日でも、場面を問わずとのことだが、催事によって何か違いがあるのか」
⇒基本的にモヒンガーは地方や家庭、お店によって違いはありバリエーションはいっぱいある。

・「ミャンマーフォントにゾージーという名前のフォントがあるが、何か関係があるのか」 ⇒作家のゾージーはペンネームで、ゾージーそのものには仙人の意味がある。しかしフォント名をゾージーとしたのには作家のゾージーにもかけた、関係がある可能性もあるかもしれない。

・日本人が好みそうなモヒンガーのレシピを教えてください。
⇒鯖缶とそうめんを使ってできるレシピを後で配布します。

・「モヒンガーを観光資源化しようという動きはあるか」
⇒外国人向けモヒンガーというのはレストランで出されている。魚の生臭さを軽くしたり、外国人向けにちょっとアレンジしたり。ラーメンが日本食として認識されるのに日本の映画『タンポポ』の効果もあるようだが、モヒンガーについてはわからない。

・「海外に移住したミャンマー人にとっても移住先で食べたくなる故郷の味と考えてよいか、ミャンマー移民がモヒンガーを提供しているレストランは世界に多くあるか」
⇒故国の味として思い出すのは、モヒンガーもその一つと言える、必ずメニューに入ってくるだろう。
多数に供する単品メニューとしては、それ以外にオンノカウスェ(ココナッツヌードル)とダンバウ(インド料理、鶏肉の炊き込みご飯)があるが、高血圧の人には勧められない等もあるので、モヒンガーは万人向け、誰もが好きといえる。

・「日本の麺料理はラーメンなどの場合、中国由来と言う感覚が強い。モヒンガーにはラーメンのようなもとは外来のものという感覚はあるか」
⇒実は研究中。モヒンガーは今やミャンマーの国民食だが、もともとは中国料理の影響も受けているのではと考えている。粉を作り、それで麺を作る、細麺になったり、太麺になったり、平たくしたり、それは中国でも作るので、マンダレーの王宮時代は、中国、雲南地方との交流が非常に盛んにおこなわれていて、当時のビルマ王朝はお米をたくさん中国から買っていた。モヒンガーがだんだん麺料理としてなりたってきた背景には、中国料理の影響があるのではと思う。
またモヒンガーのモンという言葉、モンというのは小麦、お米の粉で作ったものを指し、甘くなればケーキ、お饅頭でも、モンと言う。中国語の麺と関係があるのか、北京官話より雲南地方のかつての100年以上前の、雲南地方の中国語の影響があったかもしれない」
なお、関連して「起源は要調査だが、発音がモンと類似した雲南方言の中国語はある」とのコメントもあった。

・「ヤカイン・モヒンガーは、エーヤーワディ・デルタ地域のモヒンガーとはちょっと違う、別ルートと考えるのか、どう考えたらいいのか」
⇒ヤカイン・モンティはとても有名で、スープ麺だったら、かなり辛いがさっぱりした、シーフードの麺。そこに細い麺を入れる、またはドライヌードル、タレを絡ませて食べる。ヤカイン・モヒンガーについてはシドニーのヤカイン民族協会に聞いてみる。

・「現在ミャンマー在住、レストランにモヒンガーがなくて、シャンカウスェを出す店が結構多い。将来的にモヒンガーと並んでシャンカウスェが国民食になる可能性は?」
⇒シャンカウスェは、シャン州から伝わって来たドライヌードルで、タレに絡めていただく。シャンカウスェがモヒンガーを抜いて国民食になる可能性があるかどうかはわかりません。
これに、関連して「ヤンゴンにシャン料理屋が増えてくるのは1990年代から。ヤンゴンに来たシャン料理はシャンである程度洗練されたものが入ってきて店になっている。庶民のものという段階でヤンゴンに入ってきたわけではないのと、高橋さんが言われたように仏教の行事食という側面がモヒンガーにはあるので、モヒンガーの存在感は強いのでは」というコメントがあった。

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追記
その後で以下の修正と追加情報があった。

  1. 講演資料のうち、小説「愛する人」のビルマ語タイトルが一か所မဲ့ となっていたが、မည့်(全体としてはကြင်မည့်သူ)であるとの修正。
  2. シャン州出身の母親が「ヤンゴンに来るまではモヒンガーを食べたーことがない」と紹介された方から、母親に確認したところ、「イン・モヒンガー」と呼ばれるインレー湖で取れた魚で作った、サラサラのスープのモヒンガーは食べていたとの訂正があった。
  3. 「ヤカイン・モヒンガー」とはどんなものか「ヤカイン・モンティ」とは別物なのかという点について、「シドニー・ヤカイン協会の人に聞いたところ、ヤカイン・モヒンガーはない、ただのモヒンガーのことだろうとのこと、彼らはモヒンガーはビルマ族の食べ物だと認識していました。ヤカイン・モンティは、その汁を海魚で作るのが特徴で、特に太刀魚が使われる。さらっとしたスープは唐辛子でかなり辛く味付けしている」とのことです。
  4. 高橋さんから「日本で手に入りやすい材料で、できる限り現地の味に近づけて、を念頭においたレシピの一例」が送られてきた。
(記事執筆:原田正美)
<無断転載ご遠慮ください>
モヒンガー
4―5人分

  • そうめん 4束
  • さばの水煮缶(190グラム程度のサイズ)
  • 玉ねぎ(中)2個 荒くざく切りに
  • ショウガ ひとかけ みじん切り
  • ニンニク ひとかけ みじん切り
  • レモンの皮 少々 みじん切り
  • ターメリック 少々
  • パプリカ 少々
  • きな粉 適量
  • 醤油
  • サラダ油
  • 水 2リットル弱

薬味・トッピング
  • アサツキかコリアンダーのみじん切り、唐辛子フレーク、レモンのくし形切り
  • ゆで卵、さつま揚げなど


  1. 深鍋の底にサラダ油を熱し、まずショウガを炒める。次に玉ねぎを加えて透き通るまで炒める。そしてニンニクを加えて香りが出るまで炒める。焦がさないようご注意を。最後にレモンの皮のみじん切りを加えてさっと炒める。 
  2. さばの水煮缶を開けて、水分とさばを分けます。1.にさばの身の一部を混ぜてさっと炒めながら、ターメリックを振り入れます。ターメリックよりは控えめの量でパプリカも振ります。これでエスニックっぽい魅惑的な香りが広がります。
  3. 以上にさばの水煮缶の残りの水分を入れ、水を足して全体で2リットルにします。
  4. 沸騰したら、スープをかき混ぜながらきな粉を適量足します。コクを出すのととろみのためですのでお好みの量を。玉ねぎが柔らかくなってきたら残りのさばの身を入れてかき混ぜながら煮続けます。さば缶のさばはすでに調理してあるので長時間煮る必要はありません。
  5. 味を見ながら適宜醤油、塩を足します。風味が足りないと思ったら顆粒状のかつおだし、料理酒適量を加えて下さい (ミャンマーでは味の素を使うことが多いのですが、その代りに)全体で10ー15分煮て玉ねぎがすっかり煮えたらモヒンガー・スープの出来上がり。
  6. あらかじめゆでておいたそうめんを丼に入れ、熱々のモヒンガー・スープをかけてどうぞ。
薬味にアサツキかコリアンダーのみじん切り、唐辛子フレーク、レモンのくし形切りをしぼって。醤油をたらしても可。ゆで卵やさつま揚げなど、トッピングを加えればおいしさ倍増!

以上は日本の家庭で作るお手軽メニューです。

より本場の味に近づけたいなら、レモンの皮ではなくレモングラスの茎を、醤油ではなくナンプラー(魚醤)を、そうめんではなくビーフン(米粉)で、レモンではなくライムを。トッピングに豆のフリッターを添えて。それとミャンマーではたいていバナナの若芽の茎の輪切りが入っています。この食感に近づけたいなら、レンコンの薄切り、またはタケノコの細切り缶詰めを使う手があります。炒めるところから混ぜて下さい。スープが染みた味がまたおいしいです。

モヒンガーは個人やお店の好みを自由に反映した懐の深い料理です。固く考えずに楽しんで作って食べましょう。
(高橋ゆり)
アンドモア
今回お話の高橋ゆりさんの関連情報は、以下です。
いずれも、基本的にご本人から情報提供をいただきました。

1. 『ゾージー短編小説集 』 (1990)
ビルマ語原題 " ဇော်ဂျီဝတ္တုပေါင်းချုပ် "
『愛する人』 ( ကြင်မည့်သူ ) を含む短編小説10 編を収録。

https://www.mmbookdownload.com/book_reader.html?file=1172


2. 「 オーストラリア国立大学ミャンマー語(ビルマ)語コース」
正式名称:Australian National University Burmese Program

本コースは大学の授業を完全オンラインで実施する2年制(4レベル)コースです。学位取得を目的としなければ、高卒以上ならどなたでも割引授業料で受講できます。試験やアドバイスなど、正規の学生と対等の指導が受けられます。今、世界各国からこのコースを受講する方々が増えています。すでにミャンマーにかかわるお仕事をされている方にも最適。毎年2月下旬と7月下旬にコースを開始します。

https://www.open.edu.au/courses/subjects?keyword=BURM1002&viewType=CompareView

ご質問は下記へどうぞ。(高橋ゆり)

yuri.takahashi@anu.edu.au

3.ミャンマー文学関連の論考

「現代文学と作家たち」田村克己・根本敬(編)『暮らしがわかるアジア読本 ビルマ』河出書房新社、1997年

「出版事情 ―検閲全廃とジャーネー」田村克己・松田正彦(編)『ミャンマーを知るための60章」明石書店、2013年


4. ミャンマー文学の翻訳書

『変わりゆくのはこの世のことわり』テイッパン・マウン・ワ作、髙橋ゆり訳
てらいんく刊 2001年
https://www.amazon.co.jp/%E5%A4%89%E3%82%8F%E3%82%...

『マヌサーリー』ミンテインカ作、髙橋ゆり訳
てらいんく刊 2004年
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%9E%E3%83%8C%E3%82%...
(『変わりゆくのはこの世のことわり』
テイッパン・マウン・ワ作、髙橋ゆり訳
てらいんく刊 2001年)
(『マヌサーリー』
ミンテインカ作、髙橋ゆり訳
てらいんく刊 2004年)
5.ミャンマー古典歌謡のDVD

ミャンマーの古典歌謡を歌ったDVDを3枚リリースしております。ミャンマーで2枚発表し、内1枚は私が英訳をつけ、オーストラリアで再発表しました。非売品でお手元にお届けしにくいのですが、オンライン化などを検討中。

(1)Tribute to U Pyone Cho (ピョンチョウに捧ぐ)
20世紀の初めにミャンマーで活躍したシンガー・ソング・ライター、作家、編集者のピョンチョウが書いた仏教歌とともに彼を讃えたオリジナル曲を添えた作品集です。私の音楽の指導者である伝統楽団バンドリーダー、イェーナインリンと共同で2012年に発表しました。オーストラリアで制作した英訳字幕版(高橋ゆり訳)は2013年発表です。
Tribute to U Pyone Cho (ピョンチョウに捧ぐ)
緬・英DVD 2枚セット 2013 カバー
(2)Saing Waig hnin Thachinmya (サインワインで唄う歌)
ミャンマーのスタンダード懐メロ歌曲を集めた作品です。よく知られた曲ばかりで、今はポップス・バンドで演奏されることが多いのを、イェーナインリンによる編曲、彼の伝統バンドの演奏で歌いました。2015年にリリースしました。
Saing Waig hnin Thachinmya
(サインワインで歌う歌)2015 カバー
これからの「楽平家オンラインサロン」
9月は、いつも通り第2水曜日の8日に、ミャンマーの少数民族、シャンの社会や文化を長く研究されてきている、高谷紀夫さんが、民族間の関係性について、お話しされます。

10月は13日に、我が国のアイヌ民族、ミャンマーのナガ民族はじめ東南アジア各地、またモンゴルなどアジアからヨーロッパにかけて広く分布する「口琴」について、 直川礼緒さんがお話をされます。実際に、不思議な楽器「口琴」の音色も聞いていただきます。
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